ベートーヴェン・プロジェクト第6回
三鷹芸術文化センター風のホール
2001.5.6
円熟のオペラ、最後の輝き
W.A.モーツァルト:《皇帝ティートの慈悲》序曲K.621
オーストリア皇帝レオポルト2世のボヘミア国王(兼任)としての戴冠式に際し、祝賀のためのオペラ・セリア上演を画策したプラハの政府は、はじめサリエリに作曲を依頼しましたが断られ、モーツァルトを指名しました。ウィーンの宮廷筋はモーツァルトの起用に猛反対を唱えましたが、プラハでのモーツァルト人気は高く、結果、《皇帝ティートの慈悲》はプラハ国立劇場でモーツァルト自身の指揮によって上演の運びとなります。時に1791年秋、モーツァルトはその3ヶ月後にこの世を去りました。
劇の内容は、ローマ皇帝ティートが、信頼する部下や妃候補に裏切られながらも、罪を悔いた彼らを大いなる慈悲をもって許してやるというもの。皇帝万歳のおべんちゃらムードが濃厚ですが、上演に臨席した皇妃はこのオペラを「ドイツ風のゴミ」だと酷評しました。さらに悲しいかなこれまで多くの批評家たちによっても駄作とされてきました。モーツァルト自身がオペラ・セリアという堅苦しい旧式のジャンルに乗り気でなく、《魔笛》の作曲に注力していい加減な仕事をしたのではないか、そんな批判です。制作期間はわずか20日足らずで、レチタティーヴォ・セッコの部分は弟子のジェスマイヤーにまかせるなど、出来ばえが荒いことは確かです。しかし、スタンダールやゲーテは熱烈に礼賛していますし、事実、円熟したプロの技がなければ書けない音楽がここにあります。最近では、この作品の価値そのものを見直そうという前向きな風潮が高まっています。
S.Y./第2ヴァイオリン奏者
熊踊りって何?!
J.ハイドン:交響曲第82番ハ長調《熊》Hob.I:82
100曲以上にのぼるハイドンの交響曲の中で、第82番から第87番の全6作品は「パリ交響曲」と呼ばれ、1785年から86年にかけて(53〜4歳)パリのオーケストラの依頼により作曲されました。当時ハイドンはエステルハージ家の宮廷楽長でしたが、外部からの委嘱はこれが初めてであり、世界進出意欲作となります。その頃彼は既にヨーロッパ中の有名人になっていたものの、エステルハーザ宮殿に缶詰め状態だったので、田舎での作曲活動は不幸であると手紙に書いています。
パリはウィーンに負けず劣らず音楽の都であり、世界最大規模のオーケストラが存在しました。職業演奏家の他にアマチュアも多数在籍していましたが、選り抜きの奏者を集めていたので人気が高かったようです。資料によれば、エステルハージ楽団が多い時で総勢25名程であったのに対して、弦楽だけでも60名を超えるという大規模な2管編成であったのには驚きです。ちなみに指揮者陣には「ガヴォット」でおなじみのゴセックも顔を出しています。
《熊》という標題は19世紀になってからパリにて付けられたニックネームで、終楽章の冒頭部分が何でも「熊踊り」を連想させる(らしい?!)ことによりますが、何かの民族舞踊を意味しているのか、単なるイメージなのか実際よくわかっていません。ただ当時は、いわゆるハンガリー風やトルコ風と呼ばれる東方異国趣味が流行していた事は聞き及ぶところです。
《熊》はパリ交響曲で唯一、ドイツ・オーストリア的伝統の中で祝祭的な意味を持つハ長調を用いられていますので、ひときわ派手で堂々たる響きがあります。同時に、音楽の都パリへの賛美と羨望を知り得ますし、その後を左右する重要な作品であるともいえます。単に民俗風刺的面白さがあるだけでなく、100番代交響曲にも通じる大傑作であることも付け加えておきましょう。
T.W./コンサートマスター
21世紀は第4からベートーヴェンを見直そう
L.V.ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 Op.60
ベートーヴェンの交響曲の中でどこか異質な、軽いイメージを持たれがちなのが第4と第8ですが、それぞれの作曲時期は、ベートーヴェンの女性関係に大きな動きがあった頃と重なっています。そこにはやはり何かうきうきした心理が働いていることは確かなようです。
第4が書かれた1806年頃の相手は、夫と死別したばかりのヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人(旧姓ブルンズウィック)でした。ベートーヴェンのヨゼフィーネへの接近は、ピアノ教師としての立場で1804年から強まり、以後3年にわたって恋愛状態だったことが、熱烈な恋文が14通残されていることからわかっています(この間、すでにスケッチを始めていた第5《運命》の作曲は中断されました)。ヨゼフィーネとしては、愛のない結婚をさせられた挙げ句に25歳で未亡人となったところに、かねてより敬愛する33歳の音楽家から赤裸々な告白をされたわけで、少なからず心が揺れたことでありましょう。しかし結局は彼女の分別と、恐らくは周囲の圧力によって、ベートーヴェンとの結婚には至らなかったのですが、後に再婚してから生まれた娘が、ベートーヴェンの子かもしれないという説があるくらいですから、われらのルードヴィヒもなかなか頑張ったと言えます。
ところで、第4を作曲した頃のベートーヴェンは、とても羽振りがよかったこともわかっています。弟のカールが官吏として得ていた年収が250フローリンに対して、兄のそれは貴族からの年金、演奏会収入、楽譜出版権譲渡料、作曲料などで合計6500フローリン以上。カールを仮に400万円とすると、ルードヴィヒは1億円を超える金額です。当時はひどいインフレ状態だったとは言え、ベートーヴェンの「営業成績」は他の音楽家を圧倒しています。こうした経済的成功は、積極的な創作や大胆な恋愛を展開させうる、ひとりの男としての自信と連動していると思われます。ヴァイオリン協奏曲や《フィデリオ》(第1稿)が同時期の作品であることを思えば、第4もまたそうした自信に基づく挑戦と充実を示すものであって、決して軽視されるべきものではなく、むしろ21世紀の私たちにとっては、いかにベートーヴェンを聴くか(弾くか)といったことを考えるに絶好の「一里塚」として認識されるべきでしょう。
S.N./第2ヴァイオリン首席奏者
(禁)無断転載
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