ベートーヴェン・プロジェクト第1回
三鷹芸術文化センター・風のホール
1998.3.1
L.V.ベートーヴェン:ミサ曲ハ長調Op.86
<エロイカ>交響曲から3年、第4交響曲やヴァイオリン協奏曲、3曲の<ラズモフスキー・カルテット>、翌年の第5、第6交響曲などの「傑作の森」の渦中にある1807年に完成されたこのミサ曲は、後の<ミサ・ソレムニス>があまりにも輝いているためか、不当に低い評価が下され、あまり有名でないというのが現実です。しかしこれは決して駄作ではなく、むしろベートーヴェンの音楽全般にしばしば現われるやさしい癒しの気分と高度な職人技がかみ合った、他では聴けない極めて味わい深い声楽の秀作です。
ハイドンが楽長をしていたエステルハージ侯の依頼により、ベートーヴェンとしてはかなり入れ込んだ作品ですが、当のクライアントからは酷評されてしまい、最終的にはキンスキー侯に献呈されています。実はこの時期に至ってもベートーヴェンのナポレオンに対する憧れは消えておらず、このミサ曲をナポレオンへ献呈することが考えられた形跡もあるようです。
「私は今まで誰もしなかった仕方で歌詞を扱った」と作曲者は記しました。
確かに細部に至るまで神経が通い、しかも全曲として統一ある構成となっている点で、諸先輩の古典的ミサ曲にはないモダンさが感じられます。ミサ曲という決まりごとの多い曲種には、聴く側にも固定観念が強く形成されていたことで、初演当時は拒否反応が出てしまったのでしょう。実際にはミサ曲としての伝統を完全に無視するような暴挙は見られず、依頼者の要求としてのミサ典礼使用に相応しい内容となっています。
1.キリエ
アンダンテ・コン・モート・アッサイ・ヴィヴァーチェ・クワジ・
アレグレット・マ・ノン・トロッポ ハ長調 4分の2拍子
なんとも長ったらしいテンポ指示は、ベートーヴェンのテンポへのこだわりを示すと同時に、ミサの開始にあたって演奏者に対して心を穏やかに保つよう求めているように思われます。
キリエとは「我を憐れみたまえ」と神へ呼びかけるものですが、ハ長調という最も明るい調性もあいまって、少しも自虐性のない、むしろ純真無垢な心の発露と言うべき曲想に満ちています。
2.グローリア
アレグロ・コン・ブリオ ハ長調 4分の2拍子
神を讃美するグローリアは力強い合唱で始まり、ヘ長調に転調してテノール・ソロの荘厳な感謝の歌へ。次いでテンポが遅くなりヘ短調でアルト・ソロが「我らを憐れみ願いを聞き入れたまえ」と祈りを歌いますが、ここでのコーラスの応唱は非常に感動的です。
「主のみ聖なり、主のみ王なり」の歌詞に至るとハ長調に戻り、壮麗なフーガが展開され、「アーメン」の合唱ではたたみかけるような迫力さえ感じられます。
3.クレド
アレグロ・コン・ブリオ ハ長調 4分の3拍子
クレドとは「使徒信条」すなわちキリスト教徒としての最も基本的な認識を述べる章です。弱音で始まるところがミサ曲の伝統からはずれると言えますが、「我は信ず、唯一の神、全能の父」という意味の歌詞が弱音ながら鋭く発せられる中には明らかに確信がみなぎり、曲はすぐに光に満ちた調子となります。
「神よりの神、光よりの光」のくだりでは非常に現代的なリズムと強弱のコントラストによってスリリングな音楽が展開。中間部ではアダージョとなり、キリストの降誕と受難のいきさつがしみじみと、かつ劇的に歌われます。
始めのテンポに戻ってバスが歌うのはキリストの復活と勝利についてで、このあたりから対位法的緊密感が支配するようになり、終盤の信仰の告白に至ってのかなり複雑なフーガは、演奏者泣かせの部分です。
4.サンクトゥス
アダージョ イ長調 4分の4拍子
これは神への感謝の讃歌です。第1部は実に神々しく、また晴れやかな透明感のある合唱で開始されます。「主の栄光は天に満つ」からニ長調のアレグロとなり、「ホザンナ」の歌詞が高らかに鳴り響きます。
第2部はヘ長調。独唱の4人が歌い始めるベネディクトゥス(ほむべきかな)は、全曲中最も心にしみる美しさです。楽想は全く違いますが、<田園交響曲>の精神がここにもあるように思えます。最後にイ長調に戻って短いフーガとなり、決然とした結尾を迎えます。
5.アニュス・デイ
ポコ・アンダンテ ハ短調 8分の12拍子
「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみ、平安を与えたまえ」と歌われる最後の章は、重々しく深刻な調子で開始されながら、次第に晴れやかなハ長調の世界が現われ、「ミゼレーレ」(憐れみたまえ)がつぶやかれる独創的部分を経て、最終的には冒頭のキリエのテーマが帰ってきます。ここに至り、ミサ曲という形式を通じてベートーヴェンが真に「平安」を求める人間のあり方を表現したことがひしと伝わってくるのです。
S.N./第2ヴァイオリン奏者
L.V.ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調Op.55<エロイカ>
この曲につけられた標題は、正しくは<シンフォニア・エロイカ−ある英雄の想い出のために>というものです。1804年の5月にナポレオン・ボナパルトが皇帝になったという知らせを聞いたベートーヴェンは「あの男もまた平凡な人間に過ぎなかった。今や全人類の権利を踏みにじり、自分の野望を満足させようというのだ。」と激怒し、<ボナパルト>と題されていた自筆楽譜の表紙を破り捨てたという逸話が有名です。後世の研究家は、この交響曲とナポレオンだけを直結して考えるのは必ずしも正しくないと説いてきており、1801年作曲の<プロメテウスの創造物>におけるプロメテウスや、1805年のオペラ<フィデリオ>のレオノーレ、1810年の劇音楽<エグモント>の主人公などに共通の、「苦悩から歓喜へ」というベートーヴェンの哲学に叶う人物像(=英雄像)が普遍的にイメージされているのだと言われています。
しかしながら、フランス革命の混乱を収拾し、その理念を世界に広める役割を自認していたナポレオンは、当時フランスの敵国だったオーストリア、ウィーンの文化人の間でも民衆の開放者・自由の旗手として人気を得ていたのは事実なようで、33歳のベートーヴェンはそんな時代の空気を彼なりに分析して、新しい思想のもとでの平和で安定した社会を希求していたでしょうし、折しも<遺書>まで書いた人生最大の危機から抜け出して旺盛な創作意欲に燃え始めた時期にあたり、ナポレオンというキャラクターの存在と社会の動きが強いモチベーションになってこのようにスケールの大きな交響曲が生まれたと考えても差しつかえないでしょう。
演奏時間で約50分という長さは、ベートーヴェンの交響曲では<第9>に次ぐもので、内容の完成度としても作曲者自ら<第9>を作る前までは最良の交響曲と述べていたと言われます。
今日の演奏では、従来は無視されていたベートーヴェンのメトロノームテンポ指示を再認識し、そのテンポのセンスからこそ生まれるシャープさや高揚感をできるだけ表現したいと思っています。また、第1と第2のヴァイオリンパートが対面する古典的配置で演奏しますが、これはこの曲のオーケストレーションにおける「ステレオ効果」を意識したものです。
第1楽章
アレグロ・コン・ブリオ 変ホ長調 4分の3拍子
冒頭の強い2つの和音に次いでチェロに現われるのが第1主題。別に2つの楽想を駆使しながら、第2主題が出るまでに83小節を費やします。途中で執拗に連打される和音は遅いテンポで演奏すると鈍重で不可解なだけになりがちな部分です。
提示部が繰り返された後の展開部は対位法的書法で非常に綿密な音楽が進行しますが、短調になった第1主題の低弦の上でヴァイオリンがシンコペーションで掛け合いをする箇所については、この曲の非公開の初演時でオーケストラが完全に混乱してしまい、始めからやりなおしたというエピソードが残されています。
再現部は割合に型どおりですが、コーダ(結尾部)に入ってからが第2の展開部かと思わせる充実ぶりで、まさに英雄的内容となっています。
第2楽章
アダージョ・アッサイ ハ短調 4分の2拍子
ベートーヴェンにおいては運命的調性とも言えるハ短調による<葬送行進曲>です。「英雄の死」のイメージであることは確かですが、作曲当時の音楽界では、戦争に明け暮れる時代を反映してか葬送イメージの音楽が一種のブームであったという話もあります。
曲は寂しい悲愴感が漂うテーマに始まり、明るいハ長調の中間部、テーマの回帰を経て、壮大なフーガ調のクライマックスに至り、溜息のように終わります。
第3楽章
アレグロ・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子
いつも何かにせきたてられている感じが支配するスケルツォ楽章ですが、あえて描写的にとらえれば、「英雄の心の内の焦燥」とでも言えるでしょうか。ベートーヴェンの交響曲では<第9>とこの曲を除いて全てホルンは2本の指定にとどまっているだけに、中間部で活躍する3本のホルンは、全曲を通じて大きな特色であり、聴きどころのひとつです。
第4楽章
アレグロ・モルト 変ホ長調 4分の2拍子
何事が起きたのかと思わせる衝撃的開始の後、<プロメテウスの創造物>のフィナーレで使われたのと同じ音型による第1主題の基本型がピチカートで現われます。プロメテウスは神話上の存在ながら、ゼウスの怒りもものともせずに人類に火を与えた偉業をもって、ベートーヴェン好みの英雄像となっているものです。このテーマが3回変奏されて第2主題となり、これまた凝った変奏となりますが、再び第1主題が出てからは第2主題もからめながら非常に息の長いクライマックスへの坂を登っていきます。一旦ピアニッシモで落ち着いたかと見えてまたもや次の興奮へ突進。大きなフェルマータでテンポが落ち、ようやく思い直したような第2主題の再現によって平和で雄大な気分となりますが、やがて不気味なまでの静寂が最後の嵐を準備します。コーダに入ってテンポは過去最高のプレストとなり、実に圧倒的迫力をもって全曲が閉じられます。
S.N./第2ヴァイオリン奏者
(禁)無断転載
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