Ep 24

砂漠の旅

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Ep25.それぞれの想い

岩と砂の丘陵が続く不毛のナフド砂漠を、1ヶ月近くかかって越えたアーディルのキャラバンとユースフたちは、ようやくサワード地方に入った。

サワードは大河の流れる温暖な緑豊かな平原だ。荒涼とした荒野や丘陵地を越えてきた者には、その風景は地上の楽園に見える。ディマシュクの緑園はもっとこぢんまりとして、その代わり凝縮したような美しさ、宝石箱にぎっしり詰まった宝石のような美しさ持っていたが、サワードの緑野は大河に沿ってどこまでも続き、ゆったりとしていて、なめらかに輝く絹のローブを広げたような美しさだった。

大河アルフラートの支流に面したサワードの最初の町で、彼らはゆっくりと休養を取った。ここへたどり着くのに時間はかかったが、幸い大したトラブルもなく、皆疲れてはいたものの病人もけが人も出ていない。そして、ここまで来ればバグダードまではあとわずかだった。

その町に滞在して2日目の午後のこと、フィトナは侍女やラハマがバグダード入りに備えて、身の回りを整えるべく忙しく立ち回って不在なのをいいことに、こっそりとアバーヤとブルクーで身を隠して外へ出ようとしていた。しかし、中庭から裏口へ回る途中でユースフに見つかってしまった。

「姫、お一人でどちらへ?」

ユースフは迷惑そうな顔をして詰問した。

「裏の河がきれいだと聞いたから、見たいと思ったの。今、ラハマもマーディヤたちもいないから……。ハーンのすぐ裏なら一人でも行けるかなと思って」

顔色をうかがうようにチラチラと見上げながらフィトナは言い訳したが、今にも文句を言いそうなユースフの様子に、しおらしくうつむいて先に謝った。

「ごめんなさい、お兄様。わたくし、また勝手なことをしようとしていたわ。でもわたくしだって、時には一人になりたい時があるのよ」

ユースフはため息をついた。確かに、四六時中乳母や侍女に世話され続けているこの姫君にも、時には一人になる自由が与えられてもいいはずだ。ユースフは彼女の小さな願いを叶えてやることにした。ユースフがすぐに側へ駆けつけられる距離に離れて付き添うという条件で、フィトナは晴れてハーンの外へ出ることができた。

ハーンの裏口からナツメヤシが生い茂る河の土手まではすぐだった。フィトナは河を眺めながら土手をのんびりと散歩した。支流とはいえ河は結構な幅があり、河岸にはキャラバンのラクダたちが群れて水を飲んでいる。爽やかな音を立てて流れる青い流れの向こうに鮮やかな緑の帯が広がり、のどかな美しい眺めだった。

フィトナは同じオアシスでもディマシュクとは違うその風景を眺めて、今は遠くなってしまったディマシュクを想った。故郷の懐かしさは感傷を運び、父も母も弟も自分のことを心配しているだろうと思うと胸が痛んだが、ハールーンを助けるという使命に燃えている彼女だから、帰りたいとは思わなかった。とにかくハールーンの秘密の期限であるサファル月を無事に過ぎるまでは、このまま彼女の側にいて守らなければ――フィトナは河の向こうを見つめながら、その決意を新たにしていた。

ユースフはその時、フィトナの周囲に注意深く気を配りながら、フィトナから少し離れて歩いていたが、土手を走ってやって来る少年にいち早く気づいて、フィトナの側へ駆け寄ろうとした。だがその少年がハールーンだったので、ユースフは足を止めた。

ハールーンはキョロキョロと辺りを見回しながら河上の方からやって来て、フィトナに気づくとその場に止まり躊躇したが、フィトナもハールーンに気づいて近寄ったのでフィトナに声をかけた。誰かを探しに来たようで、フィトナが首を横に振るとすぐに彼女を通り越して立ち去ろうとした。しかし、フィトナはハールーンを呼び止めて話をし始めた。ナツメヤシの木の陰から見ていたユースフにはその声は聞こえなかったが、ブルクーを外し、親しげにあれこれと話しかけるフィトナの顔は嬉しそうで、その目は輝いていた。

ユースフはその様子から、フィトナの想いはハールーンが女であるとわかった後でもあまり変わってないように感じた。フィトナはこの旅行中、秘密を守るという使命感のために、よそよそしいぐらいハールーンから遠ざかっていた。たとえ離れていてもよそよそしくしていても、二人は秘密の姉妹であるということがフィトナの心の支えになっていたようだが、やはり内心は寂しかったのだろう。

熱を帯びた目でハールーンを見つめるフィトナは、今でもハールーンのことが好きでたまらないのだ。しかし同性にそこまで想い入れられるフィトナの気持ちは、ユースフには理解しがたいものだった。

それよりもユースフは別の感慨にとらわれた。フィトナとハールーン、いやフィトナとハルワ――二人は同じ14歳の少女なのにこれほどまでに違っているとは――

二人とも、まるで昔話の王子や王女のように整った見目のよい顔をしているが、フィトナは黒目がちの潤んだ瞳に、ふっくらとした頬の優しい顔立ちなのに対し、ハルワは大きな目がくっきりと際立ち、凛々しい眉が涼やかな表情を作っている。

体つきも、今はフィトナもずいぶん痩せてしまったが、それでも肩のラインがなだらかで全体的に丸みを帯びているシルエットなのに対し、ハルワは少年として見れば痩せぎすで華奢な感じだが、フィトナと並ぶと、背は少し高いぐらいなのに肩幅があり手足が長い。すらりと伸びた体躯はアリフ*1の一文字のようにまっすぐでしなやかだ。あの細身であの瞬発力ならば、おそらく無駄な肉など少しもないのだろう。もちろん剣を握れば、その細い腕にはしっかりと筋肉が盛り上がるのだ。

生い立ちも日々の暮らしも全く異なると、全く違う少女ができあがるのものなのだろうか――そんなことをユースフが考えていると、背後で人の気配がして、彼は振り向いた。アーディルが足音を忍ばせてこちらへやって来るところだった。

ユースフは慌てた。目の前の光景はまるっきり、若い男女の逢い引きにしか見えない。しかし、アーディルは顔色も変えず、ユースフと並んで木の陰からフィトナとハールーンを眺め、「ふむ、やはりお似合いだな、あの二人」と平然とつぶやいた。

「アーディル殿、言っておきますが、あの二人は何でもありませんよ」

ユースフが焦って小声で念押しした。だが、アーディルは微笑さえ浮かべてユースフに答えた。

「そうかな? フィトナ姫は喜んでいるように見えるが。ユースフ殿、きみが心配することはない。ハールーンをここへ呼んだのはわたしなのだから」

ユースフは目をむいた。

「アーディル殿! なぜそのようなことを?」

「姫が会いたがっているように思えたからだよ。わたしは商人だからね。自分の気にかけている人間が今何を欲しているのか、常に把握しているように習慣づいているのだ。わたしは姫のために、できる限りのことをしたいと思っている。だからこのチャンスを逃すまいと思ってね。姫に喜んでいただけたようで、わたしも満足だ」

アーディルは嬉しそうに笑った。恋敵かもしれない少年を、自分の想い人に会わせて喜んでいるなんて普通じゃない、とユースフは思った。余裕を見せているのか、それともただの愚か者か――どちらにしろ、誤解は解いておかねばなるまい。

「アーディル殿、確かにあの二人は顔見知りで、親しく言葉を交わすこともあります。だがそれは、あくまで子供同士の友達付き合いです。ハールーンはまだガキだ。姫が相手にするような男じゃありませんよ。アッラーにかけて、あの二人はそんな関係じゃありません」

アーディルはクスリと笑ってユースフを見た。

「わたしは疑っているなどとは言ってないよ。たとえフィトナ姫があの少年のことを好いているとしても、わたしは構わないがね。わたしは様々なものを姫に差し上げることができるが、容姿に関してはわたしの財力を持ってしても何もできないからな。その分野ではあの少年に譲るしかないだろう。姫のお心がわたしにないのは残念だが、強要はできない。わたしは姫を心から愛しているからね。醜い嫉妬などして、姫を困らせることなど絶対にしたくない。だがまあ、きみがそこまで言うのなら、きみの言うことを信じよう」

ひそひそと話す二人の目の前で、話が一段落したのかハールーンがそそくさとフィトナから離れ、急ぎ足で河下の方へ去ろうとしていた。

「おや、もう行ってしまうのか。姫はまだ話したそうなのに。やれやれ、彼もわたしのことを気にしているらしい」

アーディルはため息をついてから、ユースフの側を離れ、ハールーンの後を追った。残されたユースフは辺りを見回し誰もいないのを確かめると、河辺にぽつんと立っているフィトナの所へ行った。フィトナはまだ興奮が残っている様子で、「久しぶりにハールーンと話したわ」とうわずった声でユースフに言った。

「アーディル様に話があるからって呼ばれて来たのですって。お兄様、見かけなかったかしら?」

「今、そこで会いました。ほら、二人はもう向こうで話してますよ」

フィトナがユースフの指し示す方を見ると、もう声も届かないほど離れた所で、アーディルとハールーンが立ち話をしていた。ユースフは、アーディルがわざとフィトナのいるこの河辺にハールーンを呼び出したことを、フィトナには言わないでおこうと思った。それがアーディルに対する礼儀のような気がした。

河を渡る風にアバーヤが翻り、頭被いがはずれそうになるのを手で押さえながら、フィトナはユースフを振り返った。

「ねえ、お兄様、ハールーンは、いえハルワお姉様はやっぱり、バグダードからジャズィーラへ向かうのですって。今伺ったの。サファル月が来る前に確かめたいことがあるとおっしゃっていたわ」

「そうですか」

束ねた長い髪を風に揺らしながら、ユースフはつぶやくように答えた。また彼女が遠ざかってしまうと考えただけで、胸がうずいた。

「できるなら、わたくしも付いて行きたい。わたくしは何もできなくても、わたくしにはアミール・アブドッラーの娘として動かせる兵がいるのですもの。お姉様を守ることができるわ。でも無理ね。バグダードまで行くので精一杯だわ」

「当たり前でしょう。バグダードまでだって、ずいぶん無理をしてるのですから」

皮肉っぽく言葉を返すユースフを、フィトナはひたと見つめた。

「もし、お兄様に一部の兵だけ連れてジャズィーラまで行けと言ったら、お兄様は行って下さるかしら?」

「姫!」

ユースフも目を見開いてフィトナを見つめた。

「お姉様を守って下さるかしら、お兄様。もし、お姉様に危ないことがあったら」

ユースフは高鳴る胸を押さえ、視線を落として声を絞り出した。

「おれは姫の護衛隊長なのですよ。あるじをほっぽり出すなんてできるわけがない」

「そのあるじが命令するのよ。できないわけはないわ。わたくしのことなら大丈夫。どうにでもなります」

フィトナはユースフに微笑みかけた。

「お兄様は本当にまじめなのね。本当は、命令なんかなくったって、そうしたいのでしょう?」

ユースフは弾けたように顔を上げ、フィトナを見つめた。あっという間に顔が火照り、熱くなった。

「姫! おれは……」

「お兄様、お顔が赤くてよ」

照れて口ごもるユースフに、フィトナは再び微笑んだ。

「やっぱり、お兄様はお姉様のことがお好きなのね。お姉様のお名前、お兄様が誉めるのを聞いた時、そうじゃないかと思ったの。お兄様はずっと秘密を胸に秘めたまま、お姉様のことを想い続けてきたのだと」

秘められた恋というロマンティックな状況にあこがれて、フィトナがうっとりして言うと、ユースフは急に兄貴面になってフィトナにくぎを差した。

「あいつには絶対に言うなよ、フィトナ。あいつは自分のことで手一杯なのに、その上おれのことなんかで煩わせたくはない」

「わかっているわ。わたくしももう子供ではないもの。人の恋路に水を差すようなヤボナマネはしないつもりよ」

姫君らしくない崩れた言い方をませた口調で言うフィトナを、ユースフが怒ろうとすると、フィトナはまた彼をまっすぐに見つめた。

「わたくしもお姉様が大好きよ。お姉様には幸せになってほしいの。今まで苦労してらっしゃった分までもね。そのためには〈楽園の使者〉の手からお姉様を守らなければならないわ。お兄様、必ず、必ずお姉様を守って。お願いよ」

真剣に乞い願うフィトナの目をユースフも真剣に見返した。その目は今までフィトナが見たこともない、まじめでひたむきで熱情のこもった目だった。

「わかった。全力を尽くそう。あいつはあくまで自分の身は自分で守るつもりでいるが、もし、あいつが自分で自分の身を守れなくなった時は、必ずおれがあいつを守る。この生命に代えても」

その言葉は彼の深い愛情を映し、フィトナの胸を打った。まるで恋に恋するように、フィトナはユースフの恋心に再びうっとりしながら、彼の言葉にうなずいた。

4日後、彼らは都入りの準備を終えて、その町を出発した。河を越え、賑やかな町々を過ぎ、やがて大河アルフラートにさしかかった。悠久の時を流れる大河は堂々と平原を横切り、彼方まで続いていた。

河の行き先は見えない。それと同じように、ハールーン、ユースフ、フィトナ、アーディルのそれぞれが胸に抱える想いもまた、行き先は見えないままだ。進んでみなければ、行き着く所はわからない。運命を予め知っているものは、それを創られた神だけ――

そして、アルフラートを越えれば、その向こうには無秩序に郊外を広げている巨大な古の都、バグダードが彼らを待っているのだった。

(第2話 おわり)

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