2-Ep 25

楽園を求める者

Ep 2

Ep1.平安の都

アーディルの隊商とフィトナ姫、ユースフの小隊、それにアフマドとハールーンがバグダードに到着したのは、イード・アルアドハー*1の二日後のことだった。

イード・アルアドハーは断食明けの祭(イード・アルフィトル)と並ぶ大きな祭で、マッカ巡礼の最終日に動物を屠り犠牲として捧げるのに合わせ、全土で犠牲を捧げる習わしになっている。町でも村でも一斉に動物が屠られ、その日はあちらこちらに血の臭いがあふれるが、その尊い犠牲の血によって人々の恭順な信仰心が示され、神のお恵みを分かち合うことができる。人々は晴れやかな気持ちで盛大な祭を祝うのだった。

その賑やかな祭も終わり、街が祭の興奮から醒めた一時の白けた静けさを漂わせている中、一行はアーディルの屋敷に落ち着いた。

アーディルの大きな屋敷はディジュラ河*2の河岸、大商人たちの瀟洒な邸宅が立ち並ぶ地区にあった。三つの建物が棟合わせで建ち、それぞれが繋がっている。真ん中の一番大きな館がアーディルのもので、船着き場に出る道に面した手前の建物はアーディルの商売で使うハーンと倉庫になっていて、奥側の建物が姉のマルジャーンの館だった。

フィトナはマルジャーンの館の客となり、ユースフたち護衛兵にはハーンの部屋が用意された。アフマドとハールーンはアーディルの客となってアーディルの館に泊まることになった。辛く苦しい砂漠の旅から解放され一転して何もかも豪華な家に納まり、皆それぞれ夢心地でくつろいでいた。

「イード・アルアドハーが終わる前にバグダードに着ければよかったのだけど」

ゆったりと流れるディジュラ河を臨む涼やかな部屋で、マルジャーンはフィトナに飲み物を勧めながら言った。旅装をといて一段落した後、マルジャーンは夕涼みにフィトナを誘ったのだ。

「バグダードも郊外は戦があって荒れている所もあるけど、このあたりはとても賑やかなのよ。お祭もほんとに盛大で楽しいものなのに」

マルジャーンの言うとおり、バグダードは決して平安の都と謳われた古の栄華をそのままに誇っているわけではなかった。ハリーファの権威が落ち、ブワイフ家やサルジューク家がバグダードを占領した時何度も戦闘が行われたし、サルジューク家が政治を一手に担うようになっても、軍閥の覇権争いで郊外や街のあちこちで小規模な戦闘があり、建物が破壊されていた。彼らもバグダードへ入ってくる時、家々が壊れ、石やレンガのがれきと化している場所を通ってそれを見てきた。

しかし、バグダードの町はそれにもまして巨大で人々はしたたかだった。戦闘が終わり落ち着けば、いつの間にか人が住み着き、家々が再建され新たな街区が形成される。町の最も裕福な地区はいつも無傷で、町の経済や文化が失われることは決してなかった。

「いいんです、マルジャーン様。皆長旅で疲れていますし、お祭が終わった今のほうが静かで落ち着けますわ」

フィトナは飲み物を受け取りながらマルジャーンに答えた。甘いサトウキビのジュースに口をつけ、フィトナは河の流れを見やった。涼しい川風が頬をなで、とても気持ちのよい夕刻だ。

「本当に素晴らしいお屋敷ですわ、マルジャーン様。噂に名高いバグダードのディジュラ河をこんなに間近に見ることができて、静かで本当にきれいな所。これが平安の都ですのね」

「気に入っていただけてよかったわ。あなたをここまで連れてきたかいがあったわね。もちろん静けさも美しさもここにはあるけど、街にはもっと色々なものがあるわ。おいしい食べ物も美しい布や宝石も、たくさんのマスジドや難しいご本や、あなたが連れてきたウード弾きのような楽師や語り部や、それこそ、泥棒までもね」

マルジャーンは冗談めかしてフィトナに笑いかけ、フィトナもそれに答えて笑った。

「何でも集まってくるのよ、この町に。本当に良いものも悪いものも、ごちゃ混ぜにね。この町に住むには自分でそれを選り分けていかなくちゃならないけど、アーディルはよくやっているわ。ねえ、ディマシュクと比べてどうかしら?」

「ディマシュクも集まってきますわ。そういう町ですから。でもここのほうがずっと規模が大きいわ。比べものにならないぐらい」

フィトナの賞賛にマルジャーンは満足して微笑んだ。

「あなたのお父様からアーディルに書状が届いていたそうよ。しばらく滞在したらすぐディマシュクに帰ってくるようにって。でも滞在中のことも帰路のことも、あなたは心配しなくていいわ。心ゆくまでバグダードにいてちょうだい」

「ありがとうございます。マルジャーン様」

マルジャーンはまだかしこまっているフィトナの杯にジュースを注ぎ、さあ、もっと楽にして、と声をかけた。フィトナをもてなすことが楽しくてたまらない様子だった。

「ねえ、ゆっくり休んだら街を見に行きましょうよ。それにお友達を呼んでパーティーをしましょう。あのウード弾きに演奏させて。ね、みんな喜ぶわ、きっと」

フィトナの顔がさっと曇った。ハルワ=ハールーンはいつまでここにいるのだろう。すぐにジャズィーラへ旅立ってしまうのだろうか――それは彼女がずっと気にしていたことだった。

「どうしたの、フィトナ」

顔をのぞき込んだマルジャーンにフィトナは笑顔を作った。

「なんでもありませんわ。ちょっと疲れが出たのかしら」

「まあ、では長くお引き留めできないわね。すぐに食事にしましょう」

マルジャーンは召使いを呼んで食事の皿を運ぶように言いつけた。

明るい顔で会食しながらも、フィトナは内心ではこれから先のことを考えていた。物見遊山でこの町に来たのではないことは確かだ。だがハールーンたちがどう動くかわからないのに、彼女のなすべきことがわかるはずがなかった。

(ハルワお姉様はどうするのかしら。わたくしはどうすれば……)

外はすっかり暗くなり、河面に浮かぶ舟の明かりがポツポツとともっているのを眺めながら、フィトナはふと言いようのない不安に襲われた。バグダードは何でも集まってくる町、良いものも悪いものも。自分たちには良いものだけを選択することができるのだろうか――

(サファル月まであと二ヶ月、アッラーよ、どうかハルワお姉様を、わたくしたちをお守り下さい)

女たちの明るい笑い声もたくさんの明かりに照らされた明るい部屋も、フィトナの心に忍び寄る不安な気持ちを紛らわすことはできなかった。大都会バグダードの街を包む夕闇が彼女の心も押し包み、彼女はその心に小さな灯火をともすような気持ちで密かに祈り続けた。


2-Ep 25 ウード Ep 2