Ep 23

砂漠の旅

Ep 25

Ep24.問わず語り

100頭のラクダのキャラバンはタブークから東北方向へ進んだ。低い丘陵の連なる荒野で、平らな所を選んで歩いている。もはや急ぐ必要もなく、ゆったりと大きなキャラバンに従って行くのだから、ユースフたちのそれまでの旅よりはだいぶ楽だった。

1日目が過ぎ、一行は砂丘に囲まれた窪地に野営した。夜半、床についたユースフは妙に目が冴えて眠れなかった。あれこれ気にかかることをいっぱい抱えていたユースフだが、眠れないのはそのせいではなかった。一方で、彼はハールーンと一緒に旅に出られたことを脳天気に喜んでいたのだ。

ハールーンたちはユースフとは離れたアーディルのラクダ隊に入っている。だが同じキャラバンで、寝食を共にしているというだけで嬉しかった。その上昨晩、久し振りにハールーンの歌を聴いたことも興奮につながっていた。

本当に彼女の声はハルワ(甘美)そのものだ――彼は床の中で思い出しながら、何度もそう思った。心の中で彼女を思い浮かべ、何度もハルワ、ハルワ、と呼びかけた。そんなことをしていては眠れるはずもない。

とうとうユースフは眠るのを諦めた。起き出してランプに火を付け、それから鎧を身に着けコートを着込んだ。目覚めて問いただすスライマーンに、眠れないから見張りをしてくると言い、剣をつけ槍を手にしてテントの外に出た。凍てつくように冷え込んだ夜だ。外で寝ている者は誰もいない。彼は月明かりに砂丘の上の見張りの兵を探し、近づいていった。

「ご苦労さん。見張りはおれがやるから、おまえは休んでいいよ」

「え、隊長がですか?」

兵士は怪訝な顔でユースフを見た。

「なんだか眠れなくてね。たまにはおれにやらせてくれ」

ユースフが追い払うように手を振ったので、兵士は礼を言って野営地へ戻っていった。

同じ夜、ハールーンはあの悪夢にうなされていた。旅に出てからは一度も見ていなかったので、やっと縁が切れたのかと思いもしたが、やはりそうではなかったのだ。何がきっかけで夢を見るのかわからないが、思い出したようにそれは時折襲ってくる。

ハールーンは深夜、脂汗を流しながら飛び起きて、息をついた。幾度同じ夢を見たら気が済むのだろう――

アフマドがいつものように気遣って「大丈夫か?」と声をかけると、ハールーンは「大丈夫」と答えてから、毛布を肩に掛けて立ち上がった。

「ちょっと頭、冷やしてくる」

アフマドに言い残して、彼女はテントを出た。バラのまじないはここではできない。それなら冷たい夜風に当たって、頭をすっきりさせたほうがいいと思った。

13夜の月が冴え冴えと輝き、無数の星が瞬いている。冷気に当たってハールーンはクシャミをし、鼻をすすった。それから毛布を厳重に体に巻きつけ、野営地をぶらぶら歩きながら辺りを見回した。周りを囲む砂丘の四方に、一人ずつ見張りの兵が立っているのが見える。ハールーンは何となく人恋しさを感じて、その見張りの兵の一人を目指して砂丘を登っていった。

半分ぐらい登ると、上の兵が振り返ってこちらを見た。月明かりに照らされた顔はユースフだった。ハールーンは躊躇した。自分のほうからユースフに話しかけるのは、ちょっと照れくさかったからだ。だがここで回れ右をして戻るのも変だと思い直し、彼女は白い息を吐きながら砂丘を登ってユースフの側へ行った。ユースフは登ってくるハールーンをしばらくぼうっと見ていたが、彼女が近づくと向こうを向き、砂丘の彼方に目を戻した。

「なんで、おまえが見張りに立ってんの?」

並んだハールーンが問いかけると、ユースフは照れた顔を向こうに向けたまま答えた。

「眠れなくてね。起きてるんなら、見張りでもしたほうがいいと思って」

眠れない訳をその原因そのものである彼女に話せるはずもない。すぐに話題をハールーンのほうへ振った。

「おまえも眠れないのか?」

「おれは久し振りに嫌な夢見ちゃってさ」

「嫌な夢?」

「時々見るんだ。じいちゃんがおれを落ち着かせようとバラの香を焚くんだけど、それでも時々ね」

「バラの香ってそのためのものなのか?」

「そう、あんまり効いてないけど」

ハールーンはユースフの隣で、野営地の方を向いて砂丘に座り込んだ。それにつられて、ユースフもハールーンと反対方向を向いたまましゃがんだ。

ハールーンは自分から夢の内容を話し始めた。自分の二人の兄の死にまつわる夢を淡々と語るハールーンの方を、ユースフは振り返ることができなかった。彼女の顔を見てはいけないような気がして、ただ耳をそばだてるだけにしていた。話が終わると、ユースフは恐る恐る尋ねた。

「おまえが兄さんを殺したのか?」

「違うよ。おれが殺したんじゃない。でも、おれのせいで死んだようなものだからな。おれのせいだって思ってるから、夢の中じゃおれが殺すことになるのかもね」

「でもおまえ、そんなことって……」

ユースフは口ごもって黙った。ハールーンは自分のことを話したがらない。他人に触れてほしくないと思っていることなのだ。だからユースフは、そのことには触れないようにしてきた。今も、何と言ってやれば彼女の気に障らないで済むのかわからないので、何も言わなかった。すると、ハールーンはまた自分から話し始めた。

「一緒に旅に出た兄さんたちもおじさんたちも、みんな死んじまった。残ったのはじいちゃんだけだ。みんなおれのせいで、おれをかばって死んでいったんだ」

ハールーンが口をつぐむと、静寂が二人を押し包んだ。ユースフは黙ったままだ。ハールーンは静寂を恐れるように言葉を継いだ。

「おれが旅に出たのはちょうど3歳になったばかりの時だった。生まれたのはペルシアのど田舎の山ん中の村だよ。そんな山ん中の村にあいつら、〈楽園の使者〉がやって来てさ、協力を拒否したおれの一族は村を追われ離散した。おれと兄さんたちは大叔父であるじいちゃんに引き取られて、じいちゃんの息子たちや父さんの兄弟であるおじさんたちと一緒に逃げたんだ」

「じゃあ、おまえは拾われっ子じゃない……」

「嘘は言ってねーよ。本当の祖父じゃないから。血は繋がってるけどね。でも今じゃ、じいちゃんは本当以上のじいちゃんだぜ」

ほんの少し笑みを見せ、それからハールーンは天を仰いでぼやいた。

「あーあ、なんでこんなこと、おまえにベラベラしゃべっちまうんだろうな」

その言葉どおり、ユースフの前では誰にも言えないことが素直に言えた。なぜかはわからないけれど、ユースフの前では素直に自分が出せる。ハールーンは改めてそんな自分に気づいた。

「話したいなら話せばいいよ。おれは誰にもしゃべらんし、余計なことも言わないようにするから」

ユースフのぶっきらぼうな口調の中に、優しさが見え隠れしていた。彼は律儀にハールーンの方を見ようとしない。ハールーンは横目でユースフを見ながら、彼は実直そのものだと思った。だからこそ、彼に話す気になったのだろう。ハールーンは続きを話し始めた。

「おれの一族は古くから続いてる氏族でさ。いろんなことを知ってるんだ。ペルシア*1古来から伝わる薬術や占術、方術、シーン*2の武術、ヒンド*3の体技、音楽、アラブの詩歌……、そういうものを人に見せて食ってくことができた。だから旅芸人の一座になって、やつらの追跡を逃れたんだ。ペルシアからバフラインへ渡り、南アラブの土地を回ってマッカへ、ヒジャーズから紅海を渡ってミスルへ。それからミスルの南部やヌビアを転々としていた」

一旦言葉を切り、ハールーンは鼻をすすった。体に巻きつけた毛布の中に首を縮める。

「おれは故郷のことはまるっきり覚えていない。物心ついた時はもう旅の一座の一員だったよ。女はおれ一人だった。でもみんなはずっと、おれのことを男として扱ってくれた。物心ついた時から、おれは自分も男だと思って暮らしてたんだ。だから男でいることにちっとも違和感はないよ。おまえや姫は、こんなおれを可哀想に思ってるみたいだけど、おれはこれが普通なんだ」

ハールーンはまたユースフの様子をうかがった。彼はただ黙って聞いているだけだ。

「本当は女だってことはもちろん知ってたけど、みんなと違うのが嫌だった。女だからって特別扱いされるのも嫌だった。だからみんなが、みんなと同じようにおれも男扱いしてくれることが嬉しかった。おれは必死になって修練したよ。飛んだり跳ねたり、短剣を投げたり振り回したり、歌と楽器も厳しく教えられたし、薬草の名前を覚えたり、アラビア語の読み書きやクルアーンの暗誦もきっちりやらされた。とにかく、足手まといになって見放されるのが嫌だったからさ、ほんと必死だった。おかげで2歳年上のマンスール兄さんより高く跳べるようになったし、剣の扱いもうまいって誉められるようになったんだ。もう足手まといなんかじゃない、もうみんなと違わない、一座の一員として、みんなと同じように一座を支えている――子供心にそう自負していた。でも違ったんだ。やっぱりおれはみんなと違った存在、特別な存在だった。それがわかったのが、上のアリー兄さんが死んだ時だった」

ハールーンは口をつぐんだ。なかなか先を話そうとしない。思わずユースフはハールーンを見た。頭からかぶった毛布が影を落とし、表情は見えない。言いたくないなら言わなくていいぞ、と言おうとした時、ハールーンはようやく口を開いた。

「おれが10歳、アリー兄さんが14歳の時だよ。その頃いたヌビアは盗賊が多くて物騒な所だった。おれとアリー兄さんが二人で水くみに出かけた時、おれたちは人間専門の盗賊に襲われた」

「人さらいか?」

ユースフの質問にハールーンはうなずいた。

「相手は7,8人いた。兄さんがたった一人短剣で戦っているのに、おれは何もできなかった。怖くて、自分の技を武器として使うなんて思ってもみなかったんだ。その時はまだ、自分の技で人を傷つけたことがなかったからさ。賊は震えているおれを捕まえて、おれが女だってわかると喜んで、こいつは上玉だ、磨けば高く売れるぞってわめいた。それで兄さんは怒り狂って、その時相手にしてた奴とおれを捕まえた奴をぶち殺して、おれを連れて逃げようとしたんだ。でも逃げ切れなかった。仲間を殺されて逆ギレした賊に後ろから襲われて、兄さんはおれをかばって犠牲になった。兄さんは今際の際に短剣をおれに渡してこう言ったんだ。『おまえを守るためにおれたちがいるのに、おれは力不足でごめんな。でも最後に頼りになるのは自分だけなんだよ、怖がらないで自分の身は自分で守れ』って。それから『もしみんなが生き残れなくても、おまえだけは生き残って幸せになってくれ』って。それから賊が笑いながら近づいてきて、後は何も覚えてない」

「覚えてない?」

「うん。あの時まだ5人ぐらい残っていたはずなんだけど、おじさんたちが駆けつけてきた時には、おれは奴らの死体の前で、短剣を握りしめたまま血だらけで突っ立ってたんだってさ。でもどうやって殺ったのか全然覚えてないんだ。それからおれは積極的に戦いに参加するようになった。ちょうどその頃、〈楽園の使者〉がおれたちの存在に気づいて探しに来るようになったし、賊でも奴らでも、襲ってくるものは片っ端から返り討ちにしてやったよ。おれは守られるだけの存在なんてまっぴらだと思ったからさ。自分の身は自分で守るつもりだった。奴らは執拗におれたちを追ってきた。仮死の薬で奴らをだまして撒こうとしたけど、それでも奴らに捕まって死を選んだおじさんもいた。おれたちはイフリーキーヤ*4まで逃げて、そこで二手に分かれた。じいちゃんとおれはこっそり船に乗って地中海を渡り、みんなはミスルに引き返していった。おとりになるために、じいちゃんとおれを逃がすために」

ハールーンはまた言いよどんだ。嫌な想い出になると口が重くなるようだ。だが今度はすぐにまた話し始めた。

「奴らが一族の娘を捜していると知って、マンスール兄さんがおれの身代わりになった。別れ際兄さんが花柄のアバーヤをかぶって、笑いながら女に見えるか?って言って。それがどうしても忘れられなくてさ……。それが、おれが12になるちょっと前のことさ。おれとじいちゃんは海を越えて、地中海沿岸のムスリム商人の居留地を転々と渡り、1年かかってルームにたどり着いた。みんなとルームで落ち合うことになってたからね。でも、あちこち回りながら1年待っても、誰もルームに来なかった。そのうち、兄さんたちは奴らに追いつめられて自滅したらしいって情報が耳に入って、諦めてジャズィーラへ行こうとしたんだけど、隊商の長に誘われてシャームに来たんだ」

「それで、おれたちと会ったというわけか」

長い身の上話がようやく終わって、ユースフは相づちを打った。

「結局、おれは自分の身は自分で守ると強がっていても、みんなを犠牲にして生きてきたんだ」

普段は絶対にそんなことは言わないハールーンがポロリと言った。本音を見せれば弱みを握られる、そう思って常に身構えているハールーンの心が、今は無防備になってユースフの前にさらけ出されていた。本当に信頼できる人間なら、そうやって心の内をさらけ出しても嫌じゃない、むしろ気持ちが楽になるみたいだ、とハールーンは感じた。彼女はくぐもった声で、隠していた自分の感情をユースフにぶつけた。

「みんなを犠牲にして、おれだけ生き残って幸せになれると思うか? 生き残るために嘘つきまくって殺人まで犯してさ、アッラーはおれをお赦しになると思うか?」

「ハールーン……」

「じいちゃんは来年のサファル月までの辛抱だと言った。それが過ぎたら何もかも忘れて、女として平和に生きろって。でも、そんなことできないよ。忘れることなんてできないし、急に女になれって言われたって……、おれは男でいるほうがよかったからさ」

ユースフは返す言葉もなく、哀しそうな目になってハールーンを見ていた。

「月のものが始まって、胸が出てきて、おれはすごく嫌だった。自分が嫌いになった。どうして、今のままでいられないんだろう。どうして女にならなきゃいけないんだろうって、ずっと思ってた。おれは男で、みんなと一緒にずっと旅を続けたかったのにさ。それなのにみんなはいなくなり、おれは女にならなきゃなんない。女になったって、こんな出来損ないの女に幸せなんてあると思えないよ」

「そんなこと言うな。女になったって、いいことは必ずあるはずだし、おまえは出来損ないなんかじゃないよ」

ユースフは哀しい気持ちでいっぱいになって反論した。

「おまえは本当は心優しい娘なんだ。だからそんな悪夢を見るんだよ。おまえ、本当は戦いたくないんだろ? 人殺しなんてしたくないんだろ?」

ハールーンはうつむいて黙ったまま答えなかった。

「〈楽園の使者〉に襲われず、何事もなく村で育ってたら、おまえはきっと、歌の上手な心の優しいきれいな娘っこになっていたんだろうな」

ユースフは村一番の気立てのよい優しい美少女に成長したハールーンを想像して、よけい哀しくなった。

「そんで、村の男と結婚して、一生村から一歩も出ずに生涯を過ごすのか? ハッ、今となっちゃゾッとするね、そんな生活」

薄ら笑いながら揶揄するようにハールーンが言った。そうならなかった彼女の運命は哀しいが、そうなっていたら自分は彼女と出会えなかった――ユースフは思い直して、彼女の運命を否定するのはやめた。

「いいことはあるさ、必ず。アッラーは寛大な御方だ。必ず、おまえのことを赦して下さるよ。嘘だって人殺しだって、仕方なくやってることだろう。おまえはちゃんと礼拝してるし、罪を悔いて断食だってやってる。熱心で敬虔なムスリマ*5じゃないか。アッラーは御自分の信奉者を決してお見捨てになんかしない。必ず、おまえにもよくして下さるはずだ。何もかもアッラーがよくして下さる」

「ユースフ……」

ハールーンのことを心から一生懸命励まそうとしているユースフを、彼女は半ば呆気にとられて見ていた。他人からそんなふうに自分のことを慰めてもらったのは初めてだった。ユースフの懸命さがハールーンの心を和ませ、彼女は軽く微笑んでユースフに言った。

「おまえ、ほんとにいいやつだな」

「……」

「ジャーファルたちがおまえに惚れ込むの、わかる気がするよ」

ハールーンは立ち上がった。東の空がほんの少しだけ白んでいる。

「夜が明けてきた。礼拝をしてくる」

「独りでか?」

野営地とは反対の方向へ砂丘を下りだしたハールーンは、振り返って答えた。

「おれ、独りで礼拝している時が一番好きなんだよ。アッラーは何でも御存知だ。おれのことも全て。だからアッラーの御前では嘘をつく必要なんてない。自分をごまかす必要もない。余計なことも忘れて、本当の自分のままでその御許に自分を委ねられる。だから独りでアッラーと向き合っている時だけが、唯一、おれの安らげる時間なんだ」

一気に砂丘を駆け下りていくハールーンを見送って、ユースフはつぶやいた。

「いいやつ……、か」

ハールーンは誉めたつもりだったのだろう。だがユースフはその言葉にかなりショックを受けていた。それ以上の存在になりたい者にとっては残酷な誉め言葉だ。おれはあいつにとって〈いいやつ〉でしかないのか――ユースフはガックリと気落ちした。

(アッラーと張り合う気はないが……、おれではだめか、ハルワ? おれが側にいてもだめなのか、ハルワ?)

求愛の言葉は届かない。やがて、星々は消え、いつもと同じように夜が明けていった。


Ep 23 ウード Ep 25