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ACT2:ヴィヴィアンとオリヴィエ


「私がこの想像を絶するほどの驚くべき美の所有者を初めて目にしたのは、 アンバサダーズ劇場の舞台であった。
彼女は感動的な威厳の火花を持っていた」

……ローレンス・オリヴィエ

ヴィヴィアンの運命を決めたのは、やはりローレンス・オリヴィエとの出会いである。
その後のヴィヴィアンの栄光と名声に包まれた未来、そして、病との壮絶な 闘いの始まりでもあった。ついにその舞台の幕は切って落とされたのである。
ローレンス・オリヴィエは、当時の英国劇壇のプリンスと謳われ、 ハリウッドでも"ジョン・ギルバートの再来"と言われるほど丹精な顔立ちと、 性的な魅力を兼ね備えているシェイクスピア俳優であった。

1934年、『一代記』の舞台で初めてオリヴィエに会ったヴィヴィアンは、 次の作品『スコットランドの女王』で彼に惹かれ、 『王室一家』のトニー・カヴェンディシュ役で、 ついに彼の虜となった。
彼の持つ才能だけでなく、ピッタリしたタイツが腰にからみつき、 はだけた胸元から覗く胸毛、颯爽とした彼の演技に、ヴィヴィアンは、 初めて性的欲望を彼に引き出されてしまったのである。

「どうしたら、オリヴィエを手に入れられるのだろう」
彼女は、そのときスターでもなく、映画や舞台に出演してはいたが、 まだ代表作はなく、女優としては未知の存在であった。 そんな彼女が、オリヴィエの妻になることなど、『風と共に去りぬ』 のスカーレット役を手に入れること同じくらい、不可能に近いことであった。
「彼は妻も子供もいるし、幸せそうよ」と諭す周囲をよそに、 持ち前の情熱とひたむきさで、彼に向かっていったのだった。 もちろん自分にも夫や娘がいたのだが、忘れているかのようだったという。

一方的なヴィヴィアンの激しい片思いが、相思相愛となったのは、 ヴィヴィアンの舞台での出世作、1935年、アンバサダー劇場で上演された 『美徳の仮面』(写真)であった。
上に書いたオリヴィエの言葉は、その時のヴィヴィアンの第一印象を語ったものだが、 オリヴィエは同時に、ただ美しいだけのヴィヴィアンに、隠れた才能を見出していた。
オリヴィエは常々こう言っていた。
「才能のない女性は愛せない」と…。

彼女の美貌と隠れた才能に惹かれたオリヴィエは、1937年からヴィヴィアンと 共に仕事を決めて行くようになる。2人の"ふしだらな"関係は、ついに周囲にも覆い隠せなくなった。
オリヴィエには、彼のファンから、カミソリが送られてきたり、心無い落書きがされたりしたが、 二人の激しい愛情を冷めさせることはできなかった。

ついに、決断のときは来る
オリヴィエが『嵐ヶ丘』の撮影のためにハリウッドへ行き、 ヴィヴィアンは元気がなかった。 オリヴィエと二人なら耐えられることも、一人になると耐えられなかった。 酒やタバコを絶えず手元から離さず、飢餓状態のように食べつづけ、 リーの元へ帰そうとしたガートルードの言葉にも耳をかさず、 夫と娘を置いたまま、ハリウッドへ飛んだ。

彼女のハリウッド行きについて、オリヴィエはこう書いている。
「第一の理由は、純粋な、心を駆り立てるような、なにものにも覆いかくせぬほどの 激しい愛だった。嬉しいことに、彼女も共有しており…」
そして、第二の理由は「スカーレットを演じたいという」、万に一つの希望も ないだろうヴィヴィアンの夢をかなえさせてやりたい、というオリヴィエの愛と野心であった。
『風と共に去りぬ』は、映画史にその名を残し、 彼女以外の人たちに、莫大な富をもたらし、彼女もまた世界中で一番有名な女優となったのは、 みなさまご存知の通りである。






「私の愛の努力の結果に彼女が失望したようなときに、
"その"すべてが、私の演技に注がれてしまっていることを、
彼女にわからせるのは難しかった」
……ローレンス・オリヴィエ
1940年、ついにオリヴィエと結婚。
希望を抱いて英国に戻ったヴィヴィアンだったが、『風と共に去りぬ』の成功が、 仇になって、舞台の仕事はなかなか回ってこなかった。 彼女を出演させれば、ビジネス的にはまちがいなく成功するが、 映画ファンは、自分のイメージと違う役を彼女が演じるのを許す ほど寛容ではない。なによりも、そんな彼女の出演によって、作品のバランスが 崩されるのを、演劇プロデューサーたちは恐れたのである。
また、「夢見る少女」のようなヴィヴィアンにとっては、 英国を代表するシェイクスピア俳優・ローレンス・オリヴィエの妻として 生きて行くのは簡単なことではなかった。


オリヴィエとヴィヴィアンの関係は、上に書いたオリヴィエの言葉がすべてを語っているのではないかと思う。
あとに「彼女は結局、舞台の上で偉大な演技というものの構成要素(一番重要な 構成要素はセックスだとオリヴィエは言っている)を見つけた」 と続いているのだが、この言葉だけではわかりにくいので、少し説明の必要があるかと思う。 少々、下世話な話になるかも知れないが、我慢して読んで欲しい。

先にも書いたように、「ヴィヴィアンは、オリヴィエとの出会いによって、 性的欲望を掘り起こされた」と書いたが、彼女は舞台の上で猛々しく動く オリヴィエに、まるで少女が思い描くような激しいセックスを期待していた。 それと同時に、ヴィヴィアンは、子供のように"明かな証"が欲しかった。 オリヴィエとの愛の証が「セックスだった」ということである。
しかし、すべての情熱、全精力を舞台の上で燃焼させてしまうオリヴィエは、 自ら語っているように、ベッドの上では淡白だった。そのことが彼女を失望させたらしい。
自らの体力の限界に立ち向かいながら、芸術を追い求めて行く人たちには、まま あることのようである。

失望しながらも、そのことをヴィヴィアンは長い間かけて理解し、ベッドの上での激しい情熱を 舞台の上に置き換え、オリヴィエと共に舞台で燃え尽きることによって、 「証」を見出だしていくようになったのだ。
オリヴィエは、芸術とは何か、本物の演技とはどういうものなのか、 惜しみなくヴィヴィアンに与えていった。 ちなみに、彼は、1945年の舞台『危機をのがれて』以降、彼女は本物になった、と 語っている。


芸術家というものは、私たちのような凡人には、理解できぬ部分が多いが、 この夫婦の愛の形もまた私たちには測り知れぬ次元だったことはまちがいない。

人々はみな、ラリーのことを「You are the greatest actor in the world」 と言ってから、ヴィヴィアンに向かって、 「You are most beautiful woman in the world」って言うのよ。
彼女は「You are the greatest actoress in the world」って言われたかったのに…。
確かに、彼女のか細い高い声は、バックステージまで届かないかもしれないけれど、 そのためにどんなに努力をしてきたか…。
…マキシーン・オードリー

懸命にオリヴィエについて来た感があったヴィヴィアンであったが、生来虚弱だった 彼女の心身には、相当な過酷だったようだ。
1945年、『シーザーとクレオパトラ』の撮影の最中に流産、撮影の終わる頃には、 恐ろしい影が巣食うようになって行く。 陰鬱な戦争の影、肺の黒い影、そしてなによりも治癒することなく、 死ぬまで繰り返される「心に忍び寄る影」…。
一人の女としては、オリヴィエに愛されていることを実感できなかったヴィヴィアンは、
「演劇の世界で、偉大な女優になることによって、その王冠を分かち合うことができれば、 本当に彼が自分を愛していることを実感できる」
とその後も、弱った体に鞭打って、「ローレンス・オリヴィエという王」に立ち向かって行ったのである。しかし…。


オリヴィエが、英国劇壇の王への道を登っていたときには、 「芸術家夫婦」「おしどり夫婦」などと言われていたが、1947年、彼が 「ナイト」の称号を授与され、名実ともに王として世間も認めたころから、 女優としてのヴィヴィアンに、批評家は辛くあたり、彼女にとっては厳しいものになっていく。

彼女は孤独になっていった。一人ぼっちになると、不安とカソリックとしての罪の意識が一度に 襲いかかってきて、彼女はヒステリー状態になった。彼女はまた、眠らなくなった。
余談だが、彼女はどんなに短い睡眠でも、朝5時には目が覚めていた、という。 朝5時というのは、修道院の「ミサの時間」なのである。あまりにも哀しすぎはしないか…。

1948年、成功作『危機をのがれて』『アンチゴーヌ』 『リチャード3世』を引っさげて、オリヴィエと共にオーストラリア公演を行い、大成功を収める。 帰英後しばらくして、彼女の苦悩を知らない幸せいっぱいのオリヴィエに、 ヴィヴィアンはこう告白する。

「私はもうあなたを愛していないわ。別にほかに誰かいるとかいうことではなくて…。 つまり、あなたを愛してはいるのだけれど、ちょっと違ったようになったの。 たとえば、そうね。お兄さまを愛するようにかしら」

ヴィヴィアンは、オリヴィエへの愛が覚めたことなど一度もなかった。 それどころか、あまりにも激しい彼への愛のために、現実のツラさに耐えられず、 そこから逃げ出したくなっただけなのであろう。
その一人、一座の若い俳優ピーター・フィンチ(『ネット・ワーク』でオスカー受賞)は、 少なくとも自分を尊敬してくれた。彼の前なら女王になれた。 軽率という方たちもいるだろうが、そんな彼女を誰が責められるだろう…。





「この病気と6年間闘ったあげく、私は心身ともにこれ以上すすんで 責め苦に耐えることはできなかった。
私は、お互いに殺すことができる。あるいは相手に死をもたらすことができる、 と知ってぞっとした」
…ローレンス・オリヴィエ

ヴィヴィアンの病は、年を重ねるごとに重くなって、彼女の周囲の人々にとっては、 地獄のような日々が続いたが、彼女は闘い続けた。
ヴィヴィアンが、シェイクスピア女優としてなかなか認められなかったのは、 美しすぎる容貌と、甲高い声であった。病に犯されながらも、発声法を死に物狂いで習得し、 最後の力を振り絞って耐えた。
美貌は衰え、体調もすぐれなかったが、もう一度、オリヴィエの役に立ちたかった。 そしてもう一度、オリヴィエに愛されたかった。
その一念で、1955年、オリヴィエと共に『12夜』『タイタス・アンドロニカス』『マクベス』 を演じる。舞台の袖でわけのわからぬうわ言を言っていても、 一旦舞台にあがると、寸分の狂いもなく演技きった。すさまじい執念だったという。

私はこの公演の衣装を担当した人が、ヴィヴィアンのことを話してくれたことを思い出した。 「そりゃあ、ヴィヴィアンはきれいだったよ。 きれいずきるくらいきれいだった…」
そのあと遠い目をして、しばらく何かを思っているようだった。それが何なのか、 私にはわからなかったが、きっとヴィヴィアンの闘いの様子を哀しく、懐かしく 思い出していたに違いと今、思う。

そんなヴィヴィアンの執念も、最後の希望も批評家たちによって、打ち砕かれて行った。

「ラリーの偉大な玉座が、彼女の野心によって曇らされている」
「彼女の小さな声が、彼の権威を傷つけている」
「ヴィヴィアンの凡庸な才能が、彼に妥協を強いている」
「才能の劣るヴィヴィアンを相手役に選んだことは、彼の"騎士精神"からである」

それに対し、オリヴィエも、もう何の言葉もかけてはくれなかった。 彼は前に進むこと"のみ"を見つめていたのである。 なんと残酷な仕打ちなのであろう。
地獄の責め苦に悩みながらも、懸命に生きようとするヴィヴィアンには、最後の一撃であった。

ヴィヴィアンは、また新婚のころのように、オリヴィエとベッドで愛を確かめようと試みたが、 無駄なことだと知った。
1956年には、二度目の妊娠(オリヴィエとの間)をし、「私は母親になるのには、向いてないのよ」などと 言いながら、彼女は幸せそうで危機は脱したかに見えた。それも5ヶ月で失われた。 三度目を彼女は拒絶した。もうなすすべはなかった。

オリヴィエとヴィヴィアンが、20年にわたる2人の生活にピリオドを打ったのは、1957年のことだった。 (離婚は1960年)。上のオリヴィエの言葉は、その時の回想である。

晩年は、床につくことが多かったヴィヴィアンだが、ベッドの傍らには、かつて彼女が愛し、 憧れた若き日のオリヴィエの舞台写真。何通かのオリヴィエからの手紙も身近に置いていた。 その手紙は、もう何度も何度も読み返したのだろう、折り目が擦り切れていたという。

Act1:信仰と情熱のはざまで Act2:ヴィヴィアンとオリヴィエ
Act3:勇気ある戦い Act4:おわりに…

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