寄り添う心と離れる手




  【3】



 その日、シーグルの元には一度もレザ男爵は顔を出さなかった。
 彼が出かけているならその前に顔を出して行くだろうし、そもそも彼がいない場合はいつも代わりに魔法使いの青年が部屋に頻繁に顔を出していた。レザの前で吐いたあの時から彼は自分と共に寝る事はしなくなったが、それでも屋敷にいるなら必ず顔を出していたし、シーグルが剣を振っている間は彼もそれに付きあっていた。
 だから、もう昼を過ぎるこの時間まで、彼が一度も部屋に顔を出さないというのはどう考えてもおかしい。
 屋敷の中でも他の者達の居住区と離れているこの部屋には屋敷内の喧騒は殆ど届かなくはあるのだが、それでもここまで静かなのも不気味な気もした。急な用事で出かけたのかとも思ったのだが、それでも何故かシーグルは妙にその日は心がざわついて仕方なかった。
 そうして昼過ぎに、急いだ様子で魔法使いの青年が部屋にやってきた事で、シーグルはその理由を知る事になった。

「ちょっと、来て貰いたいんですが」

 それで彼についていけば、レザがシーグルが自由に行き来していいといった部屋を出ようとしたので、念のためにシーグルは彼に聞いた。

「レザの許可はあるのか? 俺はここから出る訳には……」
「ンな事言ってる場合じゃないんです。大事になる前に貴方に止めて貰わないと」
「どういう事だ?」

 尋常の事態ではないと察したものの、理由が分からなくてはシーグルも彼の独断に従う訳にはいかない。部屋を出る直前で足を止めたシーグルに、青年は一度思い切り顔を顰めた後、シーグルに正面から向き直って出来るだけ声を抑えて言った。

「貴方の、迎えが来ています。とんでもない化け物の」

 それだけでシーグルは全ての事態を理解した。
 そうして、彼が焦っている理由も察する事が出来た。

「急いでくださいっ、早くっ」

 走り出した青年について、シーグルも走り出す。
 やっと普通に歩く事が出来るようになったばかりの足は思う通りに走れなくて、前に比べて急げなくて、もどかしい思いに気持ちだけが焦る。息だって簡単に切れてくる、それが情けなくて、悔しくて、それでも逸る気持ちのままにシーグルは走った。
 そして。

「セイネリアっ、殺すなっ」

 部屋に入った途端見えた、黒い騎士が彼以外誰も持てない黒い魔剣を抜いて持っているのを見て、シーグルは反射的に叫んだ。
 部屋の中の者達の視線が、全てシーグルに注がれる。
 レザは思い切り顔を顰めて、金髪の青年は安堵するように口元に笑みを浮かべて、そうしてセイネリアは……その琥珀の瞳を見開いてから苦し気に細めて、ただじっと自分を見つめていた。

「セイネリア……」

 彼と目が合った途端に、シーグルの足が止まる。
 呆然と、その場に立ち尽くす。
 込み上がってくる感情がどうにもできなくて、体が動かない、それ以上の声も出ない。
 ただ溢れてくる想いが涙となって零れてきて、歪む視界の中で彼が近づいてくるのを見ている事しかシーグルには出来なかった。
 彼が目の前に来て、伸びてきた腕が体を包む。
 引き寄せられて、顔が彼の胸に押し付けられる。
 強く抱きしめられて、体が彼の体温に包まれて、彼の匂いに包まれる。目からは涙が溢れて何も見えなくて、ただ全身で感じる彼の気配に口からは嗚咽を漏らす事しか出来なかった。

「シーグル……」

 彼の低い声が耳元で聞こえる。
 疲れ切って掠れた声は彼らしくなくて、それでもそれは確かに彼の声で、シーグルもまた自然と手を伸ばして彼に抱きついた。
 彼の顔が自分の肩に埋められて、耳元で震える彼の吐息を聞く。
 背を撫ぜてくるその手さえ震えているのを感じて、シーグルもまた彼の胸に顔を摺り寄せた。

 彼に求められて、彼に包まれて、確かにシーグルはその時を幸せだと感じた。






 アウグ特有の天井の謎の絵を見つめながら、この絵も今夜で見納めかとシーグルは思う。
 シーグルが来た後、セイネリアはすぐに帰ると言ったのだが、レザがシーグルの荷物の準備をするまで待てといった事で出発は明日の朝という事になった。とはいえそれでもセイネリアは頑なに帰ると言って聞かなかったのだが、ラタの懇願するような目と彼の疲れ切った様子を見てシーグルが宥めた事で、セイネリアもしぶしぶそれを了承する事になった。
 ただ、セイネリアは少しでもシーグルが離れる事を許さなかったから、割り当てられた客室にはシーグルも共に行く事になったのだが。
 レザは終始不貞腐れた顔をしていて、ならばと言ってベッドの2つある部屋へと案内してくれたのだが、それを無視してセイネリアはシーグルを自分のベッドに寝かせた。そうなれば当然、そういう事態になるのかと体を竦ませたシーグルだったが、セイネリアはただシーグルを抱きしめるだけでそのままあっさりと眠ってしまった。
 正直、気が抜けたと言えるのだが、安堵もする。
 ここで彼と行為に至ったら、さすがにレザに申し訳ないという思いもあった。
 そうして、こちらをしっかり抱いたまますっかり眠ってしまった最強の男を、今シーグルは眺めていた。

――こいつでも、相当に疲れていたのだろうか。

 キスさえせずに、こちらをベッドの中で抱きしめた途端眠ってしまった事を考えれば、彼でさえも限界になるほどの無茶をしてここへ来たのだろうというのが分かる。――いや考えれば、きっと彼は自分がいなくなってからずっと体以上に精神的に追い詰められていたに違いない。自分を探して、どれだけ苦しんでいたのだろうと思えば、自分を抱いておだやかに眠る彼の姿にどうしようもなく愛しさがこみあげてくる。
 そう、愛しいのだ、自分はこの男が。
 それを自覚出来た今、それでもおそらくシーグルはこの男にそれを伝えられないだろうと思う。これだけ彼を愛しいと思っても、その心に従って彼を選ぶ事は出来ないだろうと思う。

――すまない、セイネリア。

 すまない、すまない、と何度も心で彼に謝る。
 そうして彼の胸に顔を押し付けて、彼の気配に安堵して目を閉じようとしたシーグルは、自分を抱きしめている彼の手に見覚えのある指輪が嵌められているのに気が付いた。
 それは、シーグルがノウムネズ砦へと行く前、シーグルの血を受けて命が繋がったという指輪だった。彼はおそらくこの指輪を見て、自分が生きている事を確信して探してくれたのだろう。どんな想いで、どんな顔で、彼はこの指輪を見ていたのだろう。
 考えるだけで胸が痛んで、彼を愛しいのだという想いが感情となって溢れる。涙さえ零れて、シーグルはその指輪をつけた彼の手にそっと自分の手を重ねた。

――愛してる。でもきっと……俺はまたお前を傷つける。

 彼の温もりと、気配と、匂いと……身体中で彼の存在を感じながら、シーグルはそのまま眠りについた。






 くそ、とレザは呟いた。
 それでも気が収まらなくて、何度も何度も呟いた。
 そうすれば事情を全て分かっている参謀役の青年が、うんざりした声を出して大きなため息をついた。

「悔しいのは分かりますけど、いい加減切り替えたらどうですか」

 それをぎろりと睨んで、レザは足元の足置きを蹴った。当然ながら音を立ててそれは壁近くまで吹っ飛ばされたものの、かろうじて破壊は免れたらしい。

「だから、罪もないモノに当たらないでください。それこそそんなに暴れたいなら、皆の訓練にでも付き合って体動かしてくればいいじゃないですか」
「馬鹿言え、今この状態で息子達相手にして加減が出来るか。かと言って剣を振ってるだけはな……余計思い出すだろ」

 ふん、と不機嫌に鼻息を鳴らして、レザは長椅子(カウチ)の上に足を上げて寝転がる。
 実際のところ、今のレザの心情は、悔しくて苛立っているというよりも単純に落ち込んでいるのだった。あの美しい青年に対して恋愛的な部分でも負けてしまっただけでなく、絶対的に自信があった戦士としての実力でも負けを認めてしまった。前者はともかく、後者は初めての経験な分、そのショックはレザにとって相当のものだったのだ。
 なにせ、最初に見ただけで、自分はあの男に対して勝てない事を感じとってしまった。
 『自分より強くて、自分より愛している』という言葉にあっさり納得出来てしまった。それで悔しくて嫌味を言ってみたのは、いわゆる無駄なあがきというやつだった。

「何せ、殺すな、だからな……」

 戦わなくても大方負けを認めていたのに、あの青年はこちらを見た途端まず最初にそう言ったのだ。つまるところ彼から見て、自分とあの男の強さの差は勝ち負け以前の話という訳だ。あの男の方を愛してるくせに、愛してもいない自分の心配を真っ先にするという事は、あの男の事を心配する必要がないくらい比べられようもない程の実力差があるという事ではないか。あの男を知っているからこそ、戦場で会った時にもあの美しい青年はこちらの威嚇にまったく動じなかったのだという事も、今なら理解出来てしまう。
 ただこれも『それは仕方ない』と自分で思った段階で、また悔しいのだ。
 レザはあの男に向かって、セイネリア・クロッセスの証明として彼の持つ黒い剣を見せろと言ったのだった。雑族達が恐れていた噂話、剣身まで黒い剣を一振りしただけで部隊が全滅したというその剣を見せてみろと。
 勿論、その話は相当に誇張が入っていると思っていたから、本当に剣身まで黒い剣を出してきたらそれだけでも納得してやろうかと思っていた。ところがあの剣を見た途端、魔法などという物とはまったく縁のなかったレザでさえそれが何かとんでもない代物だというのが分かってしまった。見ているだけで動けなくなったあの時の感覚は、間違いなく『恐怖』であるとレザは理解出来てしまった。

 本人を見ただけで勝てないと感じてしまった。持っている剣を見て更に圧倒された。

 それで打ちひしがれていたところに駄目押しのようなあの青年の言葉があって、レザはこれ以上なく落ち込むしかなかったのだ。

「全く、そんな姿を部下の皆が見たらどう思うでしょうかね」
「はん、今部隊の訓練が始まったらなぁ、奴らは地獄を見る事になるぞ」
「いやですから、モノはまだしも他人に当たるのは絶対にやめてください。死人が出ます」

 そうして彼はまた大きなため息をつくと、苦笑しつつもこちらをじっと見つめ、優しい声で言ってくる。

「仕方ないですね、私で良ければ慰めてあげましょうか? 父さん」

 それにレザは情けなくもなんだか泣きたい気分になってしまって、おう、と返した。





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 傷心のレザさん、一応後でまた出てきます。



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