愚かさと間違いの代わりに




  【6】



 部屋を出て、ドアの前で泣きそうな顔で待っている女性を見て、サーフェスはまた頭を抱えてため息を付く事になった。

「……君も大変だね、あのぼーやに言うなって言われてたんでしょ」

 そうすればソフィアは泣きそうな顔のままこくりと頷いた。
 考えれば分る事だ、千里眼を持つクーア神官の彼女なら彼の異変に気づいていない筈がない。なにせ彼女はそもそもその力でシーグルを見て、何かあれば知らせろとマスターに言われている筈なのだから。

「シーグル様を助けて下さい」

 ぽろぽろと涙を流す彼女の想いをあの騎士様は何処まで分っているのか、いっそ彼女に付き添えと言えば何時でも眠れたろうに、まったく真面目過ぎる人間はこれだから――なんて考えながらも、サーフェスは頭を左右に振って首をコキコキと鳴らした。

「……実際、夜はそんな酷い状況なの?」
「はい、明かりをつけたまま上掛けにくるまっているのが殆どなのですが、たまに叫んだり、飛び起きたり……まったく眠れていないと思います」
「やっぱ本人がいうより酷い状況な訳ね、本当にあの騎士様は……」

 彼から話を聞きながら実際はもっと酷いのだろうと予想はしてたがそれ以上で、サーフェスは思わず顔を顰めた。

「こーなると少しづつ改善を試みる、なんて生ぬるいやり方じゃだめだよね」

 呟いて、面倒くさそうに医者の魔法使いは頭を掻く。
 それから少し考えて……それは僕のキャラじゃないし――なんて呟きの後、何か思いついたかのように笑って、彼はソフィアに向き直った。

「まーここは、おにーちゃんにひと騒ぎしてもらおうか。……あぁそうだ、君にもちょっとお願いしていいかな?」

 どこか含みのありそうな意地悪い医者の笑みに、泣いていたソフィアも目を丸くした。






 ドアの前でちょっと背を正して、エルはコン、コンとそっと2回そのドアを叩いた。
 すぐに返事はなかったから、そこから少ししてまた2回、今度はちょっとだけ強く。ドクターによると部屋の主であるシーグルは寝ているから、という事なので控えめにノックをしてみたのだが、それで気づかれないでここで待っている事になるのは間抜けすぎる、と更に強くノックしてみるべきかどうかは悩む。
 だが、エルの心配をよそにそこでドアは開かれて、中からドクターの助手である女神官が顔を出した。

「レイリースは寝てる、のか?」

 小声で聞いてみれば彼女はこくりと頷いて、唇の前に指を立てて静かにするように伝えてくる。エルは少しだけ緊張した面持ちで部屋の中へ入ると、彼女について寝室へと向かった。
 つい先ほど、エルが仕事で行った騎士団から帰ってくると、ドクターに声を掛けられてシーグルに飲み物を持って行くように頼まれた。どうもシーグルがまた食べられなくなったから少しでも栄養をとれるようにという事らしいが、聞いた時のエルとしては『なんだあいつだからこんとこ元気がないのか』と思うと同時に当然ながら心配になった。だから二つ返事で引き受けてきたのだが……そういえば素顔の彼の寝顔を見るのは久しぶりで、前の時はちらっと程度だったからちょっと期待というか妙に緊張してしまうのは仕方ない。

――まぁ、飲み物置いて、ちょっと顔見たらすぐ部屋を出りゃいいさ。

 エルにとっては可愛い弟という事で、彼を性的な興奮対象として見る事はまずないのではあるのだが、素顔のシーグルは時折とんでもなく色気があったりしてドキっとする事がある。だから自分の理性の為にも寝顔を見たら即満足して帰ろう、なんて思っていたのだが……眠っているシーグルの顔を見た途端、期待に頬が緩んでいたエルの表情が一変して険しくなった。

「おい、どういう事だこりゃ……」

 思い切り顔を顰めたエルを、ホーリーが手招きして今度は外に出るよう促してくる。エルは机の上にもってきた瓶を置いてすぐ、寝室を抜けてホーリーが開けるままドアをまたいで廊下へと出た。

「私が事情をお話します」

 廊下で待っていたのはソフィアで、それでエルは最初に大きく口を開けて、だが気付いて一度止めて、ドアが閉められると同時に声を抑えて彼女に尋ねた。

「レイリースの様子、ありゃどういう事だ? あんなに酷い状態なんて聞いてないぞ。病気……じゃねぇよな? ドクターやロスクァールのじぃさんは何してンだよ」

 かつて少女だった印象の強い女神官は、泣きそうな顔をしてエルを見あげた。

「実はシーグル様はアッシセグから帰って来てから、夜はまったく眠れてもいないし、ほとんど食べてもいないんです」
「なんだって?」
「あのシーグル様の中に入っていた魔法使いはシーグル様に相当酷い事をしたらしくて……その、暗示魔法の後遺症でもあるとドクターは言っていました。一人でいると幻覚や幻聴が聞こえて……夜中に飛び起きたり叫んだり……私は、もう、見ていられません」

 エルは拳を強く握り締め、歯を噛みしめた。
 それから忌々し気に舌うちをすると、握った右の拳で左の掌を叩き、一語一語、噛みしめるようにして呟いた。

「まったく……なんでいっつもいつも何も言わないんだあいつは……」

 気付いてやれなかった自分自身にムカつく。だがそれでもエルには分かっている事もあった。もし気づいたとしても自分ではこの状況をどうにも出来ない、ソフィアと同じく黙っててくれと言われるに決まってる。それが『誰に』なんていうまでもない。

「……そもそも、あいつがヘタに弱音を吐けねーのはマスターの所為だよな」

 もう一度右手の拳で左手を叩くと、エルはソフィアの前から回れ右をして、走る勢いでセイネリアの執務室へ向かった。






 一体何をしているのだろう、と思いながらもセイネリアはグラスの中の自分の瞳と同じ琥珀色の液体を眺めていた。
 いくら考えても行動に起こせない、起こすのが怖いのだから確かにひどいポンコツぶりだとは我ながら思う。

――いっそ、あの男のようにあいつをつれて冒険者として出かけられる身分なら良かったろうに。

 今のシーグルにセイネリアがあの男のように冒険にいこうなんて言葉を言っても、彼が首を縦には振らない事は分かっている。例え彼がその言葉に惹かれたとしても、それは自分で決めた義務を互いに全部放り投げる事が前提なのだから出来る訳がない。
 セイネリアはかつて指にあった指輪の名残を辿るように手でその指の付け根を探り、ある筈がないその感触を思い出して自嘲の笑みを浮かべた。カリンはもう一度指輪を作ればいいと言ったが、セイネリアにその気はなかった。
 セイネリアが今になって思うのは、あの指輪は自分の弱さの象徴でもあったという事だ。彼が確かに生きていると確信出来る何かが欲しかった、それで安堵したかった……どれだけ女々しいのだと我ながらに思う。指輪が消えて、それでも彼が帰って来た事で、例えまた指輪を作っても自分はもうそれを信用出来ないだろうという気持ちもあった。
 ともかく、そんなモノに頼るようでは自分がだめになるというのは分かったから、再度同じモノが欲しいとは思わない。勿論、それに代わる別のモノでもだ。

 とはいえ、ならどうすればいいのかという答えは何時までも出ない。
 彼の無事な姿を見て、彼が生きていると確かに確信出来た筈なのに、未だに心の中に穴が空いたかのように全ての気力が抜けていって感情が動こうとしない。否、自分で無意識に感情を消そうとしている。本当に彼を失ったらと考えて、その絶望と救いのなさを恐れて感情を殺そうとしているのだろう。

「俺は、逃げている……のか」

 自分の感情全てを懸けた彼を失う、というその現実から。指輪を失った時に感じたあの喪失感と孤独感から。それが真実(ほんとう)となるのが怖いから、感情を殺して……いずれは母親のように彼の事さえ忘れるつもりなのだろうか。

「まったく、とんだ腰抜けだな」

 自分の行動と心の反応を見れば、自分で自分に嗤う事しか出来ない。
 彼を失った時が怖いから心を殺す。けれどおそらく、母親の時のように彼の事を忘れるまで行っていないのは、まだ心が未練を残しているからだろう。彼を抱いて彼を感じるその喜びを諦めきれない、愛して愛されるその幸福を忘れられないからまだこの感情を捨てきれない。子供の時のように全てを捨てて『最強の男』にも戻れない。

「何が最強だ……臆病者の、ただのポンコツだろう」

 呟いて、喉を揺らして、セイネリアはグラスの中身を呷る。
 喉を流れる熱い流れは、一時だけその熱さと匂いで思考を揺らしてくれる。けれども飲み過ぎればすぐに体の異常と判断されて勝手に剣の力で浄化されてしまう。黒の剣の主になってからはどれだけ飲んでも酒に酔う事さえ出来なくなった。
 けれどもセイネリアは知ってしまった。もう酔う事さえ出来なくなった頭が今でも唯一酔える時があると、シーグルを抱いて彼の存在をこの手の中で感じられるだけで思考が幸福という最高の麻薬で酔えるのだと。

 けれども、それはあまりにも心を満たし過ぎて……失う事が恐怖となる。それを思い知ったからこそ、その麻薬に存分に酔う訳にはいかない。
 シーグルはきっと自分を許さない。
 だが離れる事はない――それでいいと思う理性で、彼を求める感情を押さえつけている。だから自分から動けない、彼の出方を待つ事しか出来ない。
 どうするのが彼にとって一番いいことであるのか、今ではその判断さえ自信がない。そんな自分が彼にどうこう言う資格もないと、そこから先に思考が動かない。動けない。

 エルがセイネリアのもとにやってきたのは、そうしてセイネリアがカリンさえ下がらせて夕食の代わりに一人で飲んでいた時だった。

 一応エルは客人がいなければ無条件で入れてもいい人間であるから、部屋の警備兵は敬礼一つでエルを通したが、その後に響いた防音魔法が効いている筈の部屋からの声に警備兵達は狼狽える事になった。

「何優雅に酒なんか飲んでやがんだあんたはよっ」

 セイネリアにはすぐに分かった。彼が自分に対してここまで怒るなんて理由は一つしかない。
 エルの尋常ではない様子に顔を目を僅かに細めると、セイネリアはゆっくりと椅子から立ち上がった。

「あいつに何かあったのか?」

 その言葉を聞いた途端、エルは目でこちらを睨みつけたまま口だけに壮絶な笑みを浮かべてみせた。

「そんだけ察する事が出来ンなら、なんであいつの様子がおかしい事に気付かねーんだよ。あんなになるまで放っておいてさ、一番あいつが他人の力を必要としてる時に何でのんびり一人で酒なんで飲んでやがるんだあんたはっ。見損なったぜセイネリア・クロッセス、てめぇには人を人愛する資格なんかねぇっ」

 言ってエルは大きく腕を振り上げてセイネリアに殴りかかってくる。反射的にセイネリアはその拳を手で受け止めようとして……その手を下げた。そこから避ける事もせずそのまま立っていたセイネリアの頬にエルの拳が当たれば、当たった事に驚いたエルが驚き過ぎて殴った姿勢のまま固まった。

「あんな状態、とはどういう事だ?」」

 セイネリアの冷静な声に、エルは一度怯んだものの再び睨み付けて怒鳴った。

「ンな事聞く暇があるなら自分で確かめに行きやがれっ、見りゃすぐ分ンぜ」
「……分かった」

 唇を拭い、考える間もなく即答して、セイネリアは床に落ちた仮面を付け直すとすぐに部屋を出た。



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 エルにーちゃんがんばる。
 



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