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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


14





 ヴァイオリンを手にしてからの香穂子は、いつの間にか、常に何かに追い立てられる

ような気持ちを味わっていた。

 まだ足りない。もっと。もっと。もっと!

 何が足りないのか把握しきれないまま、闇雲に手足を動かしているが、どうにもなら

なくて途方にくれる。

 永遠に埋めることのできない穴。

 汲みきれない海の水。

 そんなものを前にして日々悪戦苦闘しているような感じがする。

 少しでも自分の手ですくいあげてその美しさの片鱗だけでも取り込みたい。

 自分の頭がおかしくなったのかもしれないと時々思う。

 香穂子がヴァイオリンに没頭していることに家族は気がついても、学校の課外活動で

始めて面白くなったのだろうくらいにしか理解していないはずだ。

 娘が音楽科の転科まで考えていると知ったらさぞ驚くだろう。そもそも、そういった

お稽古事から学校の進路を途中で変えることを考えるほどヴァイオリンが弾けるように

なるなんて本来あり得ないと知ってしまった。

 それならボーイフレンドの影響で、彼と仲良くなるきっかけのために始めて頑張って

いるという方が、よほど説得力がありそうだ。

 実際、その通りではないのか。だからこんなにも後ろめたい。

 ヴァイオリンを弾く香穂子。

 ヴァイオリンを弾けない香穂子。

 ──ヴァイオリンを弾かない香穂子。

 月森と一緒にいるならヴァイオリンを弾けない香穂子や弾かない香穂子は存在できな

い。こんなことで今更悩む暇もないのに。




 終業式が終わり、通知表を受け取るホームルームが終わると、待望の夏休みで浮き足

立った生徒たちがあちこちへ散っていく。

 いつもの放課後と違う特別の開放感が学院内にあふれている。

 香穂子は月森と待ち合わせているエントランスへ行く前に、金澤に呼び出されて音楽

準備室へ立ち寄った。

「おー、悪いな。休み前に一応、意思確認な。転科するとしても来年度からの話だし、

別にまだ返事を決めなくてもいいが、試験準備するなら、この夏休みから始めたほうが

いいしな」

「……はい」

「で、ぶっちゃけどうするよ?」

「すみません。……まだ、決められなくて……わかりません」

「そうか。無理もない話なんだから、そうすまなそうな顔しなさんな。別にどっちだっ

て困ることないんだぞ」

「いえ、その……相談とかもしてなくて。自分がどうしたいかも迷ってるので」

「迷うの大いに結構。若者の特権だ。それじゃまだ保留ってことにしておくな」

「はい」

「ゆっくり考えればいい。お前さんがその気になれば、試験勉強もぎりぎりになってか

らだって間に合うだろ」

「そうでしょうか」

「ああ。いきなりの学内コンクールで2位になったくらいだ。きっと、あれより軽いも

んだと思うぞ」

「いえ、でもあの時は……」

「だから折角の楽しい休み前に、若人がそんな暗い顔するなっての」

 金澤は側にあった五線紙で、軽く香穂子の頭をはたいた。

「帰り際に悪かったな。もう行っていいぞ。練習してくのか?」

「いえ、今日は帰ります」

「そっか。休み中、練習に来るなら、たまには音聞かせてくれな」

「先生が来る日知らないのに」

「運良くかち合ったらってことでいいさ。OK。じゃあ行った行った。はよ帰れ。羽目

外してどっかで事故るなよ……ってお前さんは大丈夫そうだな」

 金澤は手を振って香穂子を追い払うしぐさをしてから、机の上で山になっているプリ

ントに目を通す作業を始めたので、香穂子はそのまま頭を下げて準備室を後にした。


 迷っていいのだと金澤は言うが、迷っていることが許される時間はそんなにないと香

穂子は感じている。このまま何も考えずにいるわけにはいかない。

 こんなあやふやな気持ちのまま、月森と楽しく過ごせるのだろうか。彼に迷惑をかけ

ないだろうか。香穂子の不安はまた少し色を濃くした。



 エントランスでは月森が先に来て待っていた。購買から一番遠い階段の影のベンチに

座って本を開いている。香穂子はそっと近づいて声をかけた。

「お待たせ、月森くん」

「すこし前に来たばかりだ。そんなに待っていないから気にしなくていい」

 月森は本を閉じて鞄にしまうと、ヴァイオリンケースを持って立ち上がった。

「駅前通りで楽譜を見て……それから食事して帰るのは? 臨海公園でもいいが」

「いいよ。あ、でも先にランチでもいい? おなかすいちゃった」

「もちろん。そうだな、時間的にその方がいい」

 ランチと言っても高校生が制服で楽器を抱えて入れる店となると普通ならファースト

フードやファミリーレストランになりそうだが月森にそういう店は著しく似合わない。

 かといって彼が家族と利用しそうなレストランも、高校生が下校途中で入れる店では

ないだろう。



 結局、無難なところでサンドイッチやパスタやサラダも食べられる駅前通りのカフェ

でランチになった。土日ではお目にかかれない日替わりランチセットで食後のコーヒー、

デザート付も選べるし、下校デートとしても悪くない選択だった。

 おいしい食事をして、いつものようにヴァイオリンのことや学院のことなどを話して、

なんとなくその足で臨海公園まで歩いた。

 公園の門が見えるところまで来て香穂子は気がついて月森に尋ねた。

「あ、ここまで来ちゃったけど楽譜見たかったんじゃないの?」

「……いや、そういうわけでもなかった」

「そう? だったらいいんだけど、でも」

「本当にいいんだ。楽譜ならすぐ向こうに行くわけだし」

「そっか。わざわざ輸入されて高くなっちゃうの買うことないよね」

「そうじゃなくて……すまない。要するに……何というか、他に場所を思いつけない俺

の癖というか」

「あーなるほど。そういうのも月森くんらしいね」

 彼の少し照れた口ぶりを微笑ましく感じて、香穂子は小さく笑った。

「もっと視野を広げなければとは思っている」

「そうなの?」

「君と話していると特にそう思う」

「うーん、それっていいのかなあ」

「どういう意味だ?」

「いや、悪影響及ぼしてないといいけどって」

「そんなことあるはずないだろう。むしろ逆だ」

 月森が本気で否定するので香穂子はふっと息をついた。

「音楽家には音楽から離れて物を見る視点も必要だと思う。でないと表現の幅がせまく

なるんじゃないかと考えるようになった」

「……難しいんだね」

「ああ」


 公園に入って海の見えるベンチに並んで座った。

「でも、私が見る月森くんはいつだって音楽が芯にあるから月森くんて感じ」

 香穂子がいつも感じていたことを口にすると、月森は黙って先を促すように彼女を見

つめていた。その様子はまるで見つめることで香穂子の心を読み取れるのではないかと

錯覚するほどの一途さにあふれていた。

 だからその問いかけは、ことさら意識せず、さらりと香穂子の口をついて出た。

「だって月森くんは音楽と関わらない自分なんて思ってみたことないでしょう? やめ

たくなったこととか嫌になったこととかは?」

「……確かにないな」

「だよね。きっとできないから、わからないからって迷って逃げ出したりもしないよね」

 香穂子は大きく頷いた。

「月森くんにとって音楽は生きることと一緒で……人生そのものだもん。──人生から

は逃げられないよ。音楽の道を選ばない月森くんなんて考えられない」

「そうだな。自分でも、そう思う。……では、君は……?」

「私?」

「君にとって音楽は人生ではないのか?」

 その質問は、今の香穂子には少しつらかった。

「そうだったら悩まないのかな……」

「香穂子……」



 音楽に関しては迷いのない月森。迷ってばかりの自分には、あまりにもまぶしかった。

 ならば、いっそ彼に最後通告されてしまえば楽になるだろうか。

 言葉で説明できない焦燥感が背中を押している。

 香穂子には、ずっと悩んでいて月森に言えなかったことがある。

 それを言葉にできるだろうか。

 自分ではわかりそうもない答えの問い。



「例えばね、月森くんの最愛の人が……」

「俺が好きなのは君だ」

「話は最後まで聞いて」

「……すまない」

「月森くんの好きな人が「私とヴァイオリンどっちが大事? どちらがより好きなの?」

って聞いてきたら、どうする?」

 香穂子の問いに月森はひどく困惑した表情を見せた。

「君はそんなことを言わないから、その質問は無意味だ」

「私じゃなくて、いつか側にいる誰かでいいよ」

 そう言った途端、月森はいきなり体勢を変えてベンチに閉じ込めるように香穂子の前

に覆いかぶさり背もたれの両側をつかんだ。香穂子はそのまま月森に両腕で囲われるよ

うにしてベンチの背いっぱいに押しつけられる形になった。

「月森くん、手っ! 手は……っ? あぶないよ!」

「君は俺を試しているのか」

 月森の押し殺した悲しみを感じて、香穂子は一瞬たじろいだ。

 普段あまり感情をあらわにしない彼が、時折香穂子にだけ見せる感情の波は穏やかな

ものだけではなかった。

「……たとえ君の心が俺の上に無くても、俺が好きなのは君だ。冗談でもそんなことを

言わないでくれ」

 真顔で訴えられ、香穂子は自分の頬が熱くなるのを意識した。

 月森の瞳は香穂子が目をそらすのを許さない。

「ご、ごめん。月森くんの気持ちを信じてないわけじゃないの。……でも」

 香穂子は真剣な月森に真剣に、ずっと考えていたことを告げた。

「私が聞くとか聞かないとか関係なくて、月森くんにとって音楽は何より大事で、自分

のすべてをかけてるものでしょう? 違う?」

「……違わない……が……」

「私が音楽の妨げになるなら月森くんは私を好きにならないし、ましてこうして付き合

ってくれたりしない……音楽に関係ない私だったら、たぶん月森くんは……」

「香穂子」

「私も音楽が大好き……だけど……違うの」

「何が違うんだ」

「…………」

 香穂子は答えられない。月森にはわからないのだろうか。そんなはずはない。

 生まれた時から音楽とともにあり一生音楽を志して生きていく月森と、偶然が重なっ

て今頃ヴァイオリンを手にした香穂子の違いなど、比べるまでもないではないか。

 胸の痛みに香穂子がうつむくと、月森の声がゆらいだ。

 彼は香穂子の前から離れ静かに隣に座りなおすと、膝の上にひじをつき両手の指を絡

ませ合わせて、そこへ額をつけていた。まるで懺悔でもするようだ。

「君が好きだ。気が付くといつも、君のことを考えている。君の音楽と、俺の音楽……

どうすれば……離れずにいられるだろうかと」

 絞り出すような声の切実な響きに、香穂子は月森も決して迷いがないわけではないこ

とを察することができた。ならば、はっきりさせる意味はあるかもしれない。

「月森くんは、ヴァイオリンを弾く私を好きになってくれたよね。…………じゃあヴァ

イオリンをやめたら嫌いになる? 音楽と関係ない私には興味ないでしょう?」

「──やめるのか?」

 香穂子は返事をしない。

「やめられるのか?」

 月森が微妙に変えた質問に香穂子の心の中で何かが破裂した。

「私は月森くんとは違うから、月森くんと同じように自分の全部を音楽に捧げられる自

信がないの」

「そんなことを聞いているんじゃない。俺は……」

 再び顔を上げ、香穂子側へ乗り出してきた月森の話を香穂子はさえぎった。

「誤解しないでね。そういう月森くんを素敵だなと思ってるんだから」

「それなら俺と君には重なる部分もあるはずだ」

「自分と違うから憧れるの。私には手の届かない月森くんだから……」

「手が届かないところにいるのは君の方だ」

「じゃあ、やっぱり私たちは世界が違うんじゃないかな」

「世界が違うって、どんな世界だ? 確かに俺と君は考え方も違う。奏でる音楽も違う。

同じヴァイオリンという楽器で同じ曲を弾いても、その演奏は同じじゃない。それは別

に俺たちだけのことではなくて……」

「うん。だからそうやって、すべてが音楽になるよね。もし私のすべてが音楽ならきっ

と転科に迷ったりしない。すぐに猛練習、猛勉強して音楽科を目指す……よね」

「それは……」

 月森は否定できないだろうと香穂子は思った。

「君が、まだ気付いていないだけだ。君の中の音楽に」

「気付いてないのは月森くんだよ。私は魔法のヴァイオリンでドーピングされた促成栽

培だもの。月森くんに言われなくても、そのことに一番悩んでたのは私だった。コンク

ールに参加することになった時、辞退しろって言われたのも別に月森くんにだけじゃな

い。音楽科の真剣な人、みんな私のこと軽蔑的な目で見てたし……無理もないけど」

「それは最初の内だけだ。君が本気で音楽に向き合っていることが演奏から伝わるよう

になってから、そんなことはなかったはずだ」

「月森くんは優しいね」

「俺は優しくなんかない」

 激しく首を振る月森からそっと離れるように彼の肩を押した。

「ううん。優しいよ。音楽が関わると厳しくて……でも優しいの。それって、とびきり

音楽を愛してるからだと思うな」

「香穂子」

「行ってらっしゃい。ザルツブルグのセミナーがんばってきてね」

「香穂子!」

「明日、見送りには行けないけど、ごめん、先、帰るね」

「やめないだろう? 香穂子」

 月森の制止を振り切るように香穂子はヴァイオリンと鞄を持って立ち上がった。

「……練習するから、またね」

 それが香穂子の精一杯だった。

 後は月森の返事を聞かず、出来る限りの速さで人の多い公園を駆け出し、追ってくる

かもしれない月森を見つけてしまわないよう、一度も振り返らずにわき道を抜けて家に

帰った。



 





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