憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


13





「今日、オケの練習見られなくてごめんね」

『俺の方こそ、昼休みの約束をすっぽかしてしまってすまなかった』

「急に大学部に呼ばれてたんじゃ仕方ないよ。気にしないで」

『いや、それでも君を連絡なしに待たせた事実は変わらないから』

 夜の自室で携帯電話に向かってお互いにあやまりあうのは、なんだかこっけいだ。

 相手の表情が見えないのが不安でもあり逃げ道にもなっていて、香穂子は微妙な心境

だった。

「それで、え……と、どうだった?」

『合奏練習の方は遅刻で迷惑をかけたが、なんとか仕上がってきたと思う』

「よかった。もうすぐだもんね。本番楽しみにしてるね」

『大学に呼ばれたのは、正直、急な話ばかりで……会った時に詳しく話してもいいだろ

うか』

「もちろん。月森くんが良ければ聞きたいな」

『ありがとう』

 月森は誠実で優しい。

 香穂子の不安をあおらないように気を遣い、彼があまり得意とは言えない電話で話せ

るだけ話してくれているのがわかる。

 彼の音楽と人間性は分かちがたく溶け合って月森蓮という人を構築している。

 少しでも近づきたいし、彼の負担になりたくなかった。

「とにかく期末と演奏会が終わってからだね。そしたら夏休みだし」

『香穂子?』

「や、なんでもない。大丈夫だよ。またお昼にね!」

 香穂子はおやすみなさいを言って、電話を切ったあと、忘れられない月森のメンデル

スゾーンの演奏を振り切るように、今、練習しているエチュードを実際にヴァイオリン

を弾いているつもりになって譜面をにらみ次から次へと暗譜に努めた。気を抜くと脳裏

に彼の演奏が浮かんでくるから似たような曲は危険だ。

 幸い、香穂子がさらっている練習曲はどれもメンデルスゾーンのような有名で華やか

な曲ではなく、CDにもなっていない、香穂子にとって地味で渋い上に覚えにくく難し

いものばかりだった。

 このたくさんの練習曲を完璧に弾きこなしていかなければならない。

 できるだけ早く。焦っていい加減になることなく、完璧を目指すのだ。

 そうでないと先には行けない。

 香穂子がエチュードを一気に一冊丸々暗譜してレッスンに行った時、頼るべき師は、

その日から香穂子に要求する指導の内容を変えた。

 声を荒げることもなく、表面はおだやかで、でも内容は果てしなく濃密で厳しかった。

「あなたの音を……あなただけのヴァイオリンの音を生み出すために弾くのね。だった

らそこで満足していては駄目だわ。ただ素直でやさしくかわいらしい……一時の泡のよ

うな演奏では、すぐに飽きてしまう。感性だけに頼っていたらすぐに行き詰るわ。幅が

足りないのね。もう一度、弾いてちょうだい。覚えた譜面をなんとなく弾いてはいけな

いわ。何となく出す音は何となくしか鳴らないの。自分の音をちゃんとお聞きなさい」

 与えられた言葉を何度も胸の中で繰り返す。

 わかっていても、自分が今、立っている足元がひどく不安定な砂場のような気がして、

いっそ放り出して走り出したくなる気がする。

「こんなきついこと、みんなやってきたんだ……すごいな……」

 感心するとともに当たり前のように同じことをしているだけでは、永遠に追いつけな

いだろうという気もしている。いくら時間があっても足りない。それでも始めたことを

続けるだけだ。




 期末試験が終わり本格的な夏休みに入る終業式の前のわずかな間の一日に、音楽科の

一学期を締めくくるように学内演奏会が開かれる。

 月森と香穂子は演奏会当日まで、それまでと同様に昼休みに顔を合わせていたけれど、

なんとなく当たり障りのない日常会話ばかりをしていた。

 香穂子は普通科の試験勉強をほとんどを家で補習をまぬがれる程度にこなして、早朝

放課後と休み時間はは許される限りヴァイオリンを弾く日々を続けていたが、それを変

に思う者はいないようだった。

 試験前の部活動休止期間も、音楽科の生徒の実技練習は許されている。つまり練習室

は開放されていて、本来、普通科の香穂子には関係なくても学院での練習を禁止された

り下校を促されることはなかった。

「転科編入試験の練習してると思われてるのかな」

 もしかすると月森も、そう受け取っているかもしれない。

 香穂子は自分でも決めかねているが、少なくとも今の時点で転科を希望しているとい

うわけではないのだ。誰かにそれを相談することもしていない。

 本当に転科を希望するなら、このままではきっと間に合わない。

 それなのに香穂子の望みは、ヴァイオリンが上手くなりたいということ以外、いまだ

あいまいでぼんやりしていて不確かなままだ。

 期末試験は山が当たった得意教科以外、運良く赤点はまぬがれた程度の成績だったが、

そのことに気を取られている余裕もなかった。

 演奏会の当日、この日ばかりは香穂子も自分の練習より月森のことが気になった。

 学院の授業は午前中のみで、夏に予定される様々な公式大会を前に部活動に熱心な生

徒は嬉しい時期だが、午後からの演奏会のため音楽科中心の部活は休みになっていた。

 演奏会に出演する生徒は授業が終わるや否や昼食もそこそこに講堂に集合していたか

ら、香穂子も月森に会っていなかった。講堂の楽屋を訪ねてもいいのかもしれないが、

自分は観客だし、本番前に彼の集中を乱すのはよくないだろうと自制した。

 同じ協奏曲のソリストでも東京のホールでプロのオーケストラの定演で代役デビュー

した時とは全く条件が違うけれど、月森にとってメンデルスゾーンを演奏する態度や意

味が変わるはずはない。音楽の前で彼はいつも真摯だ。

 何度も聞いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。

 学内演奏会のプログラムの最後の演目になったその演奏は学生オーケストラの懸命で

素直な響きが、不思議と月森の演奏と合って、すがすがしくさわやかな感じがした。

 圧倒され感動で全部を持っていかれそうになるというのではないが、シンプルで曲の

美しさがそのままこちらに伝わってくる。講堂で演奏を聞いたのはほとんどが音楽科の

生徒と教師の関係者で、あの学内コンクールと似たようなものだったが、コンクールと

違うのは、採点して評価する場ではなく、聴衆の前で音楽を奏で聴いてもらうコンサー

トであるということだ。

 身内とも言うべき観客はアンコールをうながす拍手を惜しまなかったが、学内演奏会

という発表の場では月森や学内オーケストラがその希望に答えることはなかった。

 大きな拍手に包まれて、しかし参加者の制服姿そのままに折り目正しく学内演奏会は

終わった。



「月森くんすごかったね」

「だって、あいつもうベッケンバウアーでデビューしちゃったんだから、学内なんか軽

いよな」

「でも学オケよかったよ。聞いてたら俺も練習きつくても合奏一軍めざして選考試験受

けたくなった」

「ヴィオラ持ち替えれば絶対乗れるんじゃないか」

「うーん、どうせコンマス目指すとか無理だし、ヴィオラもいいかなあ」

 講堂を出る途中で耳にする会話は、香穂子にとってあまり愉快なものではなかった。

 すばらしい演奏をした月森が褒められているのは嬉しい。

 今日の演奏が成功して話題になっているのは悪いことではない。

 なのにどうしてこれほどやるせない気分になるのか自分でもわからなかった。

「あ、日野ちゃん、オケ部のぞいてかない? これから練習あるんだよ。いい演奏聞く

と自分もやりたいなーなんて思っちゃったりしない? ねっ?」

 飼い主をみつけてごきげんの子犬のような勢いで後ろから小走りでやってきた火原が

香穂子の背中をたたいて声をかけてくる。

「……火原先輩、ごめんなさい。今日は用事があって」

「え〜残念! あ、月森くんか。ごめんね。じゃ、また今度! 夏休み中の暇な時でも

歓迎だよ」

 どうして火原はこれほど何度も繰り返し香穂子をオーケストラ部に誘うのか。

 自分はそんなに興味がありそうにしていたろうか。

 ──していたかもしれない。

 けれどそれは火原のように、ただ単にオーケストラの中に入って演奏したいという純

粋な動機とは微妙にずれていた。こんな中途半端な気持ちでオケ部に入部しても、うま

くいかないと思う。

 学内コンクールが終わってから、もう何度同じことを考えただろう。

 いい加減に呆れられてもおかしくない。

 さすがにもう外は暑いので、エントランスで月森と待ち合わせをしていた。学内演奏

会の片付けと挨拶が終わったら、その足で月森がエントランスに来る。

 放課後の練習も今日はお休みだ。明日の終業式が終われば、学生にとって待望の夏休

みが始まるし、その前に久々に一緒に帰宅しようと約束をしていた。最近お互いに練習

に集中して忙しくしていたから貴重な機会だ。

 何を話せばいいだろう。月森は当然、今日の演奏の感想を求めるに違いない。

 それからあまり一緒にいられなかった間の練習のこととか、もしかすると夏休みの予

定とか。

「私、何にも決まってないなあ」

 香穂子はぼんやりと頭の中でヴァイオリンの弦を押さえながらピチカートの続く練習

曲を口に出さずに歌っていた。

 聞いたばかりの月森のメンデルスゾーンは感想を話す時までは意識の外へ追い出さな

いと、いつまでもひたってしまうので注意が必要だった。

 三十分もしないうちに、はや歩きの月森がヴァイオリンケースを提げて姿を見せた。

 この時間まで残っている生徒は、ほとんどおらず、月森はすぐにベンチに座っている

香穂子を見つけた。

「待たせてすまなかった」

「そんなに急がなくても大丈夫だよ」

「いや、君に早く会いたくて」

「え……っと、あ、ありがとう。その……お疲れ様」

「こちらこそ今日も聞いてくれてありがとう」

「何か飲む?」

「そうだな」

 購買はもう閉まっていたが、紙パックの自動販売機でグレープフルーツのジュースを

買って、ふたり一緒にベンチに並んで腰掛け、乾杯の真似事をしてからストローをさし

て飲んだ。

「正直なところ大きなミスなく終わってほっとした」

「いい演奏だったよ」

「そうだろうか。少し無難に流れてしまった気がする。もっとソロとオケのハーモニー

とバランスを追求してもよかったかもしれない」

「月森くんは自分に厳しいからなあ。理想が高いもんね。……そうじゃないといけない

って……わかるけど」

「硬すぎただろうか」

「ううん。そんなことないよ。むしろなんていうか……さわやかって感じだった」

「軽すぎた感じはしていたんだ。特にカデンツは」

 香穂子の言葉にいちいち考え深げに反応する月森を前にしていると、たまにちょっと

だけふざけてからかいたくなるのだが、今日の香穂子はそういう気分になれず、彼の心

を晴れやかにしたいとしか思わなかった。

「軽いってことないよ。メンコンの華やかさはばっちりあったし。えーと、この間のS

ホールのメンコンは熟成された赤ワインで、今度の学内はレモンスカッシュみたいな! 

暑い時はレモンスカッシュのが絶対おいしいって。あ、ワインなんて飲んだことないけ

どイメージね。イメージ」

「君の例えは面白いな」

 月森が小さく笑った。

「一番最初に聞いた時が一番印象的ってことはあるかもしれないけど、演奏するのも最

初に弾いた印象が一番強かったりするかな」

「それだと初演がいつも一番印象が強いことになってしまうが、そうとは限らないな」

「だよね。私なんかだと毎回、初めてばっかりだけどね」

「でも慣れが倦怠を感じさせて恐ろしいということも確かにある……名曲は特に……」

「きれいな曲は、ただきれいなだけじゃ駄目……なのかな」

「……香穂子?」

「ごめん、そろそろ帰ろうか」

「香穂子、明日の終業式で夏休みだが、君の予定を聞く前に話しておかないと」

「なに?」

「実はザルツブルグの夏の音楽セミナーに参加することになった。マエストロ・ベッケ

ンバウアーの推薦で」

「……わ、すごいね」

「そのこともあってこの前、大学に呼ばれたんだ。ちょうど公開レッスンでウィーンの

音楽大学からセミナーに関係してるチェリストの先生が来日していたんだが……どうも

高等部の音楽科も大学と同じ敷地にあると思っていたらしくて、急な呼び出しになった

らしい」

「もしかして大抜擢じゃないの? マエストロから直々に呼ばれるって」

「……代演からつながっている大きいチャンスだと思っている」

「うん、すごいよ! 頑張ってきてね」

「そのセミナーが……7月末からなんだが、準備もあって……」

「そっか、じゃあ夏休みはあんまり会えないんだね。ちょっと残念だけど、でも応援し

てるよ」

「ありがとう。……香穂子、俺は」

「いつから向こうに行くの?」

「ちょうど母もヨーロッパで仕事があって一緒に行くことになった。しあさって……な

んだ」

「本当にすぐだね。支度が大変そう」

「夏休み、君と過ごせる時間を楽しみにしていたんだが」

「そんなの気にしなくていいってば。また帰ってきてから、色々話を聞かせてもらえた

ら嬉しいし」

「もちろんだ。できるだけ……メールもする」

「じゃあ明日の終業式でしばらくお別れだね。元気で……」

「香穂子」

「なに?」

「明日の帰りは練習もしない……というわけにはいかないか」

 確かにこのところお互いに自分の練習ばかりで昼休みに会うだけだった。

 月森はかなりそのことを気にしているようだ。

 一緒に練習するというのは、実際、二重奏でも他のアンサンブルでも合奏曲でもない

と意味をなさない。それぞれの個人練習を一緒にすることはできないのだ。香穂子が自

分のエチュードをさらって、月森が教える立場になるのならあり得るが、今、この時に

そんな悠長な練習に付き合う暇は彼にはないはずだ。

「あ、私のことは気にしなくていいよ。家で練習できないから、学院に残っちゃうだけ

だし……普通科の私でも練習室使ってもいいみたいだから夏休みも通うつもりなの」

「いや、そうじゃなくて……少しどこかへ寄っていけないか……と思って」

 つまり、ついでとはいえ、いわゆるデート的な下校の寄り道の誘いということだろう

か。夏休みの間、ヨーロッパと日本でほとんど会えないというのは寂しいし、一応、付

き合い始めであるのだから、せめて終業式の後の午後くらいは下校デートも悪くない気

はする。

 そもそも香穂子には今のところ転科を決めたのでもない限り、月森のように演奏会や

セミナーや日々の授業のレッスン、試験だコンクールだといった差し迫った特訓の必要

はないのだ。

 後ろめたく思う必要など、どこにもない。……ないはずだ。

 なのにどうして月森も香穂子も、こんなにぎこちなく、罪悪感にさいなまれるような

雰囲気で互いの予定をうかがわなければならないのだろう。

 初めての男女交際の照れがあるにしても、これは少し異様だろうと香穂子はぼんやり

と思った。

「だったら今日、これからじゃだめ?」

「だめなんかじゃない。ただ、明日なら外で昼食をとるとか……少し時間が取れるかな

と思って。ああ、制服ではまずいだろうか」

「それは気にしないけど。うん、じゃあ明日はそういうことで。あ、だったらその分、

朝練習するから家までお迎えはパスしていいよ」

「え、なぜ?」

 月森は香穂子の提案に心底意外そうな表情をした。

「だってあと一日だしさ。私もまだ一人の練習しなきゃいけないし。2学期になって大

丈夫だったらまた一緒に登校しようよ」

「……わかった。君の練習の邪魔をするつもりはないんだ。もし俺が力になれることが

あれば言ってほしい」

「ありがとう。月森先生を紹介してくれて、それだけでもうすっごく感謝してるのに、

これ以上なんてばちがあたるよ」

「そんなことは絶対にない」

 月森の強い口調は彼のまっすぐな思いをそのまま伝えてくる。

 彼はいつも本気で真面目で真剣だ。

 それを堅苦しいとか余裕がないとか悪く言う者がいることも知っているが、香穂子に

とって月森の真面目さは身近な手本で憧れなのだった。



 





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