憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


12





 学内演奏会の日が近付いてくる。

 香穂子は確かにその日を楽しみに待っていたはずなのに、学生オーケストラの練習見

学に行く時間も減らして、ずっと個人練習にあてていた。期末試験も同様に近付いてい

たから月森も忙しそうで、特に香穂子の行動に疑問を抱いたりはしていないようだった。

 ごく普通の高校生の男女交際としたら、かなり控えめで変わった付き合いかもしれな

いが、何より音楽が一番の月森がそんなことを気にするはずもなく、香穂子もまた周囲

と比較してどうこうしようという余裕はなかった。そもそも付き合うこと自体が初めて

同士だし、他人と比べることが不毛で無意味なこともわかっていた。

 最近の二人の交流と言えば、昼休みくらいだろうか。待ち合わせて一緒に食べる昼食

の時間は、登下校も日々の練習も別々になりがちな二人の数少ない場になっていた。

 せめてそれくらいは合わせないと、全く顔を見ないまま話す機会もなくなるという恐

れが、どちらからともなく毎日の昼食に向かわせているのかもしれない。

 場所は学食のカフェテリアか森の広場が多い。そろそろ暑くなってきたので校舎内が

無難ではある。

「もうすっかり夏の日差しだね。期末が終わって、学内演奏会が終われば夏休みか……

早いなぁ」

 香穂子は箸を止めてふとテラスの外をまぶしそうに見た。

 前に座っていた月森は香穂子をまっすぐに見すえて話す。

「そうだな。……ところで香穂子、明後日の学オケの合奏練習は見に来る予定はないだ

ろうか」

「えっ? 何かあるの?」

「いや、ゲネプロに近い形で通しそうだから、君に聞いてもらえたらと思って。もちろ

ん用事や練習があれば無理はしないでくれ」

「そっか。わかった。それなら喜んで見学させてもらうよ」

「自分の練習を優先してくれて構わないんだ」

「大丈夫だよ。学オケ見学だって練習の内だもん」

「そうか……メンコンさらっているんだろう?」

「ちょっとはね。目標のひとつ……かな」

「できれば一度、聞いてみたい」

「だ、ダメダメ! まだとてもじゃないけど、聞けるもんじゃないって!」

 とんでもないと首を横に振る香穂子の言葉を、月森は少し困ったような顔をして受け

止めた。

「君がそこまで言うなら諦めるが……練習の過程を俺に聞かせることを遠慮しないでほ

しい。お互い様ということもあるだろう?」

「遠慮なんかしてないよ。そうじゃなくてホントにまだ練習途中過ぎるの」

「ここのところ君の音を聞いていないから、正直、少し寂しい」

「えぇ? 月森くんが?」

「君の弾くヴァイオリンは、俺にできない演奏だから」

 彼ほどのヴァイオリン弾きに、そんなことを言われても香穂子には返せる言葉がなか

った。

 ただ嬉しさと共に恐ろしさを感じる。

「今日、レッスンで月森くんの家に行くけど……月森くんも確か外で個人レッスンだか

ら、いないよね」

「ああ。残念ながら」

「いいの、ごめん、気にしないで。その分、こうして学校で会えてるもんね」

 もっと一緒にいたいという気持ちもあるが、それを口にはしなかった。

 月森蓮には、手をつないで登下校とか休日のデートよりも優先させるべきものがある。

 そしてたぶん、香穂子にも譲れないものはあるのだ。

 目指す先にたどり着く近道はないから、一歩ずつ進むしかない。

 二人にとって時間はいくらあっても足りなかった。






 月森が見に来てほしいと話していた学内オーケストラの合奏授業の日、香穂子は昼休

みに月森と落ち合うことができなかった。携帯電話に連絡メールもないのは、月森にし

ては珍しいことだ。

「急病でお休み……とかじゃないといいけど」

 しかし、音楽科の教室まで一人で乗り込んで確かめるのも気が引けた。

 取りあえず香穂子から一言だけメールを送信して、あとは自分の練習時間に充てるこ

とにする。

 急だったから練習室は使えそうもないので、森の広場で木陰を探した。そろそろ夏の

湿度を避けるべき季節だが、昼休みの間くらいなら大丈夫だろう。

 一昨日のレッスンで及第したエチュードの先に取り組む前に、ふと協奏曲のメロディ

ーが頭をよぎった。

 まだ無理だとわかっていたが、最初の主題だけ弾いてみた。

 甘く切ないメロディーは美しい。つい夢中になって一楽章を弾ききった。

「ブラボー! 日野ちゃん! すっごい良かった!!」

「火原先輩!? な、なんで、こんなところに」

 食後の昼休みなら友人とバスケでもしていることが多そうな火原に、森の広場のはず

れで練習に拍手されるとは思わず、香穂子は驚いて弓を落としそうになった。

「ごめんね、驚かせちゃった? お弁当食べてから、あっちの木の下で昼寝してたんだ。

そしたらヴァイオリンのすっごくいい音が聞こえてきたからさ。日野ちゃんメンコンさ

らってるんだ?」

 笑顔で気さくに話しかけてくる火原は、まるで屈託がない。

「ねえ、何ならオケ部入ってメンコンやらない? 月森くんの学オケと勝負! なーん

てね」

「とんでもないです! 本当にちょっと弾いてみただけで、まだコンチェルトなんて無

理なんです。これから自分の練習するところでっ!!」

「えー、日野ちゃんメチャクチャ上手くなってると思うよ。コンクールの後も、ずっと

頑張って練習してるでしょ」

「ありがとうございます。でも自分が足りないこと、わかってますから、そんなに褒め

ないでください、先輩。うぬぼれちゃいます」

「だから、本気でいいと思ってるからオケ部に誘ってるんだってば。日野ちゃんはコン

クールで2位だったんだし、学内のソリストやっても全然、不思議じゃないよ」

 素直な賞賛は嬉しかったが、香穂子は肩をすくめて照れるのが精一杯だった。

 困惑している様子を感じ取ったのか、火原は少し落ち着きを取り戻した。

「……っと邪魔しちゃってゴメンね! おれ、もう向こうに行くからさ。練習続けてよ」

「すみません、先輩」

 にこにこしながら手を振って火原が去って行くと、香穂子は気を取り直して、残りの

時間を予鈴ぎりぎりまでエチュードの暗譜練習に費やした。




 放課後、終礼から解放されると香穂子はまっすぐ講堂に向かった。

 今までの金曜午後の合奏練習であれば、とうに佳境に入っている時間で、いつもなら

ば練習中の演奏を聞きながら邪魔にならないようにそっと隅の客席について、そのまま

月森とオーケストラをながめるのだが、この日は様子が違った。

 オーケストラのメンバーは全員舞台の席に着いておらず、パラパラと音をさらう者、

おしゃべりをしている者とまちまちだ。指揮者の先生も舞台には見当たらない。

 肝心のソリスト月森の姿も、やはり見えなかった。

「休憩中かな」

 香穂子は首をかしげて、客席の前方へ降りていく。

 ステージに近い客席の前から5〜6列目の中央あたりに指揮の先生と教師が2名ほど

立って話をしている。

 すぐ脇や後ろの席に見学していたらしい音楽科の生徒も数名いる。その中のひとりが

香穂子に気付いて手を振って声を上げた。火原だった。

「日野ちゃん! 学オケ見に来たの? あ、先生、日野ちゃんはどう? 彼女メンコン

弾けるよ。おれ昼休み練習してたの聞いたばっかり」

「日野……? あの子は普通科だろう」

「そんなの関係ないじゃん。学内コンクール2位なんだからさ! 1位の月森くんがい

ないなら日野ちゃんがソロやるのが筋でしょ」

「そうは言ってもなあ。普段からオケも未経験な者には荷が重いだろう」

 指揮の教師はあごに手をあてて、うなっている。

 香穂子は自分がただならぬ話題になっているらしいことに慌てて、その場へ急いだ。

「あの……私に何か関係あるお話ですか? 火原先輩……?」

「あぁ、いきなりでゴメンね。月森くんが大学の方に呼ばれて、今日、合奏なのにまだ

戻ってこれてないんだって。それで通し練習は、とりあえず代打でやろうかってコトに

なってさ。ちょうど日野ちゃん来たから、いいんじゃないかなって思ったわけ」

「何言ってるんですか、火原先輩! 無理に決まってますよ」

 突然の無茶ぶりに香穂子は青ざめた。

「えー、暗譜であんなにバッチリ弾けてたじゃない。日野ちゃんならソリストの代わり

できると思うよ。せっかく集まって合奏で通しなんだから協奏曲ソロなしより、ずっと

いいって」

「慌てて合奏研究員の助っ人を呼んでくるよりは時間を節約できるか……どのみち練習

だしな」

 屈託のない火原の提案に、指導の指揮者までが乗ろうとしている。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 止めようとする香穂子に、火原は耳打ちするように話した。

「日野ちゃん、指揮のセンセ、オケ部の顧問なんだ。大丈夫、おれが保証するから今だ

けソリストやってみない? 絶対楽しいからさ!」

「先輩、私、1楽章を少しさらってただけでオケと合わせられる段階じゃないんです。

せっかくソロとオケが通せるところなのに、月森くんの代わりに私だなんて、みんな困

ると思います」

 香穂子は必死に不可能を訴えているのに、指揮者は別のことを考えているようだ。

「楽器は持ってきてるのか? そういえば金澤に君の見学許可を出したな。初めて練習

を見たわけじゃないんだな? ふむ」

「いえ、先生、いくら何回か練習見学してても、私に協奏曲のソリストはできないです」

「自信がないか。ああでもコンクールの演奏を聞いたかぎりじゃ……」

「今だけの代役でも音楽科でちゃんと勉強してる人の方がいいと思います。……ごめん

なさい!」

「あっ、日野ちゃん、待ってよ! そこまで深刻に考えなくてもさ。日野ちゃん!!」

 引き留める火原に答えず、香穂子はヴァイオリン・ケースを抱え直してきびすを返す

と、大急ぎで客席を駆け上がり、講堂を出てさらに走った。

 正門の見えるあたりまで来た時、下校する生徒たちとは逆に、門から猛然とした早足

で講堂の方へ向かう音楽科の制服を見つけた。

 月森だ。

 香穂子はとっさに彼の視界に入らないファータ像の陰へ回った。

 急いでいる月森は当然のごとく離れた位置にいた香穂子には気付かず、正門前広場を

通り抜けて行った。

 おそらく彼は何かの事情で急に大学に呼ばれていたから、香穂子に連絡もできず昼休

みにもいなかった。

 その用事は予定より長引いたか何かして、そして今、急いで合奏練習に戻って来たと

ころなのだろう。

 ならば香穂子も彼の後から講堂に戻ればいい。もう代わりのソリストはいらないはず

だ。そうすれば約束通り、月森のソロでメンデルスゾーンの協奏曲を通しで聞ける。

 月森の姿が見えなくなってから、無意識に数歩講堂へ向かって歩き出し、はっと思い

直して香穂子は立ち止まる。

 今、講堂へ行って、月森の演奏を冷静に聞くことはできそうになかった。

 何故かはわからないが、ただ、できないと思う。

「ごめん……月森くん……ごめんね」

 香穂子は月森への謝罪を自分の抱くヴァイオリンに向けて繰り返してから、下校する

生徒たちに紛れてそのまま正門の外へ出て行った。



 





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