憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


11





 翌週のヴァイオリンの個人レッスンで、さんざん迷った上にではあったが、香穂子は

意を決して、自分の思いを月森の祖母でもある師に伝えた。

「メンデルスゾーンの協奏曲をさらいたいの?」

「はい」

「学院で演奏する機会があるのかしら」

「いえ、それは月森……蓮くんの方で、私は特にないんです。でも弾いてみたくて」

「何か曲を練習するのは、もちろん悪いことではないわ。弾きたい曲を弾けるようにな

るために頑張るのもね。ただ、香穂子さんは協奏曲に取り組む前に、まだレッスンで身

に付けるテクニックがあるのじゃないかしら。焦る必要はないのよ。それとも音楽科へ

移る試験の課題だったりするのなら……」

「いえ、そういうわけじゃないんです。……勝手を言って申し訳ありません。まだまだ

だって自分でもわかってるんです。エチュードは練習してきています」

「待って。この曲を弾きたいという意思は大事だわ。ただ、そうね……あなたは不思議

なきっかけでヴァイオリンを手にしているのだったわね」

「……はい、たぶん」

「あなたが弾きたい曲を弾けるようになりたいと言うのなら、迷うことなどないのよ。

今、メンデルスゾーンを弾くためだけのテクニックを覚えて楽譜をなぞって、そのまま

弾くだけならね」

 月森の祖母は、あたたかみのある落ち着いた調子でゆっくりと話す。

「でも、あなたが求めているのは、そうではないわね」

「先生……」

「私にも心構えがいるのかしら。ふふっ、困ったわ。どうしましょう」

 困ったと言いながら、師は微笑んでいる。

「あの、本当にいいんです。すみません、私、先生についてしっかりヴァイオリン上達

するつもりなのに、わがままを言うつもりはなくって」

「わがままだなんて思ってないわ。いいのよ。香穂子さんは私が初めて個人でお引き受

けした生徒ですもの」

「え……?」

「例えば、普通、初心者からメンデルスゾーンの協奏曲に取り組むくらいの技量になる

までに、これくらいはさらうかしら」

 背後の書棚から先生がいくつもの教則本を引き出して、サイドテーブルに積んでいく。

 その山が片手で持てないほどけっこうな厚みになったところで止まると、香穂子は、

ほうっと息をついた。

「今のあなたくらいまでに、これくらいはこなしているはずだから、それをはぶくとし

て……」

 比較的薄い子どもや入門者用らしい楽譜を取りのぞくと、山は少し小さくなった。

「これを駆け足でこなしてでも積み重ねてから取り組むか。まずメンデルスゾーンのた

めだけに必要な演奏技術を手に入れて、望みの曲を弾けるようになるか。どうするべき

なのかしら。私が決めることではないと思うの。ヴァイオリンを弾くのは他の誰でもな

い香穂子さんですもの」

「一朝一夕で上手くなるわけないのはわかってるんです。メンコンだけ弾ければいいと

も思ってないので近道でなくていいです。学内コンクールの時は、曲を決めて、その曲

を弾くためだけの技術しか練習できなかったんです。今やっと基礎から習えるチャンス

を自分で無くしたくありません。お願いします。先生」

「わかったわ。じゃあ今日は練習してきた課題のエチュードを聞かせてちょうだい」

「はい、先生」

 香穂子はきっぱりと返事をして、愛するヴァイオリンを構えた。



 集中して見てもらった練習曲はすべて及第して、次の新しい曲に進むように指示をも

らう。香穂子は楽器を片付けながら、師に尋ねた。

「先生、今練習している教則本の次は、さっきそこに出していただいたものを順にやっ

ていくんですよね?」

「そうね。もちろんエチュードだけでなく並行して楽曲も取り組みましょう」

「あの、その教則本……今日お借りしていってもよろしいでしょうか?」

「もちろん構わないけれど……注文するなら使う順に取り寄せていけばいいのよ。これ

を全部一度に持って行くのは重いでしょう」

「いえ、重いのは平気です。すみません。もちろん注文する時は……そうさせていただ

くことになると思うんですが……」

「大丈夫なら遠慮せず持っていきなさい。返すのは、いつでも構わないわ」

 ふわりと微笑んだ月森の祖母の笑顔は、香穂子に勇気を与えてくれるのだった。





 遅れて始めたせいで足りないものを埋めるには倍以上の努力がいる。

 覚悟が出来れば、あとは飛び込むだけだった。

 学内コンクールの参加が決まった時と状況は似ているようで、確実に違うことがある。

 香穂子は自分から強く望んで、自分のヴァイオリンに足りないものを得ようとしてい

るのだ。

「朝、学校で弾くなら月森くんにメール……しておかなきゃ」

 一緒に登下校する時間を失いたくはないのだが、家で朝から練習できない以上、しか

たのないことだった。



「朝練をするなら俺も付き合うが……コンチェルトの練習もあるから」

 香穂子のメールに返信メールではなく直接電話をかけてきた月森の申し出は、とても

嬉しかったが、承諾するのにはためらいがあった。

「ありがとう。でもね、月森くんは自宅で練習できるのに、わざわざ練習室も取れない

時間に登校することないって。一緒に練習できる内容でもないしさ」

「いや……それは気にしなくていい」

「気にするよ。月森くん学内演奏会のソリストなんだからコンディションも整えなきゃ。

私、本当に楽しみにしてるんだよ」

「君の期待には答えたいし嬉しいが……」

「とにかく学内が終わるまで。ね? 帰りは今までみたいに時間合う時は一緒に帰れた

らなって思ってる」

「もちろん俺も、そうしたい」

「じゃあ、そういうことで! また学院でね」

「ああ、また」

 努めて明るく話して、負担に思われないようにしたつもりだが、月森がどう思ったか

はわからない。彼は自分と音楽に対してとても厳しかったが、その他の点では、どちら

かといえば不器用で、感情をあらわにしないだけで、やわらかい思いやりも優しさもあ

る人だと香穂子は感じていた。

 どれだけ練習しても、彼に近いところを目指すのには足りない気がする。

 月森のヴァイオリンは好きだが、そっくり同じ演奏をしたいわけではない。

 自分が思うままにヴァイオリンを奏でたいという衝動を満たすためにも、このかけ離

れた距離を少しでも縮めたいと思うのだ。





「また、いない……」

 香穂子を探していた報道部の天羽菜美は、廊下からのぞきこんだ放課後の教室に目当

てがいないのを確かめて肩をすくめた。

「ちょっとすごいんじゃないの。コンクールも終わったっていうのに今や普通科の日野

ちゃんが音楽科以上に練習の鬼!」

「おい、天羽、何やってんだよ。邪魔だから廊下をふさぐなって」

 背後の声に振り返ると、背の高い土浦が肩に大きなスポーツバッグをしょって立って

いた。

「おっと、土浦くん。ごめんごめん。今から部活?」

「ああ。なんだよ、日野と待ち合わせか?」

「同じ普通科コンクール出場組でも、土浦君は、そんなことないのにねえ」

「……何の話だよ」

「んー、ここのとこ、香穂が全然つかまらないの。朝も昼も放課後も。授業は普通に出

てるみたいだけど」

「なんで?」

「それをこっちが知りたいんだってば! ものすごい特訓してるみたいでさ」

「特訓ってヴァイオリンのか」

「そうだよ。もう必死な顔して……うかつに近づけない感じ」

「日野が? 月森じゃなくて?」

「月森くんがしかめっつらしてまじーめに練習してるのとは、また違うんだよ。なんだ

ろう……うーん、集中してるのは同じなんだろうけど……」

「ふーん。ま、何か演奏することがあって練習してるんだろ。じゃあな。ほら、どけよ」

「はいはい、いってらっしゃい。サッカー部も夏の大会目指して頑張りなね。そのうち

取材に行くよ」

「ほっとけ!」

 小走りにグラウンドへ出て行く土浦を見送りながら、天羽は少しの間、廊下に留まっ

て考えこんだあげく、練習棟へ向かった。

 受付の予約ボードを確かめると、香穂子の名前がある。

「ひとり……か。今日は学オケの練習、見に行かないのかな」

 天羽は小さくつぶやくと、香穂子が今使っている練習室の前まで来た。

 普通科にとって音楽科の領域である練習棟は少々敷居の高い場所だが、報道部の天羽

は躊躇しない。目的の部屋の前まで来て防音扉の小窓からそっと中をうかがう。

 香穂子は扉に背を向けて熱心に練習しているようだ。その音はかすかに聞こえる程度

で、実際にどんな音を出しているか、何の曲を弾いているのか天羽にはわからなかった

が、やはり気軽に声をかけられない雰囲気だ。

「練習棟で日野さん以外に普通科の制服を見るのは珍しいね。どうしたの? 天羽さん」

 すっかり練習室の中の気配を追うのに気を取られていた天羽は、ふいに背後から声を

かけられ驚いて振り向いた。

 天羽の後ろには品行方正模範優等生の音楽科の先輩が立っている。

「柚木先輩……いえ、あの……」

「日野さんに用事かな。……練習に相当熱が入ってるみたいだね」

「はい。でも急用というわけじゃないので失礼します。先輩も練習ですか?」

「そのつもりで来たのだけれど、日野さんがまだ練習中のようだから」

 おだやかに話す柚木に、なぜか天羽はぞくりとした。

 彼は、次にこの練習室を使うべく香穂子と入れ替わりに来たところなのだろう。タイ

ミングが悪かった。頭を下げてその場を離れようとする天羽に柚木が微笑みかける。

「そんなに慌てて行かなくても、僕が声をかけてみるから待ってみたらどうかな」

 そう言って柚木は、防音扉を形ばかりノックしてからそっと開けた。

「日野さん、入るよ」

 柚木の声が彼女に届く前に壁が隔てていた圧倒的なヴァイオリンの音が天羽の立つ廊

下まで一気に流れ響き渡った。

 それは信じられないような音量で、たじろぐほどだ。おまけに素人の天羽にもわかる

ほどとんでもない速さで細かい音を刻んでいる。香穂子が練習している曲は天羽に聞き

覚えのないものだったが、それ以前に彼女はこれまで、コンクールでも、その練習でも、

こんな音を出していはいなかった。

 ただ純粋に鳴り響く豊かなヴァイオリンの音色に飲み込まれるような錯覚があった。

 練習室の扉を開けられて邪魔をされたはずの練習は止まる気配がない。

 香穂子は扉を開けられたことに気付いていないのだ。

 振り向きもせず、一心にヴァイオリンを弾く姿からは鬼気迫ると言ってもいい激しさ

と、何者も邪魔できない集中力が感じられた。

 今、彼女の世界には自分とヴァイオリンしかない。

 それはたぶんほんの短い時間だったはずだが、ひどく凝縮され止まってしまったよう

に長く感じられた。

 廊下で音の洪水に身を浸していた天羽は、いきなりをそれを断ち切られて、はっと我

に返る。柚木が目の前で練習室に入ることなく防音扉を閉めたのだ。

「先輩……」

「せっかく密度の濃い練習をしている最中のようだし、声をかけるのは後にしたほうが

よさそうだ」

 柚木は特に感情を乗せるでもなく、さらりと天羽に言った。

「先輩はいいんですか? 日野さんの次にこの部屋を予約されていたんでしょう?」

「ここでなくても練習はできるし、熱心な後輩に譲るのも上級生の役目だよ」

「……さすがですね」

「それにしても日野さんのヴァイオリンには驚かされるな」

「音楽科の先輩が驚くくらい、すごいんですか?」

「今の音を聞いて、天羽さんは感じるものがなかったかな。日野さんのヴァイオリン、

ついこの前とは、まるで別人だ。学内コンクールの間も演奏がどんどん変わっていって

注目されていたけど……」

 柚木は扉の小窓から香穂子の後姿を見つめている。

「これはもう理屈では説明できないな」

 確かに柚木の言うとおり、天羽は何か言葉に出来ないものを感じて香穂子を追いかけ

ていたのだった。しかし彼女は今、他の何にも煩わされないところでヴァイオリンに向

き合っている。そこへ割って入る真似は誰にもできはしないのだ。

 そのまま練習室の前から離れた柚木とは別に、天羽はしばらく廊下から彼女を見守っ

ていたが、一向に途切れない練習に遂にはコンタクトをあきらめて、報道部の編集会議

に向かうべく練習棟を後にした。



 





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