憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


10





 金曜日、学内コンサートで演奏される協奏曲の合奏練習が始まった。

 香穂子は授業が終わるとホームルームが終わるやいなや講堂に急いだ。

 以前、オーケストラ部を見学した時は生徒達だけで練習していたので、本格的に指導

者がついてのオーケストラ合奏練習を見るのは初めてに近い。

 厚い防音扉をそっと押して一番後方の空いている客席に座った。

 舞台の上では弦のパートが聞き覚えのある曲を奏でていて、月森は指揮者と第一ヴァ

イオリンの側に立っていた。ソロを外してハーモニーを確認しているようで月森も楽器

を構えないまま、すぐ横にある譜面台の上の楽譜を目で追っているようだ。

 指揮者は音楽科の先生らしく、学内コンクールの審査と表彰の時に会っているのか、

香穂子にもうっすらと見覚えがあった。

「よく聞いて! ……トュッティ押さえて! もっと押さえて、常にソロを聞くっ! 

今頃さらってるヤツは帰れ! 馬鹿者が!!」

 指揮をしながら叫んでいる先生の声がマイクも通していないのに、オケの音に負けず

にホールに響く。ものすごい迫力だ。

「よし、じゃ1楽章を頭から合わせるぞ。月森!」

 呼ばれて月森は譜面台から目を離し、ヴァイオリンを構えて正面の指揮者を見る。

 指揮棒の動きにあわせて、オーケストラ全体が反応して呼吸を合わせる。

 あまりにも有名なメンコンの出だしに、香穂子は息を止めて集中した。

 切なく美しい月森の音色は、あのSホールで聞いたものと同じはずだ。

 しかし、音楽学校の生徒であっても、やはり練習半ばの学生オーケストラの演奏は、

どこかたどたどしく鑑賞するには物足りない。先週、演奏会で聞いた同じ曲なのに、

同じには聞こえないほど差があることが香穂子にもわかった。オーケストラの響きと

厚み、音色の質と精度がまったく違う。

「違う違う! 月森の第一主題を聞いてなかったのか! 同じメロディーをオケで繰り

返すんだからフレージングを合わせろ。歌って!」

 指揮の先生は、曲を止めずに大きな声で一緒に歌いながら熱心に指示を出す。

「タァタターラララァーララタリラリラー、タァリーラララララァー次っ! タァリー

ラララララァー重いっ! ひきずるな!」

 次第に整う響きに、それでもまだ月森は幾分きゅうくつそうだったが、丁寧にオーケ

ストラに合わせてヴァイオリンを歌わせているようだ。

 指揮の先生の注意を興味深く聞きながら、香穂子はひたすら月森を追っていた。




「……おっと、もう4時半か。じゃあ今日は、ここまでにしよう」

「ありがとうございましたっ」

「もっと、しっかりさらっとけよ! 次は2楽章を徹底的にやるからな」

「お疲れ様でしたーっ」

 起立して礼の後、学オケメンバーの生徒たちは、がたがたと楽器や譜面台、椅子を片

付けはじめ、月森はヴァイオリンを持ったまま、客席の最前列で指揮の先生とスコアを

見ながら、なにやら真剣に話をしている。

 香穂子は側に行っていいか迷い、結局、ステージ上の片付けを手伝いに前へ出ながら、

月森と先生のいる座席脇の通路をゆっくり歩いて通り抜けた。

「では、そこはもう少し押さえよう。カデンツの前は自由に……」

「いえ、自分がオケを聞いてバランスを壊さないように気をつけます。ただカデンツに

入ったら、好きに弾きますので」

「そうだな。うん、やはり本物を経験してくると違うだろう?」

「はい、大変、勉強になりました」

「プロの東都響にはかなわないが、学生オケだし、なるべくシンプルに素直に仕上げよ

うな。その分ソロは気を使わないで思うように弾いていいぞ。コンチェルトはソリスト

のものだ」

「ありがとうございます」


 香穂子はステージの譜面台を袖に運ぶ手伝いをしながら耳に入った会話から、月森に

は余裕がありそうだと感じた。

 むしろ課題があるのは学生オーケストラの方なのだろう。

 オーケストラの合奏練習は香穂子の知るヴァイオリン独奏曲の練習や、時々遊びでし

ている小編成のアンサンブル合奏の練習とは雰囲気が違う。主に指揮者の指導で作り上

げていく合奏までに個人は完璧にさらっておかないと話にならないようだ。

 数少ない比較対照である自分が参加した学内コンクールの時を思い出す。それから今

の日々の練習を。何かが決定的に足りない気がする。

「香穂子! 下校まで一緒に練習室を使わないか? 予約してある」

 先生と話が終わった月森がステージのすぐ下から譜面台をたたむ香穂子に声をかけた。

「嬉しいけど……でも、月森くんの邪魔にならない?」

「大丈夫だ。君に確認したいこともあるし気を使わなくていい」

「じゃあ、ここの片付けが終わったらお邪魔するよ」

「208号室だ。先に行っているから」

 月森は軽く左手を上げて合図すると、さっとヴァイオリンをケースにしまって講堂を

後にした。


「月森くん、かっこいー」

「声かけてた普通科、誰?」

「ほら、ヴァイオリン・ロマンスの……」

「あぁー、コンクールでうまいことやった子か」

 ひそひそと遠巻きに小声でかわされる会話は、もう慣れっこになりつつある噂話だ。

 別に普通科だからと言って香穂子が引け目を感じる必要はないのだろうが、コンクー

ルも終わった今、でしゃばりにならないように気をつけた方がいいのかなとも思う。

 実際には、周囲の噂なんて、どうでもいい。

 月森のことと、ヴァイオリンのことで、香穂子はいっぱいいっぱいだ。

 気を取り直し、顔見知りの音楽科の生徒と協力して片付けを最後まで手伝うと、足早

に練習室棟へ向かった。




 月森が予約している練習室へ行くと、彼はさっき合奏していたコンチェルトをひとり

で練習していた。

「月森くん、お疲れ様」

「ああ、来てくれてよかった。さっきの講堂での練習で、オーケストラとソロの音量の

バランスが気になったんだが、客席で、どう聞こえたか教えてくれないか?」

「え、でも私が聞いたのは練習の途中からだったし、音楽的に詳しいことって、よくわ

かってないから……」

「どんなことでも、君が感じた範囲でいい」

「えー……っと……よく鳴ってたと思うけど、ピアニシモとか抑え目のところは、まだ

オケが今いちそろってなくて音が大きいところもあったかな。月森くんも、慎重な感じ

だったし。特にソロが後から入ってくるところで、次、入るかな、大丈夫かなって様子

探ってからそーっと出てくるみたいな」

「ああ、そう……だろうな」

「さすがに、まだSホールの演奏と比べちゃいけないと思うし」

 香穂子がちょっとおどけて言うと月森も笑った。

「いや、ソリストは同じ俺だから」

「うん。でもオーケストラの上手い下手って私、生で聞いた経験があまりないから感じ

たことなかったけど、やっぱりプロの本番と練習中の学生じゃ全然違うね。同じ曲でも

音の粒とか響きの厚みとか流れとか……聞かせる音楽になってる作品と、まだ、ごちゃ

ごちゃで未完成なものの差なのかな。月森くん、今日は試運転みたいで少しきゅうくつ

そうだったもの。最初のところの歌い方とか、この前はただもう無心って感じで、音も、

こう、ばーんと胸に直接響いてきてたけど、今日は、まだそこまで入り込んでなくて、

オケはオケでソロとは別!って感じが強いから、やっぱり練習途中なんだなって。もち

ろん今はまだ、それで当然なんだと思うけど」

「いや、余計な先入観なしで客席で聞いた感じを教えてもらえて助かる。ありがとう」

「ううん。こっちこそ勉強になってるし」

 遠慮しあうこともないのに、音楽がからむと月森は常に相手がうろたえるほど真摯だ。

「ね、やっぱり学オケだと、この前と相当違う?」

「……そうだな。東都響と演奏した時は、俺の方が急ごしらえで精神的に準備不足でも

あったから、ずいぶんオーケストラに助けてもらっていたと思う。マエストロの指揮に

任せて自分の演奏に没頭しても、完成されたオケのハーモニーが自然に一緒に歌ってく

れていた……と言えばいいだろうか。学オケだと俺がどう弾けばオケとうまく合うか、

こちらからも積極的に歩み寄らないと完成に近づかない気がする」

「ふうん……ピアノの伴奏だけの時とは演奏者の数が違うから、息を合わせるのも大変

だろうなと思ったけど、難しそう」

「小編成でも大編成でもアンサンブルの基本は同じだ。指揮者の力量もあるが、合奏が

好きな君なら心配はいらないと思う。もちろんソリストとオケのパートでは違うけれど」

「まずは自分の腕を磨かなきゃだね。あー、私も上手くなりたい! いっぱい練習しな

くちゃ!」

 音楽を志すのに絶対的に足りないものを香穂子はひしひしと感じ取っていた。

 比べるのもおこがましいが、結局、月森の演奏は、この前Sホールの演奏会で聞いた

プロのヴァイオリニストとして立てるレベルにあり、香穂子の演奏は学生オーケストラ

のレベルにも達するかどうかというところなのだ。

 何かが香穂子の中でくすぶり続けていた。



 





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