憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 月森は、金曜日だけでなく翌週の水曜日まで学院を休んだ。

 彼と顔を合わさない週末から香穂子は、ほぼ一週間ひとりで自分の音楽と向き合う機

会が与えられたとも言える。


 月森とのメールでは伝えなかったが、香穂子はメンデルスゾーンを練習したくてたま

らなかったので、暇さえあれば図書室で借りた楽譜をひとりで懸命にさらっていた。

 思えばこんな大曲を練習したことがない。

 学内コンクールで弾いた曲は、みんなやさしめのアンコールピースで、メロディーの

はっきりした小品ばかりだ。有名な独奏曲のアレンジでも香穂子は自分で編曲したわけ

ではなく、ファータが与えてくれた楽譜をそのまま練習して弾いていた。

 香穂子はよく知らなかったが、星奏学院の学内コンクールが特別だったのだ。そもそ

も異なる楽器でテーマだけを与えて課題曲もなく小品ばかりを演奏して競うコンクール

など異端で、本格的なコンクールなら複数の課題曲から演奏曲を選び、何回かの予選を

勝ち抜いて、たどりついた決勝では協奏曲のソロを全楽章コンサート形式で演奏するの

が普通だ。

 自分が音楽の常識からはみ出していることは、よくわかっているつもりなのに、あら

ためて月森に並び立とうとすることの無謀さをかみしめる。

「これじゃピアノの伴奏と合わせられるのは、いつになるかなあ……」

 コンクールやコンサートで演奏するというあてもなく、ただ弾きたくて練習している

だけだが、自分のままならない演奏にため息がこぼれた。

 月に4回、水曜日の夕方に受けている月森の祖母のレッスンでも、この曲をみてもら

いたいと思っているが無茶だと止められたりしないだろうか。今週はレッスンがないの

で相談するのはまだ先になるが不安はつのる。

 弾きたい曲を弾けるようになるための練習。

 それはきっと音楽科の生徒たちの練習とは違う、趣味の世界だ。

 少なくとも月森の立場とは遠く隔たっているはず。

 それでも、この曲を弾きたいと練習するのをやめられない。

 香穂子の中に確かな衝動があって、今は他のことを考えられないくらいだ。



「おー、日野、ここにいたか」

 放課後に森の広場の木陰で、ひとり懸命にメンデルスゾーンと格闘していた香穂子に

声をかけてきたのは金澤だった。

「先生……何かご用ですか?」

「いや、急ぎの用ってわけじゃないんだが……お前さんもメンコンさらってるんだな」

「あ、はい。弾いてみたくて……ヘタなんですけど」

「だから練習してるんだろ。演奏したい曲があるってのはいいこった。押し付けられて

イヤイヤ練習したって上達しないさ」

 金澤の言葉は香穂子の気分を少し軽くしてくれる。

「あの、もしかして転科のこと……ですか?」

「そういうわけじゃないんだが……あー、でも、それもあったな」

「はい?」

「転科の件は、まあおいといて、だ。来月の学内演奏会、本番だけじゃなくて練習から

見学希望するなら合奏指導教諭の了解はとれているから遠慮なく来ていいぞ」

「いいんですか?」

「ああ。ただ普通科の授業と重なってる時はダメだ。練習は金曜午後の5・6時間目の

合奏授業のコマで講堂でやるからな。で、合奏となると通常の6限より長く時間取って

5時近くまで伸びるから、学オケと関係のない生徒でも放課後なら講堂に入って見学は

自由、普通科でもコンクール関係者は了承する……と、こういうわけだ」

「ありがとうございます!」

「普通なら、とっとと帰りたいところだろうに、お前さんも真面目だねぇ」

「オーケストラ授業の練習、興味あります。オケ部も見学したことありますし」

「それなら面白いかもしれないな。転科を考える材料にするのもいいだろ。本番近くに

は金曜の授業以外に放課後の特別練習もするだろうから、そっちも見学できるぞ」

「月森くん、オケと合わせるんですよね」

「ああ、ここまで学オケもソロ無しで練習してたから、今度の合奏からな。最後の数回

で仕上げってこった。月森もプロと演奏して最高のデビューの後に、うちの学生オケと

じゃギャップがあってつらいかもしれんが……ま、これも勉強だ。そういえばお前さん、

先週の月森のメンコン聞いてきたんだろ?」

「先生、どうして知ってるんですか?」

「そりゃ、当然の予想範囲内だな。ガンバレよ若人」

 金澤はそう言ってニヤリと笑ってから足もとにじゃれついていた森に居ついている猫

を抱きあげ、ゆっくりと池のベンチの方へ去っていった。





 木曜日の朝、月森は、ほぼ一週間ぶりの登校で香穂子の家に迎えにきた。

 慣れた通学路を肩を並べて歩くのにも、どことなく付き合い始めのぎこちなさが蘇る

気がする。

「久しぶりだね、月森くん。……その……元気だった? ……ってゴメン! 元気とか

聞くのもヘンだよね。なんて言っていったらいいかな、その……」

「いや、こうしてまた君を迎えに来られて嬉しい。……正直、少し緊張した」

「月森くんが?」

「君は俺を何だと思ってるんだ」

 不本意そうな月森に、香穂子はかえってほっとした。

「ご、ごめんね。うん、私もちょっとドキドキしてるよ」

「そうか。似たような感じだな」

 微笑む月森の表情に、つられるように香穂子も笑った。

「ずっとオケの見学だったの?」

「共演したオーケストラが主だったが、マエストロが誘ってくださったおかげで演奏会

のゲネプロだけじゃなくて、レコーディングやテレビ収録や公開レッスンまで、色々と

見ることができたんだ。レッスンでコンチェルトをまた演奏させてもらう機会もあった」

「わぁ、すごい」

「とても勉強になった。一流の音楽家で……パワフルだ。俺なんて赤ん坊扱いだ」

「えーっ、月森くんを赤ちゃん扱い? なんだか想像できない」

「必死だったから、あっという間だったが……ろくに連絡できなくてすまなかった」

「そんなの当然だよ。めったにない機会だったんだもの」

「ああ……いや、違うんだ。俺の気持ちの問題だ」

「月森くん?」

「学オケとの練習もあるし、切り換えないといけないな」

 自分自身に言い聞かせるように月森は小さくつぶやいた。

「あ、私も見学に行くね。金澤先生が放課後ならいいって事前に許可くれてるんだ」

「君が見に来てくれるなら俺も嬉しい」

「ありがと。でも嬉しいのは私の方。コンチェルトってステキだね。私もね、身の程知

らずだけど、いつかメンコン弾いてみたいなーって思って練習したりね」

「そうか……」

「あ、もちろん、まだまだだけどねっ!」

「君の持ち味にも合う曲だから練習するといい。ヴァイオリンを弾く者で、メンコンを

一度もさらわないということはないから」

「うん。頑張ってみる」

 月森と一緒に話しながらだと目的地まで、あっという間だ。今朝も気がつけば正門前

に到着していた。

「……もう着いたのか。音楽科と普通科の校舎が違うのは不便だな」

「うん……じゃあ、またね」

「ああ。できたら、その……」

「お昼、一緒に食べられる?」

「俺も誘おうと思っていた」

「良かった! なら昼休みにね」

 うなずく月森に大きく手を振って、香穂子は普通科の自分の教室へ急いだ。



 初夏の屋上は日陰を確保するのが難しいので、香穂子と月森は森の広場で昼食の弁当

を広げた。

 香穂子は家から持参した母親の作ってくれたおにぎりとおかずを組み合わせた弁当で、

月森は購買のサンドイッチと野菜ジュースだった。

「そういえば、前にここでお昼を一緒してた時に、月森くんの呼び出し放送があったん

だよね。ついこの前のことなのに、すごく昔のことみたいな気がしちゃう」

「そうだな。あの時、約束していたのに放課後の練習ができなくて……」

「もう気にしなくていいってば。特別な緊急事態だったし、何度もあやまってくれたじゃ

ない」

「いや、君との約束も練習も、俺にとって特別で大事なことだ。疎かにはできない」

 真剣に言う月森に、香穂子は思わずうろたえる。

 彼の気持ちは嬉しいし、本気でそう言ってくれているのはわかる。

 だが、どう考えても月森は香穂子をあらゆる面で実際よりもずっと美化して底上げし

てくれている気がしてならない。

「食べ終わったら少し練習するか」

「うん。一緒に練習も久しぶりだね」

 嬉しくて思わず頬がゆるむ。月森もなんとなく嬉しそうに見えた。

 また二人の日常が戻ってきたと、この時は思えたのだ。

 それも月森が演奏を始めるまでだった。



「月森くん、練習?」

「良かったら聞かせてくれない? メンコンやるんでしょ?」

「この前ベッケンバウアーとやったんだろ? すげぇなぁ」

「学内も楽しみにしてるぜ!」

 月森がヴァイオリンを奏で始めると、たとえ練習でも人が集まってしまうのだ。

 これまでも、その傾向がなかったとは言わないが、これほどではなかった。

 こちらに聞かせる意図がなければ遠巻きに放っておいてくれた生徒達が、それですま

せてはくれなくなってしまったのだ。ほんの数分で音を聞きつけて自然と集まってきた

人の輪に囲まれて、もはや二人きりの練習どころではない。

「悪いが俺たちは……」

 彼らの困惑をものともせずに声をかけてくる生徒たちをきっぱりと突き放そうとする

月森を、香穂子はあわてて止めた。

「月森くん、私も聞きたいな」

「香穂子……」

「ちょっとだけでもいいから……迷惑じゃなければだけど」

「迷惑ではないが、君と練習をするはずだったろう」

「でも、こんなに月森くんの演奏を聞きたい人がいるんだしさ」

 香穂子が笑顔をで取りなすと月森もためらい気味にではあるが了承し、そのままヴァ

イオリンを構えてソロを演奏し始める。そして最初の一音、出だしのワンフレーズから

聞く者の心をわしづかみにしてしまうのだ。



 結局、昼休みのひとときは、否応なしに月森の小さな独奏会になって終わる。

 森の木陰で集まってきた聴衆の賞賛の拍手を受ける月森の傍らで香穂子も拍手をしな

がら、自分が彼のように自由に思い通りにメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききる

イメージを持つことができなかった。



 





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