憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 朝から思う存分、音を出して練習したければ、学院に行くに限る。

 香穂子は一人でヴァイオリンを抱えて、朝の6時に家を出た。

 早朝練習している部活動もあるから、学内には入れる。練習室は8時にならなければ

使えないが天気もいいし、まだ涼しい朝方なら森の広場で構わない。

 できることなら練習に入る前に図書室でメンコンの楽譜を借りたかったが、貸出カウ

ンターは昼休みまで開かないのであきらめる。

 朝の風が心地よい。学院までの道を小走りに駆け続け、正門からまっすぐ森の広場へ

向かうと、上がる息を抑えつつ練習にいい木陰のベンチを確保した。

 頭の中は、昨夜の月森の演奏で、すでに破裂しそうになっている。

 早く、早く、この音を出さないと!

 目覚めたてのもどかしい手つきで調弦をし、ざっと必要最小限にスケールをさらって

から、耳で覚えたメロディーを奏でてみた。

 そのやり方はコンクール参加のために曲を練習していた頃の方法とあまり変わらない。

 香穂子は、まだ慣れない楽譜を見てさらうより、耳で聞いた音を再現する方がずっと

早い。それは魔法に頼らなくなってからも同じだった。

 昨夜、体に刻み込まれた月森のソロを覚えている限り弾いてみた──弾こうとしてみ

た。出だしのメロディーは歌えるから、探りながらでも弾けると思ったのだが。



「……違う……こんなんじゃなくて……」

 ずっと夜通しなぞっていたメンデルスゾーンは、まったく思うように演奏することが

できなかった。

 魔法のヴァイオリンから普通のヴァイオリンに変わった時でも、これほど違和感を感

じた覚えがない。あの時は、ただ弾けるだけで嬉しかった。自分が出したい音が出ない

ことに苛立ちを感じたこともなかった。

「全然ダメ……私じゃ弾けないんだ……」

 香穂子は、自分の苛立ちを意識した途端、ほとんど絶望的な気分にとらわれた。

 練習方法が大して変わらないのに、あの魔法のヴァイオリンでコンクールに参加して

いた時とは違う。

 魔法の手助けがあった頃は、香穂子は何ひとつ迷うことなく自分が歌いたいと思い描

くイメージ通りにヴァイオリンを演奏することができた。美しい曲を聴いて、こんな風

に弾きたいと思うだけでよかった。

 それが異常な状態であったことは、もちろん重々わかっている。コンクールの途中で

魔法のヴァイオリンが、その寿命を終えた時に思い知ったはずだった。

 その時から今の楽器を自力で鳴らす練習を香穂子なりに重ねてきたつもりだった。

 しかし、昨夜の月森のコンチェルトを聴いて、自分の演奏とは次元の違う本物を目の

前につきつけられたのだ。

 月森の実力を見誤っていたとは思わない。昨日までの香穂子に、それを聞いて理解す

るだけのものが、つちかわれていなかったということなのだ。

 それはおそらく、帰りの車の中で柚木が話していたことと、つながっているのだろう。


 香穂子は肩を落としたまま、ベンチに腰を下ろし、ひざの上においたヴァイオリンを

そっとなでた。

「弾けないのは私がヘタっぴだからだよね。ごめんね……全然わかってなかったね」

 それでも弾きたいと思うのは、なぜなんだろう。

 泣くほどつらいなら、やめてしまってもいいのに、弾かずにはいられないのが不思議

だった。弾けない自分が情けなく悲しいのに、やめたいとか、あきらめるという選択肢

はあり得ないのだ。


 もう一度、と弓を取り立ち上がると、かばんの中で携帯電話のアラームが鳴った。

 予鈴まであと15分の合図だ。

 香穂子は手早く楽器を片付け、普通科の自分の教室へ向かった。




 急ぎ足の途中で、登校してくる生徒たちとは別方向の、グラウンド側からやってくる

土浦梁太郎と出くわした。

「よう。おはようさん」

「おはよう。土浦くんはサッカー部の朝練?」

「ああ。お前は……ヴァイオリンか。月森と一緒じゃないのか。めずらしいな」

 同じ普通科の土浦だから、そのまましゃべりながら普通科棟の教室へ向かう。

「月森くん、今日お休みなの」

「へえ。あいつ風邪でもひいたか」

「そうじゃないんだけど……音楽関係でね」

「ふーん」

「……ねえ、土浦くんは、今は家でピアノ弾いてるの?」

「まあな。コンクールも終わったし、音楽科じゃなくて普通科の生徒なんだから、学院

で練習しなきゃならない理由もないだろ」

「じゃあ、先生についてレッスンとかはしてる?」

「……まぁ俺ンちは一応おふくろがピアノ教室やってるし」

「あ、そっか……そうだよね……」

「お前はヴァイオリン、続けるんだろ? 今だって、しょっちゅう音楽科のやつと弾い

てるじゃないか」

「う……ん」

「ああ、もしかしてお前も言われたか? 転科の話」

「土浦くんも?」

 そう、よく考えてみれば、土浦の実力からして、香穂子以上に音楽科への転科を薦め

られないはずがないのだ。

 土浦は大きな手でおもむろに頭をかいてから、いつになく神妙な口調で話を続けた。

「転科に意味があるかってところが微妙だよな。ピアノ弾くだけなら高校の半分過ぎて、

わざわざ音楽科に入り直すなんて……。音楽漬になるには、いいんだろうけどさ」

「そう……なのかな」

「付属とかで音高たたき上げってのは、途中でたるんじまうことも案外多いって聞くぜ。

大学部に進学する前にやめちまったりさ。星奏は、わりと厳しい方らしいけど。あとは

個人レッスンの主科の教師が誰かにもよるな。あ、でも弦楽器でオケとかアンサンブル

やりたいなら音楽科入った方がいいだろうけどな」

「どうして?」

「そりゃ、音楽学校なら、そこそこ演奏できるマジなメンツが、いつでも身近で揃うだ

ろ。まして授業だったら、地味なパートの楽器がいなくて困ることもないし、アマチュ

アが自己流で合奏するのと違って教師もついてるじゃないか。練習だって恵まれた環境

でできる」

「……なるほど……」

「お前、もしかして副科ピアノやソルフェージュの試験準備で困ってるなら、うちのお

袋でよけりゃ教えられるぜ……っと、あー、月森関係でいくらでも習えるか」

「あ……ううん、えっと、まだ転科するって決めてなくて、だから準備も何もしてない

んだ」

「悪い。おせっかいだったな」

「そんなことないよ。ありがとう」

 香穂子は首を振って、礼を言う。

「土浦くんは、どうするか、もう決めたの?」

「いや……まだ。単純に好き嫌いで決めることでもないしな」

「うん」

「金やんも、よく考えろって言ってたぜ。うちの親は、どうせ音楽続けるならいつでも

転科すればいいって思ってるらしい」

「そうなんだ……」

「でも、決めるのは自分だろ。将来の自分の進路だぜ」

「だよね……。土浦くんはサッカー部もレギュラーだし、今から音楽一筋って決めなく

ても、いろんな可能性があるね」

「いやぁ、サッカーは、それこそ普通校の部活レギュラーくらいで、どうこうできるわ

けじゃ──」

 急に言いよどんだ土浦は、彼にしてはめずらしく戸惑っているような表情を見せた。

「土浦くん?」

「いや、なんでもない。とにかく、ただのんきに好きなことだけしてられる夏休みって

わけにはいかないよな。お互いに」

「そうだね……ねぇ、土浦くんは、今、ピアノって毎日どのくらい弾いてる?」

「どのくらいって……時間にしてか? 何でそんなこときくんだよ」

「ちょっと好奇心で」

「日によるけどな」

「よるけど? 例えば、普通に学校のある平日だったら、どれくらい?」

「うーん、少なくても一、二時間は弾くか。部屋にピアノあるし。あんま時間を気にし

たことないぜ」

「そう……ありがと」

「おっと予鈴だ! 遅刻くらっちまう。急ごうぜ」



 走る一歩手前の早足で廊下と階段を猛進し、それぞれの教室へ分かれた後、香穂子は

授業の間、ずっとヴァイオリンと音楽のことを考えていた。



 同じ普通科でも、子供の頃からピアノを弾いてきた土浦と香穂子では、まるで立場が

違う。

 まして音楽科でヴァイオリニストへの道まっしぐらの月森となど、比較にもならない。

 今なら、コンクールの初めの頃、月森が素人の香穂子の参加をよく思わなかったこと

が、理解できる。

 いくら型破りの学内コンクールであっても、同列に評価されるなど、冗談じゃないと

感じて当たり前だ。

 なのに、月森は、コンクール終盤では香穂子の演奏を認めてくれたのだ。

 同じヴァイオリンという楽器と音楽が二人を結びつけた。



 音楽の妖精ファータがきっかけをくれた香穂子のヴァイオリン。

 彼らはいつでも「音楽は好きか?」と問いかけてくる。

 そのたびに香穂子はヴァイオリンを弾く。

 うまく演奏できると、ファータたちはキラキラと嬉しそうで、香穂子も嬉しくなる。

 コンクールが終わり、今は、もう妖精は見えない。

 彼らが残してくれた楽器を前に香穂子は自問するしかない。


 自分はどれくらいヴァイオリンが好きなのだろうか──と。



 





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