憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 やむことのない拍手に、マエストロと若きヴァイオリニストは何度も舞台袖とステー

ジ上を行き来した。コンサートの途中なのに、アンコールを要求するかのような拍手は、

まるでおさまる気配がない。

 出たり入ったりを両手で数え切れなくなる前に、月森ひとりが深々とお辞儀をしたと

ころで、マエストロがオーケストラに合図をし、演奏者達も席を立った。客席が明るく

なり、アンコールがないことと一部終了の休憩時間を告げるアナウンスが入ると、よう

やく客席の拍手は名残惜しそうに鳴りやんだ。

 身を乗り出して手のひらが真っ赤になるほど拍手を続けていた香穂子は、拍手を終え

た後は座りこんで放心し、立ち上がることができなかった。一声かけて通路際の席の香

穂子の膝頭をかすめるようにして何人かが通り抜けた時も、無意識に身をよじりつつ、

ただぼんやりと誰もいなくなったステージを見ていた。



「月森は何度もカーテンコールで出たり引っ込んだりしてたんだから、舞台に駆け寄っ

て渡せばよかったじゃないか。せっかく用意した花束の役目をまっとうさせろよ。こん

なに前の通路際に座ってたくせに馬鹿だな、お前は」

 いつの間にか、通路のすぐ横まで来て立っていた柚木は、香穂子が気付かずに落とし

ていた白百合の花束を足元から拾い上げ、香穂子の膝にのせた。

「楽屋に行かないのか?」

「え? だって……楽屋なんて勝手に入れないんじゃないですか?」

「それなりにめかしこんでるし、その格好なら平気だろう。とがめられたら関係者だっ

て言えばいい。実際そうなんだし。休憩は、あと15分ってところか。……来いよ」

 少々強引に柚木に片腕を引き上げられると、あれほど力の入らなかった体なのに、な

ぜか花束を抱えてしっかりと立ち上がることができた。柚木はフンと小さく笑って香穂

子の腕を離すと、足早に歩き始めた。

 終わったばかりのコンチェルトに興奮さめやらぬ観客をかき分けるようにして進み、

ホールをとりまくスペースの奥にあった、明らかに「関係者以外立入禁止」の扉を柚木

は躊躇なく押し開け、先を急ぐ。

「柚木先輩……いいんですか? あの……」

「堂々と顔上げて歩けよ。楽屋口で出待ちしてる追っかけじゃないんだから。……ソリ

ストの楽屋は指揮者と並んでステージ脇か。いい身分だな」

 ほとんど小走りに近い早足でついていく香穂子が、不安になって尋ねても、柚木は平

然としたものだ。

 バックステージの廊下は、さっきまで舞台にいた演奏者が何人も行き来していて、誰

かが楽屋を出入りするたびにかすかに漏れる様々な楽器の音が、香穂子を少しだけ安心

させてくれた。学院の講堂や練習室棟に雰囲気が似ているのだ。

 先を歩いていた柚木は『TSUKIMORI Len』の札がかかった楽屋の扉を探し当て、軽く

ノックをしてから自分は一歩下がって、香穂子を扉の前に押し出した。突然のことにバ

ランスを崩した香穂子が扉に手をつこうとしたところで目の前のドアが開き、今しがた

ステージで見た盛装の上着だけを脱いだ月森が顔を出した。

「香穂子」

「……月森くん……」

「デビューおめでとう月森くん。見事な演奏だったよ」

「……ありがとうございます」

 声をかけられて初めて香穂子の後ろにいた柚木に気がついたらしい月森は、一瞬かす

かに驚きの表情を見せた後、折り目正しく礼を言い、訪問者の二人を楽屋の中へ入れた。


 ソファにテーブル、ピアノまで用意された、広いホテルのような部屋に戸惑う前に、

まず香穂子は持ってきた花束を差し出した。

「月森くん、あの……何て言ったらいいか……上手く言葉にならないんだけど、コンク

ールの時もすごいなって思ってたけど、今日はそれ以上に、すごかった。音があんまり

綺麗で……泣いちゃった。素敵だった。すごく。招待してくれて……演奏を聴かせてく

れて本当にありがとう」

 花束と共に、たどたどしい香穂子の賛辞を受けた月森は心から嬉しそうで、とびきり

優しげな笑顔になった。

「ありがとう。君に聴いてもらえたことが一番、嬉しい」

 何かをひとつ成し遂げた者の輝かしい表情に、香穂子は思わず見とれてしまう。

 見つめ合う月森と香穂子に躊躇せず、柚木が口をはさんだ。

「東都の定演は時折来ているのだけど、ソリストが月森くんになったのを会場に来てか

ら知って驚いたよ。開演前にたまたま、日野さんとも会えたしね。それでこうして彼女

と一緒に楽屋まで押しかけて来てしまったけれど迷惑じゃなかったかな」

「いえ、そんなことはありません。一昨日、急に決まったもので……お騒がせしました」

 ふと我に返ったように月森は柚木に答えた。

「突然の代演とは思えない堂々とした演奏だったよ。学内演奏会で同じメンデルスゾー

ンをさらっていた幸運も、君の普段からの努力と実力が呼び寄せたんじゃないかな」

「ありがとうございます」

「ベッケンバウアーの指揮でコンチェルトなんて、ソリストの夢だ。この成功は誇って

いいと思うよ」

「いえ、今回のステージは本当に偶然のめぐり合わせで、俺が音楽家としてまだ未熟な

のは変わりませんから」

「相変わらず謙虚だね。……月森くんがそう言うなら、これも星奏のコンクールの御利

益かもしれない。こうしてジンクスが真実になっていくのは興味深いね」

 花束を抱えて柚木の賛辞を受ける月森は、香穂子の目にも少々居心地が悪そうに見え

た。何とかフォローをしたいと思っても、気の利いた言葉が出てこない。今の香穂子に

は月森の演奏に感動したという事実以外、何もなかった。

「月森くん、あの……」

 それでも声をかけようとした時、後半の開演が近づく知らせの1ベルが鳴った。

「ああ、もう休憩も終わりか。ベッケンバウアーの『宗教改革』は聴き逃せないね。

日野さんは、どうするの?」

 唐突に柚木に尋ねられて、香穂子はうろたえる。

「え? えぇっと……」

「俺も袖から聴くつもりだから、君は是非、客席でじっくり聴くといい」

 月森に、やんわりと提案されて、香穂子はすぐさま、うなずいた。

「あ、うん、そうするね。ありがとう月森くん」

「お礼を言うのは俺の方だ。来てくれてありがとう。この花も……嬉しかった」

「あと5分しかないから少し急がないと。それじゃ、月森くん、僕たちはこれで失礼す

るね」

 柚木がそう言って楽屋から出ようとした時、柚木と香穂子と入れ替わるようにして、

ダークスーツ姿の初老の男性が入ってきた。

「蓮くん、よくやった! これで月森にも美沙さんにも胸はって返せるよ。俺が言った

とおりだってね。だーから早くデビューさせちまえって言ったんだ」

 成功を祝う関係者らしい人の邪魔をしないように、二人はそっと月森蓮の楽屋から離

れた。




 慌ただしく早足で客席に戻る間、柚木はずっと無言で香穂子の前を歩いた。どうにか

本鈴の前に客席に通じる扉まで来て、それぞれの席へ分かれるところで、おもむろに

「じゃあな。最後まで、しっかり聴いておけよ」と小声でつぶやかれ、はっとした香穂

子が返事をする前に、柚木はさっさと自席へ向かっていた。舞台の上では、すでにオー

ケストラの面々が着席していて、香穂子も急いで席についた。



 演奏会の最後のプログラムはメインの交響曲で、やはりメンデルスゾーン作曲の交響

曲2番『宗教改革』という曲だった。これもまた当然ながら香穂子が初めて聞く曲だ。

 香穂子にとってのメイン・プログラムは月森のヴァイオリン協奏曲であり、率直に言

えば、こちらの交響曲の方が、おまけのようなものだった。

 もちろん初めて聞く音楽でも、巨匠が指揮する交響曲は極めて美しく、耳に快く響い

ていたが、香穂子の心を否応なくゆさぶり支配しているのは月森のコンチェルトで、別

の曲を聞いても、その衝撃から逃れることはできなかった。


 どうしようもなくヴァイオリンが弾きたいと思う。


 今、ここには楽器もなければ、自分が音を出す場所でもない。

 なのに、その衝動は強くなる一方だった。なぜ自分が客席に大人しく座って拍手して

いるのか、わからなくなりそうで、香穂子は混乱した。

 今、一番したいことは、音楽を聞くことではなく、自分が演奏することだ。

 心と身体がバラバラになりそうな恐怖に、香穂子は両肘を自分の手で押さえ、震えを

止めるようにして交響曲を聞いた。

 自分の内側からヴァイオリンを弾きたいという気持ちがわき上がってくるのは、コン

クールに参加していた間の高揚した気分に似ていた。



 最後の曲が終わり、アンコールを求める割れんばかりの拍手の途中で、おそらく帰り

を急ぐのだろう、何人かの客が席を立つのを目にして、香穂子も耐えきれずに席を立ち、

まだ拍手を続ける観客の邪魔にならないようにそっと腰をかがめて出口へ向かった。客

席の扉を越えると、脇目もふらずホワイエを突っ切り、ホールの外へ出る寸前に、背後

から肩をつかまれた。

「帰るなら送ってやるぜ」

「柚木……先輩」

「まだ通勤客も多い電車よりいいと思うけど? 遠慮なんて意味のないことするなよ。

お前を乗せても、乗せなくても、それで高速料金が変わるわけじゃないんだから」

「こんな都心まで……車で来てるんですか」

「都心だから、さ。何のための車だよ。そこのホテルの駐車場に止めてある。それとも

食事でもするか?」

「いいえ、帰りますっ!」

「なら、来いよ」

 勢いよく首を振る香穂子に、柚木は平然と命じた。


 Sホールの隣に建つホテルのロビーに立ち寄り、柚木が携帯電話をかけてから5分ほ

どしてホテル正面に、登下校で見かける黒いリムジンが来た。柚木は、もう一切香穂子

に有無を言わせず、車の後部座席の彼の隣に香穂子を座らせた。

 滑るように走り出した車の中で、香穂子は窓の外をながめながら、そっとため息をつ

いた。夜の明かりが飛ぶように流れていく。

「センセーショナルなデビュー……ということになるんだろうな。明日からが思いやら

れる」

 少しうんざりしたような柚木の声に、香穂子は窓から彼に向き直った。

「柚木先輩は……今日の月森くんの演奏を、どう思ったんですか?」

「大したものだと思ったけれど。楽屋で彼に言った通りだよ」

「……そうですか」

「やけに神妙な顔してるじゃないか。奴の成功が面白くないとか」

「嬉しいに決まってるじゃないですか! すっごく感動したのに!」

「大声を出すな。みっともない」

「…………すいません」

「そこで、すぐに謝るのがお前の妙なところだよな」

 柚木は小さく笑ってから、ふっと真面目な顔になる。

「しかし、月森のおかげで、これから学院の音楽科が騒々しくなると思うと鬱陶しいな」

「なぜですか? 今日、成功したのに?」

「成功したからさ」

 柚木は、もううんざりだとでも言いたそうな面持ちで、腕を組みなおした。

「お前は今日の定演が、どんなに異常な状態だったか、わかってないだろう。プロオケ

の毎月の定期演奏会はソリストのリサイタルじゃない。指揮がベッケンバウアーだった

ことを差し引いても、日本の国内オケの定期プログラムの一曲でしかない代演の協奏曲

に、聴衆がアンコールを要求し続けるほど拍手するなんてないんだよ。俺だって、こん

なのは初めてだ」

「え……?」

「しかも曲目はメンコンだぞ。もっと超絶技巧でラストが盛り上がる曲だとか、テレビ

か何かで取り上げられた、有名なコンクールで優勝した演奏者の凱旋公演だったとでも

いうならともかく、メンコンなんてジュニア・コンクールの課題曲になるくらいポピュ

ラーな名曲だ。ヴァイオリニストで、これを弾いたことのない者はいないし、オケを聞

きに来る客で、この曲を全く知らない者もいない。極端な話、古今東西の名手の手垢に

まみれた聞き飽きた曲さ。そんな名曲で定演の常連客を熱狂させるなんて普通じゃあり

得ないんだよ。これはベッケンバウアーの力と言うより、月森蓮の演奏によるところが

大きい……それがやっかいなんだ」

「月森くんが素晴らしい演奏をしたのが問題なんですか?」

「月森個人が悪いわけじゃないさ。でも今日、あいつはプロとしてデビューしてしまっ

たからな。現実的にはメンコン一曲で、すぐにどうこうってことはないだろうが、元々、

月森は音楽一家の一人息子で、鳴り物入りで星奏に入学したんだ。うちの弦楽は昔から

有名で何人もソリストを育ててる高等部大学部通しての教授もいるから。……けど、こ

うなると学内演奏会のメンコンなんて、先生方もやりにくくて仕方ないだろうな。巨匠

ベッケンバウアーと比べられたら、かなわない。本当に面倒で、うざったいこと、この

上ないね」

「音楽科で……今まで以上に月森くんが浮いちゃうってことですか? ヴァイオリニス

トとしてデビューしたから」

「お前は知らないだろうけど、日本の音楽学校を卒業したからって、全員が全員、一生

音楽で食っていけるわけじゃない。演奏家になれる奴はもっと少ない。本物のソリスト

なんて、それこそ稀だ。留学しようが一度や二度コンクールで入賞しようが、その程度

のやつなら世界にごまんといる。毎年毎年あちこちのコンクールで天才音楽家が、ほい

ほい生まれるわけないだろ。苦労して名のある国際コンクールで入賞したところで、せ

いぜいどこかのオケの団員になるとか、学校の教員もやって弟子も取ったりして、それ

でなんとか食べていけるかどうか。楽器によっては、その程度じゃ大赤字だな。純粋な

演奏活動で音楽家として生きていけるやつなんて、何年何十年にひとりとか、ほんのわ

ずかだ。それでもソリストを目指すなら、今日の月森みたいに名のあるプロオケの定演

にお呼びがかかるとか、個人のリサイタルを開いて、それなりのレーベルからCDが出

るくらい認められれば一人前か……。それでもクラシックは爆発的に売れることのない

ジャンルだから、決してもうからない」

 香穂子は、ただ呆然と柚木の話を聞いていた。

「わからないか? そんなめったになれない演奏家を夢見て目指す者が目標にしている

ステージに、月森は今の段階で上がって、しかも成功させたんだ。世界的な指揮者と一

緒に! あいつは学生だけど、今日プロになったんだよ。今まで以上にマスコミに騒が

れる可能性もある」

 柚木は、まるで怒っているような口調になっていた。高速を走る車の窓に映る流れて

いく外灯の照り返しが柚木の横顔をちらちらと照らしている。香穂子が圧倒されて何も

言えずにいるのに気付いた彼は、静かに息を吐くと座席に深く座り直して背を預け緊張

を解いた。

「どんな分野でも、本物になるのは、それがなければ、まともに生きていくことができ

ない奴だ。そういう奴が外から見たら異常なくらい厳しい訓練を通過して……そこを乗

り越えて選ばれた者だけが、ある水準の上に抜きん出ることができる」

「先輩……」

 柚木は、きっぱりと断言した。

「前にも言っただろ。池に棲む魚さ。……本当に、もう音楽の道しかないような人間、

音楽がなかったら生きていけないんじゃないかって奴は確かにいて、あの星奏学院コン

クールの参加者の中で、その筆頭が月森だった。月森と……それから……チェロの志水

かな。他の連中は、実際、どんなに音楽が好きだと言っても、音楽以外で生きられない

ってほどじゃない」

 それは、自身が音楽は高校までと割り切っている柚木だからこそ見えている現実なの

かもしれなかった。コンクールに巻き込まれるまで、香穂子が想像もしなかった世界に、

月森たちは住んでいる。


 香穂子は身をすくませて、うす暗がりの中の白い柚木の横顔から、車の外へ視線を移

した。

 湾岸道路を走る車は、ほどなく香穂子たちが暮らす町へ着くだろう。

 香穂子の耳の奥、身体の内側の、どこか深いところで、ずっとヴァイオリンが鳴って

いる気がした。

 月森の演奏が、まだ響き続けている。実際に今、耳で聞いているわけでなく、残響の

ようなものなのに、香穂子にとっては、今、乗っている車の走る振動音よりも確かな響

きだった。

 黙ったままの香穂子に、柚木もそれ以上、特に何かを語ることはなかった。



 柚木の厚意で自宅の前まで送ってもらった香穂子は、車から降りて深々と頭を下げた。

「先輩、ありがとうございました。本当に助かりました」

「どういたしまして。帰宅のついでだ。女生徒の後輩を放って先に帰るんじゃ寝覚めが

悪いからな」

「すみません」

「気にするなと言っただろ。……じゃあな」

 静かに走り出す柚木のリムジンを見送ってから、香穂子はそっと門を開けて自宅に入

り、まだ居間にいた父母に「ただいま」の挨拶をしてから、コンサートの話などはせず、

自室へ戻った。



 机の横に置いているヴァイオリンケースから楽器を取り出し、そっとかまえてみる。

 しかし、こんな夜更けに防音設備のない家で音を出すことはできない。



 唇をかみしめて楽器と弓を下ろすと、荷ほどきもしていないバッグの中でマナーモー

ドの携帯電話が震えているのに気がついた。

 あわてて携帯を手に取って見ると、月森からメールが届いていた。



 件名 ありがとう


 東都交響楽団のOBである父と共に演奏後の打ち上げから早めに引き上げて、今、帰

宅の車中だ。

 今日は来てくれて、どうもありがとう。楽屋でも言ったが、初めての協奏曲を君に聞

いてもらえたことが、何より嬉しかった。きれいなユリもありがとう。女性から花束を

受け取るのは面映ゆいが、君からもらったこの花は俺にとって特別だから、今夜は自分

の枕元に飾って寝るつもりだ。

 突然の舞台だったが、ほんの数日で色々と学ぶところがあった。

 俺の演奏について君の意見も、ぜひ詳しく聞きたい。自分の演奏する姿を、自分自身

が、その場で見て聞くことは決してできないから、表現者にとって鏡となってくれる人

に話を聞くのは重要なことだ。

 ただ、君には本当に申し訳ないのだが、明日も学院を欠席することになってしまった。

マエストロの来日の間、すべてのリハーサルやゲネプロの見学を許されたんだ。こんな

機会は二度とないと思うので、ありがたく勉強させてもらおうと思う。

 来週には君とゆっくり話すことができるはずだ。また学院で。本当にありがとう。




「月森くん……」

 メールを読むと、また今夜の月森の演奏が、蘇ってくる。

 自分は、このまま彼のヴァイオリンにとらわれて、おかしくなるのかもしれない。

 香穂子は、自分のヴァイオリンを片付けて、今度は楽譜を広げてみた。

 ほとんど初めて、楽器を持たずに、しかし頭の中のイメージで演奏しているつもりで、

小声で歌いながら譜面を追った。メンデルスゾーンの楽譜は持っていないから、次の月

森の祖母のレッスンまでに、暗譜するくらい弾き込むつもりだったエチュードだ。


 できることなら、今、ヴァイオリンを思いっきりフォルテシモで弾きたかった。


 いつの間にか、目の前の譜面がゆらゆらとくもり、よく見えなくなっている。

 悲しいことなど何もないはずなのに、どうして涙が出るのか、わからない。

 様々な感情と共に、次から次へと、とめどなくあふれてくるものがあった。


 香穂子は、ほとんど眠れないまま、一晩中、自分の中に響く月森の演奏を何度もくり

返し再生していた。



 




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