憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 木曜日の放課後、香穂子は練習もせず急いで下校し、シンプルなAラインの淡い水色

のワンピースに着替えてから、月森の出演するコンサートに出かけた。

 道すがら、さんざん悩んだ末、月並みだけれどプロのヴァイオリニストとしての初舞

台になる月森に花を贈ろうと決め、ホールに向かう途中、駅前の花屋に立ち寄った。

 さてどんな花束を、と選ぶところで、また悩む。

 花束の定番といえばバラだろうが、男性に贈るのに赤いバラは躊躇する。もし、青い

バラがあれば月森に似合う気がするが、香穂子のお小遣いで買えるものとして現実的で

はない。

 青い花ならブルーレースか、デルフィニュームか……と花屋のウィンドウをながめて

いた時、背の高いたくさんの白百合が目に入った。ひらきかけているユリの、すがすが

しい香りが鼻孔をくすぐる。こんなにたくさん色とりどりで様々な花がある中で、ひと

きわ匂いたつ気高く美しい白百合は、孤高のヴィルトーゾを目指す月森を思わせた。

 香穂子は、その見事なユリだけでシンプルな花束を作ってもらい、リボンには空色を

選んだ。

「月森くん、お花なんていらないかもしれないけど……お祝いだもんね」

 そう自らに言い聞かせて、会場へと向かった。


 開場時間の6時半を少し過ぎた頃、香穂子はインターネットで調べてプリントしてき

た地図を見ながらSホールにたどりついた。ここは日本を代表する国際的にも評価の高

い素晴らしいコンサートホールであり、20年前に開館してから、都内のプロのオーケス

トラで、ここの大ホールを定期演奏会で使わないところはないというクラシックの殿堂

だが、もちろん香穂子が来たのは初めてである。

 コンサートの受付というのも初めてで、どうすればいいのか心配だったが、当日券の

チケット売場とは別に『受付』と『招待』と表示している机が出ていたので、事なきを

得た。名前を告げるとすぐに『日野香穂子様』と書いてある白い封筒を渡され安心する。

中のチケットはA席だった。

 クロークとドリンクカウンターのあるホワイエでは、早くから来ている客が、さんざ

めいている。チケットの半券を切り取って入場する時に渡されたプログラムに月森の名

前は見あたらないが、演奏者変更の案内と共に月森の顔写真とプロフィールが印刷され

た紙が一枚差し込まれていた。

 チケット売場とロビーの目立つところには同じ内容の張り紙があり、今日のプログラ

ムの独奏者変更が発表されている。開演を待つ人々は、その張り紙に注目しているよう

だった。

「ウルマノフが急病なの? また若い子が代演になったわねえ」

「月森蓮……って、コンマスOBの月森の息子か。最近、国際コンクールにでも出てい

たっけ?」

「まだ星奏の付属高校の子供じゃないの!」

「浜井美紗の子で月森の後継ぎならサラブレッドだ」

「代演でも巨匠ベッケンバウアーがデビューに付き合うなら面白いんじゃないか。メン

コンだしな」

「デビューを聴けて運がいいってことになればいいがね」

 耳に聞こえてくる会話だけで、香穂子まで神経がまいりそうだ。


 早く席へつこうと張り紙の前から離れようとした時、突然、声をかけられた。

「おい、日野じゃないか。こんなところで、お前の顔を見るとはな。……いや、この

代演なら当然か」

「柚木先輩……!」

 香穂子は驚いて二の句がつげない。

「そんなに間抜けな顔をさらして、つっ立ってると周りの迷惑だと認識しろよ」

 柚木は有無を言わさず香穂子の腕を引き、人の少ないロビーの隅まで移動した。


「先輩に会うなんて、びっくりしました」

「それは、こっちのセリフだろ」

 必要以上に尊大な先輩は、わざとらしく天上を見上げて、ため息をつく。

「義姉が、このオケの定期会員なんだ。それほど熱心じゃなくて付き合いでシーズン・

シートを取ってるだけだから、彼女の興味のない時や俺が聴きたい演目の時は譲ってく

れるのさ。今日は指揮者がベッケンバウアーだし、学内でやるメンコンもプログラムに

あったからな。まさか月森が出てくるとは思わなかったが……たいしたものだね」

「……定期会員って何ですか?」

「ああ、お前はこういう常識も知らない規格はずれだったな。月に1回の定期演奏会の

公演チケットを半年とか一年の通し券で購入して、いつも同じ座席で見られるのが、一

般的なオーケストラの定期会員。何年も同じ席で聞いてる愛好家もいる」

「そうなんですか……」

「お前は彼から招待されて来たんだろう。その百合、渡しに行かないのか?」

「えっと、演奏、終わってからにしたほうがいいかなって」

「……ふうん。じゃあ、そろそろ中へ入ったらどうだ。コンチェルトはプログラムの二

曲目だけどね。席は、どこなんだ。チケットを見せろよ」

 香穂子が素直に封筒から出して見せたチケットを、柚木は手にとってながめた。

「A席……? S席じゃないのか。まぁ、このホールならA席だって悪くはないが……」

 柚木の眉が、少し寄せられ、チケットをまじまじと見つめ、それから何かに気がつい

たのか、人の悪い笑顔になった。

「……ああ、この席は……なるほどね。まったく、とんだヴァイオリン・ロマンスだな」

「柚木先輩?」

「カテゴリーはAでも、これはお前のために用意されたSSに等しい良席だってことさ。

だが通常、クラシックの一等席は、ホールの1階中央部分が音響的にベストで、最前列

あたりはランクが落ちるって常識も覚えておくんだな」

「はあ。ありがとうございます」

 無造作に返されたチケットを両手で受け取って香穂子は、あらためて自分のチケット

を見た。

『A席3列16』

 相当に前の席なのは確かだ。突然、決まった代演に確保してくれた席でチケット代も

払っていない招待なのだし、席など本当にどこでも構わなかった。

「じゃあな。俺はS席なんでね。場所がわからなければ案内してもらえばいい」

 開演前の扉の側には座席の案内係の女性が立っていて、物慣れない様子の客とみると、

さりげなく声をかけていた。

 柚木が慣れた足取りで自分の席へ歩いていく背中をぼんやり見送ってから、我に返っ

た香穂子は花束を抱えたまま案内係の誘導で与えられた席へ向かった。

 舞台の後方、パイプオルガンの前にも客席があり、段々畑のように座席が舞台をぐる

りと取り囲んだホールの景観に香穂子は圧倒される。パイプオルガンがあるホールだっ

て初めてだ。

「舞台の向こう側の席ってどんな感じかな」

 好奇心で座ってみたい気もしたが、今はそんな猶予はないだろう。

 香穂子の座る、舞台に向かって中央より少し左よりの席は、並べられた演奏者の椅子

の最前列一番手前の席に近い。

 1ベルの後、演奏者が舞台に現れ席に着き始めて、香穂子は、その意味に気がついた。

「ヴァイオリンが、すぐ前だ……」

 香穂子にとって、これ以上の良席があるだろうか。

 それは月森の香穂子への無言の期待でもあるのだろう。



 オーボエのA音からコンサートマスターに、そこから広がるチューニングの波が、さ

あっと広がりおさまると、明るくなったステージに指揮者が登場した。彼を迎える拍手

の響きもすごかったが、香穂子が何より驚いたのは、この巨匠と呼ばれる指揮者の存在

感だった。彼が中央の指揮台に向かって歩いてくるのを見ただけで、この人は特別な人

物なのだということが素人目にもありありとわかった。

 会場は素晴らしい音楽が聴けるだろうという予感に満ちて、今にもはち切れそうだ。


 一曲目はメンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』という曲で、当然ながら香穂

子の初めて聞く曲だった。波をうけて鳴る洞窟の孤島を鮮やかに描いているこの音楽を

聞いている間中、香穂子は自分がひどく緊張していることに気がついた。押し寄せてく

る音の波は圧倒的で、香穂子を容赦なく溺れさせる。それは決して苦痛ではなく、心地

よいゆさぶりなのだった。

 これだけのオーケストラをバックに月森はソリストとして演奏する。

 何という勇気だろう。

 自分なら考えるまでもなく無理だと香穂子は思う。月森を安易に背中を押すように励

ました自分は、本当に何も知らなかったと呆れてしまう。

 けれど、彼なら、月森蓮のヴァイオリンなら、と盲目的に信じる香穂子も確かにいる

のだ。



 序曲が終わり、いよいよ月森の出番になると、香穂子は、ほとんど祈るような気持ち

だった。月森が孤独とプレッシャーを乗り越えることを信じている。それだけの才能と

積み重ねてきた努力が彼にはあると知っている。それでも祈らずにはいられなかった。

 指揮者の後について舞台に姿を現した月森が立ち止まった位置は、コンサートマスタ

ーと指揮者の間で、本当に香穂子の座っている席の真ん前と言ってよかった。客席の軽

やかな拍手に迎えられた月森が、一礼をしてヴァイオリンを構える前に、確かに香穂子

を見つけ、かすかに微笑んだ。


 ──大丈夫だ。月森くんは、客席の私なんかより、ずっと落ち着いてる。


 指揮者がタクトを上げ、月森と目配せしたのを見て、香穂子はぞくりと震えた。それ

は、これから目の前で素晴らしいものを味わえる予感だったかもしれない。

 月森は奏でる最初の一音から、聴いている者の心をつかんで離さない。哀愁を帯びた

美しい旋律が、胸に響き語りかけてくる。耳を澄ます必要すらない。身体全部で音楽を

受け止めるという体験を、初めて香穂子は味わった。

 何も足りないものはなく、まっすぐに響いてくる全てに、息をするのも忘れてしまい

そうだ。協奏曲とは、これほどまでにダイナミックなものなのかと、肌で感じ取る。


 香穂子は、これまでコンクールを通して、ソロ曲ばかりを追いかけてきた。直接、目

の前で見て聞いて感じた音楽は、自分と月森が演奏するヴァイオリンだったり、ピアノ

やフルート、トランペットにクラリネットにチェロといった共にコンクールで競い合っ

た仲間の演奏曲がほとんどで、練習して舞台で弾く時は、ピアノの伴奏か無伴奏の楽曲

しか知らない。名演と言われる数々のCDを借りて夜通し聞いたり、オーケストラ部の

練習を見学したり、練習の合間に何人かと合奏したことはあっても、本物の完成された

大編成のための音楽に、直に向き合ったことはなかった。

 こうして月森が実際にソリストとして演奏する場に立ち会うまで、自分が何も知らな

かったことに打ちのめされる。フルオーケストラを従えて演奏するということが、どう

いうことか、香穂子は全く知らずに、月森を励ましていた。

 今なら月森の立ち向かっていたものが、どれほどのものだったか想像できる。


 それが、どんなに孤独で恐ろしいことなのか。


 月森は、いつも香穂子が音楽に対してあまりにも無知である事実を、つきつけてきた。

 彼は、もしコンクールで香穂子が優勝していたら、学オケの協奏曲の独奏者は香穂子

だったと、平然と言っていたが、とんでもない話だ。音楽の妖精の魔法の手助けと月森

の演奏によってヴァイオリンに魅せられ、音楽の扉を開いたばかりの香穂子に、こんな

協奏曲のソリストとしての演奏が、できるはずがない。


 オーケストラの厚みのある響きの中で、月森の奏でるヴァイオリンの音色は、時に溶

け合い、時にくっきりと浮かび上がり、音楽という言葉にできないものの絶妙な魅力を、

あますことなく訴えてくる。彼のヴァイオリンは泣きたくなるほど美しかった。一音一

音がなめらかに連なったかと思えば、あちこちではじけて跳ねる。舞い散る花吹雪によ

うに音の花びらが香穂子を包んだ。


 二楽章のハーモニーが次々と転調していくところで、香穂子は自分がボロボロと涙を

落としていることに気付いたが、ハンカチを出すこともできなかった。目はずっと月森

のフィガリングとボウイングに釘付けで、涙でぼやけても瞬きする間も無いほどだった

し、耳だけでなく身体全部で、降り注ぐ音楽を受け止めるのに精一杯だ。

 彼が全身全霊で打ち込んでいる音楽に、胸が詰まる。

 どうして、コンクールの間のほんの一時でも、彼のライバルになれるなどと思ったの

だろう。月森蓮は、誰よりも真摯に音楽にその身を捧げている努力する天才で、好奇心

のおもむくままに魔法で底上げした初心者の日野香穂子とは、世界の違う人だ。

 月森の紡ぎ出す音楽に、夢中になればなるほど、好きであればあるだけ、打ちのめさ

れる。


 ヴァイオリンが弾きたい。

 彼のように、心を全部持って行かれるような音楽を奏でられるようになりたい。

 もう音楽のことしか考えられない。

 月森の演奏は、こんなにも容易に香穂子を虜にする。



 この曲は三つの楽章を切れ目無く続けて演奏する。それだけに聴く側も、それが良い

演奏であればあるほど、ただ一心に気をそらさず、音楽を受け止めることができた。

 三楽章の浮き立つリズムを煽るようにして疾走する旋律を鮮やかに弾ききったソリス

トに、会場は息を呑む。

 指揮者がタクトを止めた一瞬、静まりかえる空間は、すぐさま、ぶどう畑のようにス

テージをとりかこむ四方八方からうねり沸きかえる嵐のような拍手と称賛の声が轟いた。

 あちらこちらで立ち上がり、更にわき上がる拍手の渦。スタンディングオベーション。

 感動した──と、ひとことで言えばそれだけのことを、今できる手段で客席中が一斉

に伝えようとしているのだ。そうせずにはいられない。香穂子も夢中であらん限りの力

を込めて手を叩く。客席の香穂子には、それしかできないのだ。

 コンクールに参加して、香穂子が初めてもらった拍手と、その時、月森がうけていた

拍手は、確かに同質のものだった。しかし今、このホールで協奏曲を演奏し終えて月森

がうけている拍手は、その時の拍手と似ていて、その実、まったく別のもののようだ。

「ブラボー」と叫ばれる言葉は同じでも、まるで違う意味の言葉のような気がする。

 足を踏みならすオーケストラの団員達。

 指揮棒を置いたマエストロまでが月森に向かって、にこやかに拍手する。

 その称賛のるつぼの中心にいて、少しはにかんだように表情をほころばせた月森は、

オーケストラとマエストロを相手に堂々と渡り合っていた演奏中の彼と違い、とても謙

虚で初々しく見える。

 マエストロ・ベッケンバウアーは指揮台を降りて、右手を差し出し、固く握手をしな

がら月森を抱き寄せた。

 今、共に音楽を奏でた年の離れた相棒に、よくやったと肩を叩き、笑いかけている姿

は微笑ましく、見守る観客の拍手はいっそう大きくなった。

 突然の代演の抜擢で、見事に期待に応えた若いヴァイオリニストのデビューを、今日

ここで音楽を分かち合った全員が、心から、その演奏を讃えていた。



 





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