憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 月森の祖母のレッスンを受け始めてから香穂子は迷いがなくなった。

 ヴァイオリンを自分の思うように演奏できるようになりたいという願いは純粋な気持

ちで、音楽科に編入するとか将来どうするとか、そんなことは別にどうでもいいことの

ような気がする。

 こうして、ずっと楽しく練習していけたらいい。

 そんな風に考えていた変わらない日常が一変したのは、週に一度のレッスンもすでに

三回ほど終えて、夏服もなじんだ頃の昼休みだった。



 その日は天気がよかったので、月森と香穂子の二人は、待ち合わせて森の広場の木陰

で昼食をとっていた。食後にオレンジを食べようと皮をむきかけたところで、校内放送

が聞こえた。

『音楽科2年A組・月森蓮くん、至急、弦楽研究室まで来てください。繰り返します。

音楽科2年A組・月森蓮くん……』

「月森くん、呼んでる!」

「ああ、そのようだ」

「放送で個人の呼び出しなんて、よっぽどじゃない? 急いだ方がいいよ」

「すまない。後で話すから心配してないでくれ。……行って来る」

「うん。行ってらっしゃい」

「じゃあ放課後に──ここで一緒に練習してから帰ろう」

 そう言って香穂子を安心させるように微笑んでから、月森は広げていた弁当を片付け

ると、音楽科棟に向かって足早に去っていった。

 その日の放課後、月森と一緒に練習することはできなかった。

 彼は呼び出しの後、そのまま学校を早退してしまったからである。



 月森がどうして早退したのかを、すぐに知る術は香穂子にはなかった。

 音楽科で月森と同じクラスの知り合いをつかまえても、わかるかどうか。

 急な早退なら、何か緊急な事情があったはずで、携帯電話で連絡していいかもわから

ない。彼の迷惑にはなりたくない。

 結局、放課後に香穂子は月森と約束していた学園内の森で、一人で曲をさらった。

 どうしても彼のことが気にかかって集中できない。乱れた音でいくら弾いても意味が

ない。いっそよけいなことを考えないように、メトロノームを使って機械的なスケール

かアルペジオの基礎練習をするべきだろうか。

「日野さん、いたいた!」

 音楽科の白いブレザーの男子に声をかけられ、香穂子は弓を下ろした。

 彼には見覚えがある。月森と話していることがよくあり、香穂子とも時折合奏してく

れた。名前は確か内田といったか。専攻楽器はヴァイオリンで担当教師もクラスも月森

と同じらしく、時々CDや楽譜の貸借りもしているようだった。

「月森から伝言があるんだ。“早退しなければならなくなった。約束を守れなくてすま

ない。後で必ず連絡する”──って」

「あ…ありがとう、わざわざ」

「いや、月森、日野さんのこと心配してたみたいだから。練習邪魔して悪いな」

「ううん────あの、月森くんが早退って、お家で何かあったとか……」

「いやぁ、理由はよくわかんないんだ。帰りのホームルームで担任も説明しなくてさ。

家族の事故とかじゃないとは思うけどね。だったら何か言うだろうし」

「そう……だよね」

「連絡待ってやってよ。じゃあ伝えたから」

「教えてくれて本当にどうもありがとう」

「どういたしまして。……あのさ、日野さんは音楽科、来ないの?」

 内田の唐突な質問に、香穂子は一瞬、言葉に詰まる。

「…………」

「あー、ごめん。コンクールで聴いてて、俺も日野さんのファンだから。あれだけ弾け

て普通科にいることないよ。音楽科に来れば、一緒に合奏も練習もし放題だぜ。月森も

期待してるんじゃないかなって思ってさ」

「ありがとう。……どうするか、まだ決めてないんだけど」

「いや、余計なこと言って勝手だよな。悪い。またそのうち合奏しようぜ。月森もいる

時でいいからさ」

 明るい笑顔の彼は、そのまま走って校舎へ戻っていった。

 いい人だなと香穂子は思う。

 こんな時、普通科も音楽科もないと信じることができる。




 結局、学校にいる間、香穂子の携帯電話に着信はひとつもなく、彼女は落ち着かない

まま練習を終えてひとりで下校した。

 家に帰って家族と夕食をとり、自室で少し勉強もしてから入浴を済ませ、そろそろ横

になる時分になっても、月森からの連絡はなかった。

 向こうから連絡すると言っていたのだから、連絡がないのは、それができない状態に

あるのだ。そう考えるとメールを打ちかけた指も止まってしまう。

 もともと月森は頻繁なメールのやり取りを好まない。ほぼ毎日登下校も一緒で学校で

実際に会えるのだし、普通科の友人達がしている他愛のないメールに煩わされる暇が彼

にないことはわかっていた。

 おはよう、おやすみ、またあした、といった挨拶の数々、顔文字や、ハートや星の絵

文字で飾られたさりげない告白など、彼とは無縁だ。

 男女交際や友情が携帯メールでつながっているとは香穂子も思っていないが、ほんの

少しだけ、そういったやり取りに憧れる気持ちもある。しかし、それを月森に言うこと

はできなかった。



 携帯を充電器に戻して香穂子はベッドに横になった。

 その途端、携帯電話からエルガーの『愛のあいさつ』のメロディーが鳴った。香穂子

が設定している月森からの電話を知らせる旋律だ。飛びつくように出れば、やはり相手

は彼だった。

「月森くん?」

『夜遅くにすまない。連絡すると言っておきながら……』

「ううん、いいの。大丈夫?」

『ああ。──電話していても?』

「平気だよ。ホント言うとね、月森くんのことが気になって眠れないでいたから連絡く

れてよかった」

『本当にすまない。俺も混乱していて』

「早退したのは内田くんが知らせてくれたよ。どうしたのか聞いてもいい?」

『もちろんだ』

 電話の向こうの月森の声に車が走り抜ける音が被る。その車の音が電話にあてた耳と

そうでない方から二重にシンクロして聞こえてくる。香穂子はとっさにベッドから起き

上がり、窓辺へ駆け寄ると勢いよくカーテンを開けた。

 二階にある香穂子の部屋の窓から、家の前の道先にたたずむ人影が見えた。

 高い身長。外灯の明かりに白く浮かび上がる制服。

「月森くん? ……やだ、うちの前?!」

『────』

 携帯電話から返事はなく、夜の闇の中、香穂子の部屋を見上げる彼と目が合った。

 香穂子は携帯を放り出し、パジャマの上にコットンのロングカーディガンをはおる。

すでに家人も休んでいて戸締りされた玄関のドアを音をたてないようにもどかしく開け

て、裸足にサンダルで外へ飛び出した。



「香穂子……」

「月森くん、どうして」

「ごめん。君を外へ呼び出すつもりじゃなかった」

「それは、いいってば。でも、どうして?」

「早く電話しようと思っていたんだが……決断できなくて。いや、決まったことは変え

られない。チャンスは逃がせない。わかっているんだ。ただ──」

「……ただ?」

「俺は君から、たくさんのかけがえのないものをもらった。それが全部、俺のささえに

なっている。だが、情けないことに、まだ足りないようなんだ。それで……気がついた

ら、家まで来てしまっていて…………ここから……少しでも君の側で、力を分けて欲し

くて、つい……頼ってしまった。夜中に非常識だとわかっているのに……」

 こんな月森を香穂子は見たことがなかった。

 彼はまるで何かにおびえているようだ。

「電話の続き……話してくれる?」

「急な話で申し訳ないんだが、あさっての夜……あいているだろうか。どこかへ出かけ

るとか用事は?」

「……木曜日? 学校だけだよ」

「だったら赤坂のSホールに来られないか?」

「夜に?」

「ああ。7時開演なんだ」

「開演ってコンサート?」

「東都交響楽団の定演だ。プログラムの二曲目にメンコンがある」

「ヴァイオリン・コンチェルトの? 今度、学内演奏会で月森くんが弾く曲だね」

「その定演で俺が弾くんだ」

「ええーっ!!」

 想像できないニュースに驚く香穂子の前で、淡々と彼は話を続けた。

「東都交響楽団は、昔、父がコンサートマスターをしていたオーケストラで……ずっと

付き合いがある。今度の定演は指揮者が常任じゃなくて、ウィーンの巨匠の客演だし、

力が入っていた。プログラムのメンコンを演奏することになっていたロシア人ソリスト

も来日していたんだが、急性盲腸炎で今朝、都内で入院したそうだ。突然だったから、

丁度いい代役が見つからなくて、父に連絡が来た。リハーサルを兼ねた指揮者と初合わ

せの練習に穴を開けるわけにはいかないから、たまたま最近ずっとメンコンをさらって

た俺が呼び出されて、臨時で音合わせのプローベでソロを演奏したんだ。……そうした

らマエストロが気に入ってくれて、このまま俺で本番を──と言われた」

「すごいじゃない! じゃあプロの演奏会でデビューするんだ! 代役だって何だって

オーケストラのコンサートで弾くんでしょ?」

「そういうことに──なってしまった」

「月森くん?」

 外灯の下の月森の横顔は青ざめて見える。

「こんなことは考えてなかった。まだ────まだ早いって……」

 彼は身体の震えを押さえるように、左手で自分の右腕の手首をつかんでいた。

「……俺にできるだろうか」

 不安そうな彼の声に香穂子は息を呑む。

 彼のヴァイオリンを誰より香穂子は信じている。ならば言うべき言葉は決まっていた。

「月森くんがやらなくて誰がやるの? チャンスじゃないかな。目の前のチャンスから

逃げちゃうの? プロとコンチェルトやりたくないの?」

「──やってみたい。やりたい。やりたいんだ。本当に」

 ほんの少し問いかけただけで、もう眼の輝きが違う。

 月森蓮は、すでにヴァイオリニストだった。

 香穂子は安心して本音を告げればいいだけだ。

「うん。私も聴きたい。絶対、行くから!」

「ありがとう。……そんなわけで、あさってまで学校は欠席する。今さらだがゲネプロ

まで集中的にレッスンしようと思う。登校しても落ち着かないだろうし」

「あ……そうだね」

「朝、君を迎えに来られないが許してほしい」

「何言ってるの! そんなの当たり前だよ。がんばって! 成功を祈ってるね」

「チケットはこちらで用意するから、当日、受付で名前を言ってくれたらいい。一枚で

いいか? 誰かと一緒に来るなら遠慮なく言ってくれ。夜遅いから家族の人に止められ

ないだろうか」

「……大丈夫。ヴァイオリンのことは親もわかってくれるし、ひとりで行けるよ。帰り

が遅くなっても駅まで迎えに来てもらう。それに、これから誰かを誘っても予定があっ

たら無駄になっちゃうもの」

「ああ……突然ですまない。でも……俺は誰より君に聴いてほしい」

「うん。楽しみにしてる」

「ありがとう……本当に」

 香穂子の返答に、月森もようやく微笑んだかと思うと、唐突に強い力で抱きしめられた。

「月森くん……っ」

「ごめん。少しだけ」


 背の高い月森の額が、香穂子がいつもヴァイオリンをのせている左肩に当てられた。

 ふと月森の制服のぱりっとした布地の感触を感じた香穂子は、自分が寝間着姿同然の、

とんでもない格好なのを思い出した。積極的に彼氏に見せたい姿でないのは明らかだ。

「つっ月森くん……っ、あの……あのね……、私、こんな格好でっ」

 初夏の薄着を意識するまでもなく、男の子とこんなに近く体を寄せ合った経験はない。

「君は、もう休んでいたのに……俺は……どうしても」

「月森くん」


 彼の胸の動悸が、ひどく速い。この事態に誰よりも緊張しているのは彼なのだ。

 香穂子は自分の心臓もつられるように速くなるのを意識した。

 鼓動の速さが重なるのは、ヴァイオリンを合奏する時にテンポを合わせるのと似ていた。


「月森くん、息、吸おう!」

「香穂子?」

「一緒に深呼吸、ね」

 香穂子は両腕をそのまま月森の背中にまわし、抱き合った姿勢のまま、彼にわかるよう

に肩も使って大きく息を吸い込んだ。月森も素直に香穂子の肩のあたりで呼吸を合わせた。

 香穂子が、ふーっと脱力しながら大げさに息を吐くと、同時に、月森の吐息が香穂子の

髪をゆらした。

「大丈夫! 月森くんはきっと素敵な演奏ができるよ。私、月森くんのヴァイオリンが大

好き」

「……ありがとう。君の期待は裏切れないから、頑張れると思う。本当に……感謝してる。

俺を信じてくれる君のために弾くから」

 香穂子は反射的に首を振った。

「私のためだけじゃなくて、自分のために弾いて。それとコンサートを聴きにくる全員の

ためかな」

「ああ。君の言う通りだな。……それじゃ、お休み」

「お休みなさい」

 ゆっくりと抱きしめられていた腕が解かれて、香穂子は一歩、自宅の門の中へ下がった。

 そのまま帰る月森の背中を見送ろうとした時、彼はもう一度ふり返り、いきなり香穂子

を引き寄せると、かすめるように左の頬に唇を寄せ、後は何も言わずに、走り去って行っ

てしまった。



 残された香穂子は、何が起こったのかわからず、ぼんやりしたまま、そろそろと手のひ

らを頬にあてがった。

 頬に羽根のように軽くかすめた一瞬の、それでも確かに月森がくれたキスだった。

「ど……どうしよう……眠れないかも」

 我に返った香穂子はあわてて家に入ると、戸締まりもそこそこに自室のベッドへ飛び込

み、夏掛けの布団を頭までかぶって体を丸めた。ときめきと羞恥で、どうにかなりそうだ。

 その夜の香穂子は、月森のことばかり考えて、明け方近くまで、どきどきと速いままで

一向におさまらない胸の鼓動を、持てあまし続けたのだった。



 





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