憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 香穂子も月森も徒歩で通学できる距離に家がある。方向は違うのだが、月森は特に予

定がなければ、いつも律儀に香穂子の家の門の前まで送るのが日常になっていた。同じ

ようにヴァイオリンケースを手にしてゆっくり歩く二人は仲の良い音楽仲間にでも見え

るだろうか。星奏学園の制服を着ているのだからこのあたりの人には一目瞭然ではある。

「香穂子ちゃんのボーイフレンドはハンサムねえ」とご近所の親しいおばさんにうっと

りされたこともあるくらいだ。

 しかし月森本人は、どういう訳か自分の容姿が極めて整っていることに自覚がないら

しい。

「王子様みたいなのにねぇ……」

 さりげなく歩道側をキープして隣を歩く月森の横顔をながめて、香穂子はふと思いが

口に出ていた。

「何が王子みたいだって?」

「え! あ、ああゴメン。ちょっと思い出してひとり言。何でもないよ」

「……そうか」

 それ以上、追求してこない月森をありがたいとも思うし、もう少しつっこんでくれて

も構わないのにとも思う。だが彼がそこで黙ったのは、彼もまた何かに捕らわれている

らしいからだと香穂子は気付いた。

「月森くんこそ、どうかした? 私に何か言いたいことあったりして」

「ああ……実はさっきからどう伝えたものか迷っていたんだが、君はお見通しだな」

「そんな大したことじゃないんだけど、雰囲気でね」

 香穂子がふふっと笑って軽く肩をすくめると、月森は意を決したように香穂子の目を

見て口を開いた。

「君のヴァイオリンのことで……出過ぎた真似のようにも思えて……気を悪くしないで

欲しいんだが」

「ヴァイオリンに関してだったら、私は全面的に月森くんを信頼してるし、アドバイス

は嬉しいよ。悪いことでも遠慮なしに、どんどん言ってほしいな」

「そう言われると俺も嬉しい。……君はヴァイオリンを弾くのが好きだろう? それな

ら音楽科に編入する、しないを別にして、もっと弾けるようになるために専門の先生に

ついてレッスンするのは悪くないと思う。それでも……習う気はないだろうか……?」

「うん、それはちょっと考えてた。時々月森くんに聞いてもらうだけの自己流じゃ限界

があるよね。でも、どうやって先生探せばいいのかわからなくて……。私、ここまで弾

くようになったきっかけが異常でしょ? たぶんこれくらい弾くなら知ってて当たり前

のこと知らないだろうし。趣味の音楽教室みたいなところでもいいかと思ってたんだけ

ど、音楽科編入を目指すレッスンするなら、そういう教室じゃだめなんだよね? だか

らって金澤先生に聞くのも即編入目的の進路相談みたいで違う気がするし。まだ踏ん切

りつかなくて……」

「それだったら……一人あてがあって……君にその気があるなら紹介したいんだが」

「ヴァイオリンの先生を?」

「ああ。…………俺の祖母だ」

「月森くんのお祖母様?! プロのヴァイオリニストじゃなかったっけ? ど、ど、ど

うして、私なんか……っ」

「日本人で活躍した女流ヴァイオリニストとしては草分けみたいな人だけど、もう長い

こと個人で弟子は取っていない。ただ時々つてで頼まれるセミナーとか公開講座の講師

は引き受けたりしてる。演奏活動も室内楽中心に負担にならない程度に押さえているだ

けで引退したわけじゃないが、時間は比較的ある人だ。実は……もう君のヴァイオリン

も聴いてる」

「え! い、いいい、いつっ?!」

「学内コンクールのビデオ……参加者はダビングしてもらったろう? あれを家で見た

んだ。俺の音楽が変わったのは君の影響だろうって、すぐ言い当てられた。君の演奏を

気に入ってたな」

「……本当に……?」

「ああ」

「そ、そっか……月森くんも、お祖母様に習ったりするの?」

「いや。身内だと甘えが出てしまうから、俺は本格的なレッスンを家族にしてもらった

ことは、子供の頃を入れても、ほとんどない。たまに演奏を聴いてくれて、助言をくれ

ることはあるが……」

「……それで、どうして私を紹介なんて……」

「ビデオを見ていた時、君がヴァイオリンを始めたきっかけを正直に少し話した。祖母

は君と同じで音楽の神に愛されて弾いてるような人だから、たぶん君にとっていい師に

なるんじゃないかと思って」

「……お祖母様、妖精だの魔法のヴァイオリンなんて信じて下さったの?」

「面白がっていたな。先生を探してるなら、いつお迎えが来るかはわからないけれど、

それまで練習を見ようかと言ってる」

 突然の話に香穂子は呆然として歩く足元がおぼつかなくなり、楽器を落とさないよう

に両手で胸に抱え込んだ。

「おそらく祖母は受験用のレッスンはしないと思う。編入のために特訓するなら他の先

生を探した方がいいかもしれないが……」

「ううん! 私、月森くんのお祖母様に、お願い──したい。お願いします!」

「じゃあ当分は週1回の予定で、まず来週の都合のいい日から楽器を持ってうちに来て

くれれば。細かいことは初回に会って直接相談した方がいい。最初のレッスンには俺も

立ち会わせてもらっていいだろうか?」

「うん、もちろん。こっちこそ、お願いする。ありがとう、月森くん!」

「どういたしまして。むしろお礼を言いたいのは俺の方だから気にしないでほしい」

「え……何で?」

「君がヴァイオリンを続けてくれるのが嬉しいんだ」

 そう言って微笑む月森を見て、香穂子はそれだけで胸がいっぱいになり、たまらず叫

び出しそうになった。彼はこんなに簡単に香穂子をおかしくすることができるのだ。



 興奮冷めやらず激しい動悸が静まらないまま、月森に送り届けられたあと自室へ駆け

込み、ヴァイオリンを構えた。この高ぶりは演奏することでしか解放されないと、香穂

子は知っている。防音などしていない部屋で、苦情が出るギリギリの時間までねばって、

香穂子はヴァイオリンを弾き続けた。







 翌週の半ば、水曜日の放課後に、香穂子は月森と連れ立って彼の家へ向かった。

 校門を出てからというもの、右手右足を同時に出して歩きそうなほど、次第にぎこち

なくなっていく香穂子を見て月森が心配そうに声をかけた。

「そんなに緊張しなくていい。実際、教師と生徒は相性もあるから、祖母と合わないよ

うだったら、また別の先生を探せばいいんだから」

「私は、まだ先生を選ぶ段階じゃないよ。まして月森くんのお祖母様に習う最初のレッ

スンにドキドキしないわけないって。月森くんだって、もし私の家族に何か習う羽目に

なったとしたらって考えたら少しは緊張したりしない?」

「ああ……そうだな。すまない」

「ううん、でもヴァイオリン弾くのに、コチコチにあがっちゃってもしょうがないよね。

うん。ありがとう。深呼吸して後は曲のことだけ考える。ヘタだからレッスンしてもら

うんだもんね!」

「普段通りでいい。レッスンは特別なことじゃないから」

 そう励まされて、香穂子は大きく息を吐いて道を急いだ。



 月森の自宅は風情のある大きな洋館で、家と言うより正にお屋敷だ。彼の家を訪ねる

のは初めてではないが、応接間と月森の部屋以外に通されるのは初めてだった。どの部

屋も防音でテレビはなくてもピアノがあるというのはまんざら冗談でもなさそうである。

 レッスンのために通された部屋は一階の西端にある部屋で、壁の一面は作りつけの書

棚とライティングビューロー。ひとつある窓はきっちり閉められ、片隅にはアップライ

トピアノ。その手前に指揮者の前に置くようながっしりした木製の譜面台があり、譜面

台の横に背もたれの高い座り心地のよさそうな一人がけの椅子が据えられて、香穂子の

先生になる人が座っていた。

 月森の祖母は、髪の色こそ銀髪だったが香穂子が想像していたよりもずっと若々しく、

上品な身なりで物腰の柔らかい優しげな女性だった。その点、男女と年齢の差を考慮し

ても、硬質で折り目正しい第一印象を与える孫とはタイプが違うようだ。ほっそりした

体型を、ゆったりした薄紫のブラウスと黒に近い紺色のロングスカートで包んでいて、

スカートのすそが座っている足のくるぶしまでを隠している。

「日野香穂子さん、でしたね。よくいらしたわ。あなたのお話は、蓮さんからよく聞い

ているのよ。……びっくりするくらいね」

「お祖母様!」

 月森が思わず声を上げたが、香穂子はもはや、それに気を止める余裕はなく、勢いを

つけて頭を下げるのが精一杯だった。

「は、はじめまして。よろしくお願いします!」

「元気がいいのは大変結構だこと。今日は何を持っていらしたかしら。自己紹介のつも

りで弾いていただける?」

「あ……はいっ!」

「香穂子、こっちで楽器を出すといい」

 月森に促されて、ピアノの向かい側の隅にある長椅子に鞄を置いて座り、ヴァイオリ

ンを取り出した。調弦する手も震えてたどたどしくなるのを、月森が横に座って見守っ

ていた。

「あがる必要ないから」

「う、うん……」

 どうにか準備を調えると、月森の祖母が手招きをする譜面台の前に立った。

「この前の学内コンクールで弾いて……一番練習して大好きな曲なので」

「素敵ね。ぜひ聴きたいわ」

 ふわりと微笑んだ顔は月森に似ていて、香穂子はふっと安心して力が抜けた。

 ヴァイオリンを構えると、もう後は何も考えずに、無心で弾いた。

 月森が好きだと言ってくれた『感傷的なワルツ』を。




「今日は私が香穂子さんのヴァイオリンを聴かせてもらった日だから、これはいただか

ないでおきましょう」

 一番最後に香穂子が譜面台に置いたレッスンの謝礼を包んだ白い封筒を、何気なく香

穂子の譜面ばさみに戻して、月森の祖母は微笑んだ。

「……え、でも……先生……」

「来週からは本当にレッスンをするから、その時はいただくわ。教則本もおさらいして

ね。あなたは言いたいことがたくさんあるのに、どうやって話したら伝わるか、その方

法を知らないようだから、まずそれを基本に則って身につけるお手伝いをしましょう。

例えばそう……ワルツが踊りの曲なのは知っている?」

「はい」

「踊ったことは?」

「いえ。学校の体育のダンスくらいしか」

「そう。その割にはあなたのワルツは踊りたくなるような演奏でよかったわ。踊れない

ワルツを弾いては駄目なの。でもワルツも色々あるでしょう。じゃあ次に弾いてくれた

パラディスのシチリアーノだけれど、あれも舞曲なのよ。知っていた?」

「いいえ。すいません……初めて知りました」

「あやまらなくていいのよ。どんな踊りだと思う? 想像してごらんなさい。調べても

いいわ。シチリアーノもいろんな作曲家が作曲しているの。バッハも作曲しているわね」

「バッハも……」

「美しい音で、美しく歌うことが大事。作曲家とその曲をよく理解して……それを正し

くあなたの演奏で表現するの。自己流では独りよがりになってしまうこともあるけれど、

あなたの中にたくさんイメージがあるのはわかったわ。それをちゃんと音にできるよう

になりましょうね」

「ありがとうございます! 私、頑張ります」

「楽しみだこと。蓮さん、次からは見張り番はしなくて結構よ」

「……お祖母様」

 部屋の隅の長椅子で黙ってじっとレッスンを聴いていた月森が急に祖母に声をかけら

れて、立ち上がった。彼のいることも忘れてヴァイオリンに没頭していた香穂子はこの

部屋へ入ってから初めてまともに月森を見た。彼が赤面して照れた顔をしているのを見

て、香穂子の頬も熱くなってしまった。

「もう安心したでしょう? 大丈夫。アンサンブルをレッスンする時が来たらあなたを

呼びますよ」

「いえ……そういうつもりじゃ」

「蓮さんに、そんな顔させるだけでも大したものだわ。香穂子さん」

「先生、あの」

「ふふふ。からかってるんじゃないのよ。嬉しいのよ。ごめんなさいね。まだゆっくり

していけるならお茶にしましょう」

 楽しそうな祖母に月森は降参し、香穂子は言われるままに紅茶とクッキーまでご馳走

になって、初めてのレッスンは無事に終わった。





「祖母は本当に君を気に入ってしまったな」

 初めての個人レッスンの帰り道を、月森は送るといって聞かず、結局ヴァイオリン以

外の香穂子の荷物を引き受けた彼と香穂子は並んで帰路を歩いた。

 楽器だけは肌身離さず本人が持つ。香穂子がそれを習慣として自然と身につけたのも

月森の影響からだった。

 そうして道すがら話すことは、どうしてもさっきまでのレッスンのことになる。

「昔から祖母のレッスンは楽しそうだとは思っていたんだ……そんなに見せてもらえた

ことがあるわけじゃないけど、それに比べても、今日は俺が知る限り特別だった」

「え、でも私ただ二曲弾いて聴いてもらって、次から練習してくる教則本を決めて……

ほとんどお話してただけでしょう? そりゃ私はすごく勉強になったけど。どのあたり

で、そう思ったの?」

「レッスン料、受け取らなかっただろう。あんなこと初めてだと思う」

「……それ、まずくない? やっぱ失礼だったかな。だってしっかり演奏みてもらって、

お話もしてもらえたのに」

「あの人がいいと言ったんだから気にしなくていい。むしろ絶対受け取らないな」

「そう……じゃあ、とにかくこれからレッスン頑張る。月森くん、本当にありがとう!」

「だから礼はいいんだ。君のためというより俺のお節介なわがままだから」

「そんなことないよ! 私、今日、聴いてもらっただけで、すごくやるべきことが見え

てきて……ますます練習したくなったし。ヴァイオリン上手くなりたいなーって。素敵

な先生だね」

「俺は直接習えなかったから君が習ってくれると嬉しい」

「そういうものなの?」

「ああ」

「音楽一家だから、かえって大変なのかな。……月森くんの家、本当にあちこちピアノ

があって、これぞ音楽家の家ーって感じだものね」

「昔……学校へ通う前の本当に小さい子供の頃だけど」

 月森は、珍しくクスリと笑って思い出話を始めた。

「俺は人間はみんなピアノが弾けるものだと思っていたんだ。うちに来る客は、みんな

音楽関係者で、レッスンに来る弟子とか、演奏活動の打ち合わせとか、ちょっとした内

輪のパーティをして、誰にねだってもピアノを弾けない者は一人もいなかったから、ピ

アノを弾けない人間がいるってことを理解できなくて……。だから俺もすぐ弾けるよう

になって当たり前だと信じていた」

「えーっ、すごい! その頃に会ってたら、月森くんにとって、私なんて人外の宇宙人

だね」

「……君に会えてたら、そんな馬鹿なこと思わなかったろう。世界が狭かったんだ」

 月森は照れ笑いをする。

 この人に出会えた幸運を大事にしようと、香穂子はあらためて思うのだった。



 





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