憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 予約した練習室で、香穂子は月森に借りている教則本を黙々とさらった。かなり集中

していたらしく、ふと気が付くと予約していた残り時間は、あと五分しかない。

 構えていたヴァイオリンを下ろし、こわばった肩をほぐすように腕を回す。自分の手

で肩をもみながら、防音扉の窓を振り返って見ると、次の予約者らしい人影が見えた。

延長はできそうにないと悟った香穂子は、手早くヴァイオリンをケースに戻して練習室

を次の予約者に明け渡した。



 どうしたって合奏の方が面白い。それは事実だ。一人で練習するなら、せめてコンク

ールの時のように何か題名のついた曲を練習したい。

 しかしコンクール時の香穂子の練習ぶりの方が異常なものだったことを、今の香穂子

は知っている。

 あれはファータの魔法があればこそだ。初心者が曲のテーマや解釈を追求してヴァイ

オリンを演奏するなど不可能だ。ヴァイオリンは、まともな音を正しい音程で鳴らすこ

とがとても難しい楽器だ。一朝一夕で大曲が弾けるわけがない。

 なのに香穂子は魔法の力を借りて、すぐに人に聴いてもらえる演奏ができた。自分の

運の良さに感謝するしかなかった。

 ヴァイオリンを弾くのは楽しいことだ。それは時間を忘れてしまうほどで、家では、

そうそう思い切った音も出せないから、いつも下校時間ぎりぎりまで学校で弾く。コン

クールが終わったからと言って、もうおしまいと辞める気になれない。

 その熱心な練習態度だけは音楽科の月森と変わらないかもしれないと、ひそかに香穂

子は思っている。全室防音の自宅でいくらでも集中して練習できるはずの月森が、なぜ

いつも香穂子と共に下校時刻まで残っているのか不思議だったが、一緒に帰れるのが嬉

しいので、あえて彼に尋ねることはしていなかった。


 下校時刻まで、まだある。もし邪魔にならない様なら月森と練習したいと思った香穂

子は彼のいそうな所を探す。練習室の予約表に彼の名前はなかったので、屋上へ行って

みたが、今日はいないようだ。

 では音楽室か森の広場か。



 音楽室に立ち寄ってみたが、そこにはパート練習をしているオーケストラ部の生徒が

数人いるだけだった。トランペットの火原が目ざとく香穂子を見つけて駆け寄ってくる。

「日野ちゃん! もしかしてオケ部に入部してくれる気になった?」

「いえ、ごめんなさい。ちょっと人を探してて……」

「なぁーんだ。残念。でも、その気になったら、いつでも声かけてね」

「ありがとうございます。先輩は個人練習ですか?」

「うん。今は、おれの乗り番がない曲の合奏をやってるから、出番待ちでこっちで音出

ししてた」

「乗り番?」

「ああ。トランペットはさ、オケのパートだと大抵、二人いればいいんだ。弦の人みた

いに、どの曲でも参加できるわけじゃないんだよね。レギュラーと控えみたく合奏練習

も順番待ちがあったりするわけよ」

「そうなんですか……」

「んー、でも日野ちゃんはヴァイオリンでしょ。入部したら、どの曲でも乗り番だよ。

オケ部の弦パートは慢性人不足だからさ。コンクールで活躍した日野ちゃんならコンマ

スまかせたいくらいだよ。あっ、女の子だからコンミスだね」

「コンマスってコンサートマスター? ヴァイオリンのトップですよね? 火原先輩、

無茶ですよ! 私、今までオーケストラの曲、学校の行事以外じゃ、生できちんと最後

まで聴いたことだってなかったんですから」

 オーケストラだけでなくクラシック音楽自体に縁がなかった。今だってコンクールで

自分が練習した曲と参加者の皆が演奏した曲くらいしか知らない。それだってコンクー

ル用に短く編曲したもので、まだ原曲を聴いたことがないのも多い。いくら香穂子でも、

これでオーケストラ部に入部して難なくやっていけるとは、とても思えなかった。

「平気平気! おれだって入部した時は似たようなもんだったって。楽器始めたのも、

中学入って途中からだったしね。管楽器は中学の部活のブラバンからってヤツ多いんだ。

大勢で、でっかいひとつの曲やるのって楽しいよ〜」

 多くてせいぜい五人ほどとのアンサンブルしか経験のない香穂子でも、オーケストラ

に入って演奏するのは、きっと面白いだろうと想像できる。

 しかし、いかんせん香穂子のヴァイオリンの出発点は特異過ぎた。普通科のまま入部

しても、コンクールの時以上に問題が起きるかもしれない。

「ありがとうございます。入部は……正直、わからないんですけど、よかったら先輩が

お暇な時、また演奏聴かせてくださいね」

「うん。喜んで! 引き止めちゃって、ごめんね」

 あやまる火原に、とんでもないと首を振って、香穂子は音楽室を後にした。




「練習しなきゃ……」

 小さくつぶやいて、香穂子は月森のことを考えながら校舎を出た。

 もしオーケストラ部に入部したら、月森は何と言うだろう。

 そこに彼は、いないのだ。

 月森に部活動は似合わない。

 ──違う。

 正確に言うと、楽団の中にいる一人という立場が似合わない。

 彼はオーケストラのメンバーではなく、オーケストラを従え、たった一人で立つ独奏

者、ソリストだ。

 そういう立場が何より彼にふさわしい。




 森の広場の奥。涼しげな木陰のベンチに月森はいた。

 ヴァイオリンは出しておらず、膝に楽譜を広げている。イヤホンで何か聴いているよ

うだ。

 彼の視界に入らないように大きく迂回して、香穂子は彼の背後へ近付く。

 座っている月森が熱心にながめている楽譜は香穂子になじみのあるものではなく、め

まいがするほどびっしりと段数がつまった譜面だ。よく見たくて思わず上から前のめり

にのぞき込んだ拍子に香穂子の長い髪の毛先がさらりと肩からすべり落ちる。その気配

に彼が顔を上げて振り返った。

「君か……」

「ごめん。邪魔しちゃったね」

「いや、気にしないでいい」

 月森が自分のしていたイヤホンを片方外して、香穂子の耳にあてると、美しいオーケ

ストラの曲が聞こえた。彼にうながされ、そのまま隣に並んで腰掛ける。

「これ何て曲?」

「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。出だしは、君も知ってると思うが」

 月森が即座にボタンを押して頭出しをすると、あまりにも有名なヴァイオリン・ソロ

が香穂子の耳に飛び込んできた。

「あぁー! うん、聞いたことある。有名な曲だよね」

「ポピュラーだから、かえってやっかいなんだ。技術的にはそれほど難しいわけじゃな

いから余計に……」

「えー、そうなの? それ楽譜でしょ? 難しそうだよ。……あ、これ、オーケストラ

全部出てる楽譜ね」

「スコアが頭に入ってないと演奏できないから」

「うわぁ、すごいね。この曲やるの?」

「ああ。七月の学内演奏会はコンクールの総合優勝者がコンチェルトをやることになっ

たそうだ。学生オーケストラだけど、ピアノ伴奏じゃなくて本物のオケで協奏曲ができ

るチャンスはめったにないから有難い」

「月森くんでも?」

「もちろん」

「……へぇー……」

「君が優勝していたら、ソリストは君だったんだぞ」

「あり得ないよ! 私にできっこないもの!」

 香穂子は飛び上がった。

「オケとのコンチェルト経験なら俺も君と大して変わらない。初めてみたいなものだ」

 月森はまったく当たり前のように言う。彼はいつも香穂子を対等な演奏者として話を

するのだ。

 香穂子はふと気が付いて月森に質問した。

「ねえ、学オケって、火原先輩が入ってるオケ部?」

「いや、部活のオーケストラ部じゃなくて、授業で編成する方だ。管弦打楽器専攻は全

員、合奏授業のどこかでオーケストラが入る。指揮指導は先生がやるしオケ部とは別だ」

「そ、そっか」

 一瞬、オーケストラ部に入れば月森と舞台で演奏できるのかと虫の良いことを考えた

が、そうではないと知って、入部すると決めたわけでもないくせに香穂子は少しがっか

りした。

「月森くんのコンチェルト聴きたいな。学内演奏会って普通科でも聴きにいけたっけ?」

「ああ、コンクールの時と同じだろう。本番は確か金曜日の放課後だった。君ならその

前のリハーサル練習も見学できると思う。転科すれば学オケに参加することになるし、

音楽科で興味があれば乗り番でなくても練習見学は自由だから」


 そうは言っても普通科の制服で、そこへ混ざれば相当浮くだろうなと香穂子は思う。

コンクールの時、散々味わった一種の疎外感。好きこのんで出るわけではないのに、周

囲の目は容赦なく「なんで普通科の子が」という視線で香穂子を責めていた。

 今でこそコンクールのセレクションで結果を出し、物怖じせずに外で練習しまくって

いたおかげで、音楽科にも合奏したりする仲間や顔見知りが大勢出来たし、音楽科校舎

を尋ねる苦痛は減ったが、基本的に普通科の香穂子が音楽科で異分子であることに変わ

りはない。

 これが月森と一緒だったりすると、なお一層、注目されて、ヴァイオリン・ロマンス

だと囁かれているのも気付いている。

 それは間違いじゃない。

 香穂子にファータが見えなくて、魔法のヴァイオリンも借りず、コンクールにも縁の

ないただの普通科の生徒のままだったら、絶対に月森と知り合うことはなかったと断言

できる。


 香穂子の思惑を余所に月森は話を続けていた。

「俺はメンデルスゾーンのようなシンプルに旋律の美しさを歌い上げるのは苦手な方だ。

もっとテクニックを突き詰めるような曲の方が取り組みやすいと思っていたけれど……

今はそうでもない」

 その言葉に香穂子は、顔をふっと上げて隣に座る彼を見た。

 月森は彼女が片方だけのイヤホンから響いている音楽に集中していたと思ったのだろ

う。目があった途端、この上なく柔らかく微笑みかけて、言った。

「香穂子のおかげだ」

 優しげな笑顔で甘く告げられて、香穂子は心臓が止まりそうになる。


 二人でいる時、月森が香穂子にしか見せない表情を向けるたび、真摯な言葉をくれる

たび、想いのあふれるような美しい音楽を奏でるたびに、こんなに人を好きになれるの

かと驚く。

 毎日の登下校、休み時間と放課後、レッスンのない休日の多くの時間を月森と過ごす。

 二人をつないでいるのは間違いなくヴァイオリンだ。

 だったら何を迷う必要があるのかと自分でも思う。ずっと月森といたいなら、音楽科

へ移った方が、きっと違和感はないはず。

 香穂子はヴァイオリンを弾くのが好きだ。その気持ちに嘘はない。


 ……だけど、それは。


 迷うたび、きしきしと切なくなるような胸の痛みが、一体どこから来るのか、香穂子

にはわからなかった。


 





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