憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 星奏学園の昼休みのエントランスは放課後に負けず劣らずにぎやかだ。

 普通科・音楽科入り乱れ、購買でパンを買う生徒に、昼食や遊びの待ち合わせ。

 さっさと食事を済ませた者は、おしゃべりや練習に興じている。

 今日の昼はパンにしようと香穂子がエントランスへやって来た時、お目当てのミック

ス・サンドは売り切れていて、残るは焼きそばパンにあんパン、ラスクといったところ

だった。

「日野ちゃん、お昼、買い損ね? 分けてあげよっか?」

「火原先輩はゲットできたんですね」

 購買の前で迷っている香穂子に声をかけてきたのは音楽科三年でトランペット専攻の

火原和樹だ。

「ジャーン! 見てよ。この成果! やっぱり購買のパンはカツサンドに限るよ。おれ、

命がけで買うから、ひとつくらい分けてもへっちゃらだよ」

 火原はいくつも抱えたカツサンドを香穂子に見せた。まるで猟犬が飼い主に捕まえて

きた獲物を見せてほめてもらいたがってるような様子に、香穂子は声を上げて笑うのを

こらえてお礼を言った。

「ありがとうございます。お気持ちだけいただいときます」

「遠慮しなくていいのに」

「火原。無理強いはよくないよ。日野さんが困ってる」

 やんわりと火原を止めたのはやはり音楽科三年でフルート専攻の柚木梓馬だ。タイプ

の違う二人は、それだからなのか不思議と仲が良く親友だそうで、香穂子は彼らが一緒

に話しているところによく出くわす。二人ともコンクール参加者であり、普通科の参加

者だった香穂子をずいぶん気にかけてくれて、相談相手としても心強い存在だった。

 香穂子がコンクールに参加しなければ、女生徒の憧れの的で親衛隊まである柚木や、

数ある運動部やオーケストラ部の間を飛び回り、あちこちで活躍している火原と親しく

するきっかけなど、おそらくなかっただろう。

「遠慮してるわけじゃなくって、ダイエットしてるからカツサンドは、やばいんです」

「ダイエット! 女の子は大変だぁ。でも無理しちゃダメだよ」

「はい」

「ごきげんよう、日野さん。またね」

「日野ちゃん、また合奏しようね〜。よかったらオケ部も待ってるから! 普通科だか

らとか気にしないでね」

 香穂子は火原からオーケストラ部に勧誘を受けていて練習の見学もしたのだが、返事

はまだ保留していた。

「火原」

 あいまいに微笑む香穂子を見て、柚木が火原を止める。

 いいコンビだなと香穂子は感心する。うらやましい二人だ。

 音楽科の先輩。

 コンクールが終わっても、一度知り合って得た縁が切れるわけではない。

 彼らとの出会いは嬉しいことで、香穂子が悩むのは別のことだ。



「かーほこちゃん!」

 購買前の人混みをかきわけて背中に飛びついてきたのは普通科で報道部のやり手部員、

天羽菜美だった。彼女もコンクールの取材がきっかけで仲良くなった一人だ。

「見ましたよ〜。ふふーん、おやすくないねぇ。コンクール終わっても、すっかり先輩

方のお気に入りじゃない!」

「お気に入りって……」

「普通科の星、日野香穂子さんご自身は気付かなかったようですが、突然、抜擢された

コンクールで頑張る彼女に、参加者の男子がみーんなメロメロになったあげく争奪戦に

なってたっつーのは有名な話だよ〜」

「菜美……そんな根も葉もないことお願いだから……」

「私が言いふらしてるわけじゃないって。……裏付けだってないじゃないんだけどな。

ま、あんたは月森くんが好きで、相思相愛のヴァイオリン・ロマンスが実ったんだから、

今更か」

「それも事実と違うと思うけど……噂だけ聞いてると、私、すごくヤな女じゃない?」

「どうして? もてるのは魅力的な証拠! コンクールで入賞したのだって香穂の努力

と実力でしょ! もっと自信持ちなさいよ」

「自信……か……」

「あんたは真面目に考え過ぎ! さ、お昼にしよ。パンは買えたんでしょ。今日は月森

くんとじゃなくて女同士水入らずの約束だよ」

 威勢のいい天羽に引きずられるようにして、香穂子はエントランスを後にした。



 暖かく天気の良い日に、学園内の森の広場でお弁当を広げるのはピクニックのようで

楽しい。

 仲良く味見をし合いながら昼食を済ませ、紙パックの苺牛乳を飲みながらくつろぐ。

「コンクール終わっても、あんた毎日ヴァイオリン持って学校来てるね」

 何気なく言われた菜美の言葉に、香穂子は、はっとした。

「う、うん。家じゃ思いっきり練習できないしね」

「練習かー。コンクールに出て音楽科のエリートをぶっち切る勢いの演奏ができるのに、

普通科だってとこが、あんたの不思議なところよね。土浦くんも、そうだけどさ」

 ピアノで参加した同級生の土浦梁太郎も普通科の生徒だった。

 しかし彼は香穂子と明らかに違う。幼い頃からピアノを習っていて、小学生で高校生

に混じってコンクールで特別賞を受賞する実力のあった土浦と、ファータの魔法のヴァ

イオリンでいきなり参加した素人の香穂子では、並べて比べることすらおこがましい。

 しかし、香穂子はそれを天羽に言うことはできなかった。

 魔法のヴァイオリンはとうに壊れて無く、今、香穂子が使っているのは普通の『良い

ヴァイオリン』だったけれど、香穂子はそれさえも後ろめたい。

 この『良いヴァイオリン』ですら自分で買ったわけではなく、音楽の妖精にもらった

ものだ。もらった楽器がどのくらいの価値があるものなのか、香穂子は知らない。月森

に見てもらえばわかるのかもしれないが、確かめていなかった。

 ただの趣味で弾いていい楽器じゃなかったらどうしようという恐れが香穂子にはある。

 もしかしたらコンクールが終わったら消えてなくなるかもしれないと覚悟もしていた

が、そんなことはなく、今も香穂子のもとにある。

 この楽器をくれた学園に棲んでいる妖精の姿は、もう影さえ見ることもできない。

「リリ……どうしてるかな。私のこと見てるんだろうにな」

「香穂?」

 思わず自分をコンクールに巻き込んだファータを声に出してつぶやいていた香穂子を、

天羽が気遣わしげに見ていた。

「どうかした?」

「ううん! 何でもない。さ、もうすぐ予鈴なるよ。片付けて教室戻ろう」

「だね。あーあ、次は数学かー」

 のびをして立ち上がる天羽の後に香穂子も続き、授業の合間のささやかなピクニック

は終わった。






 その日の放課後、香穂子は練習室を予約していた。

 香穂子は普通科の生徒だけれどコンクールに参加した時から音楽科の生徒と同じよう

に、それを許されている。その特例に甘えるのは少し気が引けるが、基礎練習をするな

ら、他の音がまじらない練習室にこもってした方がいいと教えてもらった。

 今日は月森をわずらわせず個人練習をしようと思っていた。

 練習棟の受付に立ち寄ると、予約しておいた練習室の鍵がなかった。

「日野香穂子さん……ナンバー12を4時から予約ね。まだ鍵が戻ってないわ。もう時

間だから、行って替わってもらいなさいな」

 練習熱心な音楽科の生徒は、皆、時間ぎりぎりまでねばって練習していることが多い。

 予約できる練習時間は1コマ20分で通常は続けて3コマ、最長一時間まで予約してい

いことになっている。うまくキャンセルされて他に予約や新規希望がなければ下校時間

まで1コマずつ延長が可能だ。香穂子の前に使っている音楽科の誰かも延長を期待して

いるのかもしれない。


 ヴァイオリンを抱えて予約していた練習室の防音扉の小窓をのぞくと長い髪のフルー

ティストが見えた。柚木梓馬だ。

 香穂子は一瞬ためらってから、ノックをして扉を開けた。

 防音扉をノックしたところで実際、意味はないのだが、中の人物はドアが開けられた

瞬間に楽器を下ろして振り返った。

「ああ……お前か」

 気だるげに髪をかき上げる仕草も美しい柚木に、香穂子は息を呑む。

「お邪魔して、すいません。次にここを予約してるの私なんです。もう時間なので……」

「片づけが遅れたな。少し待て」

「はい」

 柚木が手早くフルートをケースにしまうのを横目に見つつ、香穂子もヴァイオリンを

取り出して練習の準備を始めた。


 二人きりの時の柚木の態度は、気持ちいいくらい傲慢で尊大で、香穂子の上に君臨し

ている。

 彼は、香穂子が魔法のヴァイオリンの恩恵を受けていたことを知っている。

 香穂子にコンクールを辞退しろと迫ったこともあった。

 コンクールの途中で、柚木が穏やかでやさしい優等生の仮面をかなぐり捨てた時の驚

きを香穂子は忘れられない。しかし、それだから尚更に、香穂子は柚木を信頼していた。

彼が素顔で香穂子に対する時の言葉には全く嘘がないのだ。

 柚木の素顔を知らない周囲にとって、彼は普通科の参加者にも心配りを忘れないお優

しい柚木さまであり、学園中を取材をしていた天羽などは、柚木を何となくいい人過ぎ

てうさんくさいと気にしていた。香穂子と話す柚木を見て『お気に入り』なんだろうと

彼女は言うが、実際には秘密を握り合う共犯者みたいなものだ。


「柚木先輩は夏休み、どうするんですか? 進学は外部受験されるんでしたっけ。講習

会とか模試とか……」

「お前に関係ない」

「あ、ごめんなさい」

「──まあ、いい。そうだな。音楽は高校までだから、そろそろ普通教科に本腰入れる

必要はある。お前と立場が入れ代わるかもな」

「私と?」

 香穂子が驚いて顔を上げると、柚木は人の悪さを隠さない笑みを見せた。

 柚木のこの種の笑顔は香穂子と二人の時にしか現れない。

「音楽科に転科するんじゃないのか? 他人の進路を気にしている暇なんてないだろう」

「まだ決めてませんよ。音楽科の人ってスゴイし……普段から生活全部が音楽でしょう。

私はそんな真剣じゃないですから」

「お前が親しいのはこの間のコンクール参加者と伴奏者くらいだから、そう思うだけで、

実際には音楽科だからってお前が思ってるほど音楽一辺倒じゃないさ」

「それはそうかもしれないですけど……やっぱりスゴイですよ。才能が違うし」

「……才能? 才能ね……。くだらないな」

 自分のためらいをくだらないと一刀両断されたような気分になって、香穂子は眉をひ

そめた。

 柚木は微笑んだまま香穂子を見ている。

 彼は己の本性をさらけ出している香穂子をわざと感情的にさせて楽しむところがあっ

た。おそらく、からかって遊んでいるのだ。

 しかし、それが思いがけない本音や真実を引き出すこともあって、香穂子は柚木を嫌

いではなかった。尊敬していると言っても良い。

「音楽は人間のいくつかある表現手段のひとつだけど、人に伝わらなければ意味がない。

そして如何にして伝えるかは才能と必ずしもイコールじゃない。そうでなければ、やっ

てられないな」

「……どういう意味ですか?」

「なんでも聞けば教えてもらえると思うなよ。だからお前はウザイって言うのさ。少し

は、そのおめでたい頭で考えろよ」

「考えてるつもりなんですけど……」

「どうして練習するかなんて言うまでもない。自分の表現を、より多くの他人に伝える

ためだ。人に聴いてもらえない演奏なんて無意味だろう。たまに、誰も認めてくれなく

ても演奏さえできれば幸せだなんて勘違いしたヤツがいるが、そんなのはただの詭弁だ。

だったら最初から音楽科になんざ入るなと言いたいね」

「より多くの人に伝えられるようにみんな練習してるってことですか。なら、先輩だっ

て……。一日中、集中して練習できるなんて、やっぱり……」

「朝から晩まで音楽漬でスゴイって? それだから、お前の評価は的外れだと言うんだ」

 くっと喉の奥で笑う柚木。

「人は冷たい水のプールで朝から晩まで泳いでいる奴に向かって「そんなに長い間、泳

いでスゴイですね」って簡単に感心して言うけどな。でも、池で泳いでいる魚に向かっ

て「そんなに泳いでスゴイ」なんて言う馬鹿はいない。魚にとって泳ぐのは生きている

限りやめられない当たり前のことだからな。そんなことをスゴイと言われて喜ぶわけな

いじゃないか。俺は音楽じゃ、池に棲む魚になれないからリタイアするのさ」

「才能とは別……ですか」

「音楽学校に通ってるんだ。ある程度の才能は誰にだってある。本人次第だろう。天才

だっているところには、いるからな。そういうヤツが音楽家になればいい。俺とは違う」

「やっぱり……いますか? 天才」

「この学校にだって一人いるだろ」

 そう言って柚木は香穂子のそれ以上の質問を笑顔で拒絶した。



 柚木との会話で予約確保されていた60分の練習時間が5分は減ってしまった。

 香穂子は黙って柚木と入れ替わりに譜面台の前に立ち、練習曲のおさらいを始める。



 コンクールは終わったのに、なぜ今さらこんなに教則本を練習するのだろう。

 趣味ならばこそ、好きな曲だけやりたい曲だけ練習すればいいのに。

 外へ出て大好きな合奏ばかりしていれば楽しいだろうに。

 何度も繰り返す孤独な基本練習は、それほど面白いものじゃない。むしろ思い通りに

鳴らない音に苦痛を感じる。

 音楽科に編入したら、おそらく、これが永遠の日常になるのだ。



 柚木は片付け終わった楽器と鞄を手にすると、そのまま香穂子に声をかけずに練習室

から出て行った。


 





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