憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬






 港町にある星奏学院の高等部には普通科と音楽科がある。

 ふたつの科は、同じ学校でひとつ敷地を共有していても、異なる学生生活を送る。

 カリキュラムも校舎も別で、制服も違うし、合同授業のようなものも一切ない。

 部活動など建前は共通なのだが、どちらの科の生徒もいる部はあまり無い。運動部に

入る音楽科の生徒はまずいないし、音楽科中心のオーケストラ部やオペラ研究会に入る

度胸のある普通科の生徒は皆無に近い。吹奏楽に至っては、普通科の吹奏楽部と音楽科

のウインドオーケストラ部のふたつの部があるほどだ。

 校内の時間割を告げるチャイムと、文化祭のような学校行事だけはかろうじて共通だ

が、それだって体育祭や球技大会は音楽科にはないし、学内演奏会のような音楽科なら

ではの演奏行事も普通科は見学の機会こそあれ、ほとんど無縁だ。


 その数少ない学校を上げての合同行事に、不定期に2〜3年に一度開催される星奏学

院学内音楽コンクールがある。

 これは星奏学院では伝統ある行事で、この学内コンクールで入賞し、音楽家として成

功した者も多い。

 しかし何と言っても音楽コンクールだ。春から初夏へと向かうひと月半ほどの間で4

回のセレクションをこなすコンクールの舞台は、校内自由公開で科を問わず生徒も教師

も講堂に入って聞くことができたが、盛り上がる音楽科に比べれば、どうしたって普通

科にとって、今ひとつ縁遠い行事であった。参加者は学校側の指名制で、音楽コンクー

ルだから、選ばれる参加者は音楽科生徒なのが当然と思われたし、事実、これまでは、

そうだったらしい。

 なのに今年のコンクールでは普通科の生徒が二人も参加者として選ばれたあげく、一

人は四回のセレクションの内、一回は優勝もして、総合でも二位に輝くという番狂わせ

を演じたのである。


 この事実に誰よりも困惑したのは、普通科の入賞者その人である日野香穂子だ。

 普通科の生徒でも音楽が得意な生徒はいる。小さい頃から楽器を習っていたりして、

高校の内から音楽科を選ばなくても、大学では音楽学部に進学しようという生徒もいる。

 しかし香穂子は、そういう生徒ではなかった。彼女は音楽を専門的に勉強したことは

ない。

 それなのに、香穂子はまぎれもなくヴァイオリンで異例の普通科参加者となり、並み

居る音楽科の優等生を抑えて入賞したのだ。香穂子の演奏を聞いた者で、コンクールの

参加が決まるまで、彼女がヴァイオリンにさわったことすらなかったなどと、一体誰が

信じるだろう。

 たとえ、どんなに才能があったとしても、ヴァイオリンは一朝一夕に弾けるようにな

る楽器ではない。全くの初心者がコンクールに参加して入賞するなどあり得ない。コン

クールの審査をした教師たちは、間違いなく香穂子が音楽科に入学しなかっただけで、

幼い頃からヴァイオリンを習っていたのだと思ったろう。プロの演奏家を目指すなら、

そのための練習を始めるのを、本人が物心つく頃まで待っていたら間に合わない楽器が

ヴァイオリンやピアノだ。

 香穂子が、学院にいる音楽の妖精に見込まれて魔法のヴァイオリンで突発参加させら

れた本当の素人だったことを知っているのは、コンクール期間中はファータという妖精

が見えたコンクール参加者と、ごく一部の関係者だけ。


 今回のコンクールの担当であった音楽教諭の金澤紘人も、その一人だった。

 特別教室棟の音楽準備室に呼び出した香穂子を前に座らせて、金澤は頭をかいていた。

 伸ばしっぱなしで肩より長くなっている髪を無造作にしばり、無精髭すら生やした若

い教師は、いつもどこかけだるく不熱心そうな様子で、ざっくばらんにはっきりと物を

言う型破りな教師だった。

「転科編入なんて特例なんだから、いっそ編入試験も取っぱらえと言いたいところだが、

そうもいかなくてな。ただ、コンクールで入賞できるあんな演奏聴かされちゃ、音楽科

のお偉方がほっとけないってのも、まぁ無理もないだろ。試験科目は、専攻実技、副科

ピアノ、新曲視唱、聴音、あとは楽典の筆記だが……どうする? お前さん、ヴァイオ

リンをあれだけ弾きこなしちまったってことは、音感は悪くないはずだが、聴音っての

は、演奏とはまた別の知識と技術がいるからな〜。やったことあるか?」

「……ありません」

「だよなァ。ピアノの方は?」

 香穂子は黙って首を横に振る。

 金澤は大きく息を吐き、右手の拳で自分の左肩をとんとんと叩いた。

「とりあえず副科ピアノは音楽科の連中だって泥縄のやつも多い。つっかえても止まら

ない程度にソナチネあたりが弾けりゃなんとかなる……が、レッスンは必要だな」

 困惑した表情の少女を前に、金澤は気遣わしげな視線を向けた。ここに第三者がいれ

ば、少女はこの教師にとって、とりわけ心配な生徒なのだと思うだろう。

「無理に今年編入しなくても、今から勉強しつつ、高等部はそのまま普通科で過ごして、

大学進学でうちの音楽学部を受験するって手もあるぞ。そっちの方が現実的かもしれん。

外部受験よりは有利になるし、たぶん特別推薦枠と同等くらいにはなるだろう。音楽科

の進級試験と大差ないかもな」

「はぁ……そう……なんですか」

 香穂子の相づちは言われていることがよく飲み込めていない返事だ。

「お前さんの場合、事情が特殊過ぎる。とにかく転科編入の件については保護者の方と

も相談してな。一応、お前さんの音楽科編入進路相談の担当は俺になったから」

「ありがとうございます……先生」

「ま、あまり深刻にならないで気楽にかまえとけ。無理しなくていいぞ」

 そう言って金澤は香穂子の肩をぽんとたたくと「今日は、もう行ってよし」と、突然

の呼び出しから少女を解放した。




 音楽準備室を出た香穂子はヴァイオリンケースを下げて、そのまま屋上へ向かった。

 今日はあらかじめ金澤の呼び出しを受けていたので約束をしていなかったが、香穂子

には確信がある。

 空が高く心地よい風の吹いているこんな気持ちの良い日なら、彼は屋上か森の広場に

いる。美しい黄昏時の空をながめながら演奏するなら森より屋上だ。下校時刻の六時で

も、まだ明るい季節だし、必ずいる。

 彼──月森蓮は、朝から晩まで暇さえあれば練習している音楽科在籍のヴァイオリニ

ストの卵だった。

 香穂子と競ったコンクールで総合優勝した、他人にも自分にも厳しい音楽の求道者。


 屋上へ出る重い扉を開けると、とびきり美しいヴァイオリンの音色が聞こえた。

 ベンチの方へ足を向けると、やはり彼はいた。

 譜面台も立てずヴァイオリンだけをかまえ、フェンスに向かって、まるで天に捧げる

ように月森が弾いているのは、香穂子の知らない曲だったが、その演奏は心をゆさぶる。

 憧れずにはいられない。

 彼の姿勢の良い背中を見守りつつ、香穂子は旋律に酔いしれる。

 8小節の主題が変化して段々と速く複雑に重なり合い緊張が高まっていく。目の前で

美しい建築物が建つのを早送りで見ているような錯覚を覚えた。

 至芸というものがあるならば、香穂子にとってのそれは、いつも月森の演奏だった。

CDやDVDに録音されたどんな名演奏よりも、直に目の前で月森が演奏するヴァイオ

リンが香穂子の一番のお手本だ。

 曲の最後に、変奏され展開され続けてきた主題が、また戻ってくる。そのメロディー

を美しく弾ききった月森が弓を下ろす前に、香穂子は自分の荷物をベンチに置いて拍手

をする。その音で初めて背後の存在に気づいたらしい月森が、振り返って香穂子を発見

し、めったに見せない照れた表情を見せると、香穂子は笑顔でブラボーと声をかけた。

「聴いていたのか」

「うん。……なんて言うかドキドキする曲だね」

「バッハのパルティータ2番。シャコンヌだ」

 月森はベンチに腰掛けると、脇に置いていた鞄から楽譜を取り出し、隣に座った香穂

子に楽譜を渡した。鉛筆でいくつも書き込みがしてある楽譜をながめ、ゆっくりとペー

ジをめくる香穂子に、月森が尋ねてきた。

「金澤先生の話は音楽科への編入のことじゃないかと思っていた」

「うん……」

「編入試験……君がどうするつもりか聞いてもいいだろうか」

「……正直言って迷ってるの」

 香穂子は楽譜から顔を上げた。月森の視線を感じていたが、彼を見ず、ベンチの前の

植え込みの緑を見ながら答えた。

「今から試験のためにあわてて個人レッスン受けて、聴音やソルフェージュとかも習っ

て……、それで音楽科に移るのって、どうなのかな。……先生のあてもないし」

「紹介が必要ならするが。教師は選んだ方がいい。ヴァイオリンはうちの学校の主科の

誰かにつくのがいいかもしれないが……大学部と両方教えている教授や講師もいるから、

なるべく君の状態を理解できる柔軟な指導が可能な先生が理想だな」

「……よくわからないや」

 香穂子はため息をついて、おもむろに傍らの月森を見る。二人の目があった。

「ねえ、音楽科の人たちって、学校でも授業の中に週一で個人レッスンあるんでしょ? 

なのに、それとは別に個人的に先生についてレッスンしてるの? 月森くんも?」

「ああ。学校の授業としての実技で個人レッスンの時間はどうしても短い。人にもよる

が、大抵は。学校で担当になっている先生の課外レッスンか、弟子筋の別の先生に見て

もらうとか色々なケースがあるが、副科ならそこまでしない場合も多いと思う。聴音や

ソルフェージュは個人でなく少人数のグループでレッスンする専門の教室もあるから、

受験まではそういうところに通う場合が多いようだ」

「そうかぁ……。ヴァイオリンの練習だけじゃないんだね」

 その中でも月森は幼い頃からエリート教育を受けてきているのだろうということは、

香穂子にも察することができた。

 月森たち音楽科の生徒にとって当然なことでも、コンクールに参加した2ヶ月ほどで

急激に音楽に目覚めた香穂子にとっては、それは全く見当のつかない世界だ。

「音楽を……ずっと続けていくつもりには、まだならないか?」

 月森が静かに問う。

「ヴァイオリン弾くのは好きだよ。練習も全然苦にならない。もうやめろって取り上げ

られたら悲しい。だけど……」

「音楽科に行かなくてもヴァイオリンは弾ける──か」

「……わからないの」

 ただ、秋の編入試験を受けるなら、迷っている猶予はなかった。今から始めて夏休み

を全部費やしても遅いくらいだ。

「まぁ編入したりレッスン受けたりするとなったら、きっとお金もかかるし、親にも相

談しないとね! もうちょっと考えるよ」

 香穂子は明るく言って、脇に置いていたヴァイオリンをケースから出しはじめた。

「せっかくだから一曲合奏してくれる?」

「喜んで」

 月森の微笑みに香穂子も笑顔を返して、調弦に取りかかる。

「曲は?」

「バッハがいいな」

 月森のシャコンヌが耳に残っている内に。

「なら、アリアを」

 二人の音が響き合い、祈りに似たハーモニーが夕暮れの空に流れた。


 




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