憬文堂
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 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ 
Wachet auf, ruft uns die Stimme

仲秋 憬


15





 翌日ヨーロッパに旅立つ月森に対してひどい態度を取ってしまったことに、香穂子は

落ち込んだ。あれではまるで八つ当たりだ。迷ってる自分に嫌気がさして、迷いのない

月森に当たってしまった。

 いくらなんでもしばらく会えなくなる相手にする話じゃなかった。せめて迷っている

ことを素直に相談すればよかったのに、どうしてあんな風に言ってしまったのだろう。

 これがきっかけで別れ話になってもおかしくない。

 香穂子のした話はそう受け取られるような内容だった。

 帰宅して自室に戻り少し頭が冷えて落ち着くと、電話はできないけれどメールならと

思い、その日の内に何度もおわびのメールを送ろうとした。

 しかし、できなかった。

 今度こそ彼に呆れられ嫌われたかもしれない。メールを送ることで、確実に終わって

しまったらどうしよう。

 八つ当たりではあっても、あれは確かに香穂子の本音でもあるのだ。

 月森と同じようになりたくてもなれないし、実際もう間に合わない。高みを目指すの

には遅すぎたとあきらめたら、そこで月森は香穂子に興味を無くすだろう。

 それがたまらなく怖かった。

 だが、このままでいいはずがない。せめて謝罪の気持ちは伝えなければ。



 件名:昨日は


 月森くんが出かける前に、変な話をして嫌な思いをさせてごめんなさい。

 せっかく夏休みに入るところなのにバカだよね。

 気にしないでザルツブルグで有意義な時を過ごせますように。

 私も練習がんばります。



 もっと何か伝えたい気持ちはあるのだが、うまく言葉にならないし言い訳じみた謝罪

ばかりになりそうで、これ以上は書けなかった。

 とりつくろった嘘のメールを送っても、月森はきっとすぐに見抜く。

 だからこれ以上、書いてもしかたがなかった。

 香穂子がヴァイオリンをやめるつもりじゃないとわかれば、たぶんこれ以上月森の心

を煩わせたりはしないですむだろう。

「でもやっぱり気にしちゃうかな。月森くんの邪魔したくないのに」

 堂々巡りの悩みを振り切るように、香穂子はおそらく今頃はもう空港あたりにいるで

あろう月森にメールを送信してから学校へ練習に出かけた。

 練習室でスケールをさらっている最中に月森から返信があった。



 件名:ありがとう


 いつも気遣われてばかりで俺の方こそ君にすまないと感じている。

 帰ったら必ず話をしよう。

 何の力にもなれなくてはがゆいが、君が充実した夏を送れるように祈っている。

 もうすぐ搭乗する。行ってきます。



「月森くん……やっぱり優しい」

 信頼と尊敬と愛情と、自分の一番きれいな部分で接したくなる人だ。

 きっと音楽がそれを形にする。

 そんな月森に自分はふさわしくないのではないかという恐れが、どうしても拭い去れ

ない。

 もてあます不安が香穂子をひたすら厳しい練習に向かわせる。

 けれど、この衝動のような練習の動機こそ、月森に並び立とうとする努力としてそぐ

わないのではないか。

 そもそもこんな香穂子の内面を月森が知ったら軽蔑するのではないだろうか。

 ただ、今の香穂子がこの言いようのない不安を忘れて没頭できるものはヴァイオリン

しかないことも確かなのだ。

「練習しなきゃ」

 メンデルスゾーンの協奏曲でも、学内コンクールで弾いた数々の名曲ピースでもない、

香穂子が今、取り組むべき曲は目の前にある一朝一夕では減ることのないエチュードの

山だった。


 毎日の積み重ねの結果が出ているのかどうか、香穂子にはわからない。

 月森の祖母でもある師は週に一度のレッスンで安易に褒めることもなく、いつも香穂

子が自分で答えを出すのを辛抱強く見ていてくれるという感じだった。

 足りない技術の方法は教えてもらえる。しかし、常にそこから先を要求される。

 自分がどう感じているのか? 奏でる音を聞いているのか?

 その音で、その弾き方で、その解釈でいいのかどうかを常に追求して、より良き演奏

を目指すのだ。演奏家は口に出して話すよりも、まず音楽でどれほど語れるかが大事だ

し、語るためには表現の技術が必要で、香穂子はまだその技術を死に物狂いで習得して

いる途中だ。

 普通なら技術が十分身についてから追求する音楽性を同時に手に入れようとするなら

ば多少の無理はやむを得ない。この厳しさから逃げ出すまねはしたくない。

 だからいつもレッスンの後は香穂子は心身ともに疲労困憊してしまう。

 へとへとに疲れるのは身体よりも頭のほうだった。

 学内コンクールの期間の独学練習では、こんなことはなかった。

 香穂子を導くのは魔法のヴァイオリンで、おまけにファータの助けもあった。毎日、

弾いただけ上手くなる魔法があれば音楽を嫌いになる子は少ないだろう。香穂子は新し

い魅力的なおもちゃでひたすら飽きずに遊ぶ子どものようなものだった。

 だがもう無心に楽しむ時間は終わったのだ。

 ただのハ長調の音階を弾いて、人を感動させることはできない。それは音楽以前だ。

 でも極めて美しいピアニシモの音でレガートをかけて音階を弾けるようになることに

は意味がある。

 思い通りの音を奏でる技術を手に入れたその先に、表現したい音楽はきっとある。

 高校二年の夏休みに友人や家族と遊びに出かけることもなく、ひたすら毎日ヴァイオ

リンの練習をしているなんて、コンクールに巻き込まれる前の自分を思えばどう考えて

も普通ではない。

 けれど圧倒的に時間が足りない香穂子は、たとえ友達に薄情だと言われても、練習を

減らす余裕はなかった。

 生まれてこのかた、香穂子はこんなに真剣にひとつのことに打ち込んだことはない。

 自分で自分に驚いているくらいなのだ。

 迷いはあっても上手くなりたい気持ちは消えなかった。





 8月の半ばお盆休みの数日間は、さすがに学園も完全に休みになる。

 校門は閉ざされ、生徒も入ることはできない。

 明後日からの、その六日間の練習場所をどうしようかと香穂子は悩んだ。

 真夏の屋外練習はきついが、木陰を確保できる公園かどこかに行くしかないかもしれ

ない。ヴァイオリンのためにはできるだけ避けた方がいい気もするが、自宅での音出し

練習には限度がある。

 今日、香穂子が使える予約のコマを使い切って音楽科の練習室棟前の掲示板でため息

をついていると、弦楽器のケースをかかえた生徒たちの集団と一緒に見知ったOBが談

笑しながら階段を下りてきた。

 王崎信武だ。彼は星奏学院の大学でヴァイオリンを専攻している大学生で、オーケス

トラ部のOBであり時々後輩指導に高等部にもやってくる。かつて学内コンクールで優

勝したこともある優秀な学生だ。金澤が素人参加者の香穂子のフォローをさりげなく頼

んでいたくらい面倒見のよい優しい先輩だった。

 久しぶりに見かけた王崎は、躊躇することなく、笑顔で香穂子に声をかけてきた。

「日野さん、久しぶりだね。夏休みも練習?」

「はい。王崎先輩はオケ部の指導ですか?」

「うん。少し時間が取れたから弦のパート練習に付き合っていたんだ。この後は音楽室

で合奏だから、おれはここまでかな」

 オーケストラ部の後輩たちに手を振って先に行くようにうながして、彼は香穂子に向

き直った。

「君がコンクールの後もヴァイオリン続けてくれて嬉しいよ。火原くんがオケ部に勧誘

しているとは聞いていたけど」

「部活は……なかなか決心つかなくて。すみません」

「いや、あやまることじゃないよ。オーケストラじゃなくてもヴァイオリンは色々な演

奏形態があるのが魅力だよね。ぜひまたきみの演奏が聞きたいな。今はどんな練習して

いるんだい?」

「あ……えっと、6月から月森くんのお祖母様の月森先生に週1回レッスンしてもらっ

てます」

「そう! いい先生に教えてもらえてよかった」

「基礎がないから、もう必死でエチュードさらってます」

「頑張ってるんだね。楽しみだな」

「いえ……そんな」

 普通科で部活もサークルもどこにも所属していない香穂子に、この先の演奏の予定な

ど何もありはしない。それどころか学校以外の練習場所さえおぼつかない。

 香穂子の曖昧な返事に王崎は何か気付いたようだった。

「もし何か困っていることがあったりしたら、おれでよければいつでも相談にのるよ。

あまり頼りにならないかもしれないけどね」

「そんなこと! ありがとうございます、先輩」

 あわてて首をふる香穂子に王崎はにこりと笑った。

 みんなに頼りにされ慕われている彼の人柄がよくわかる笑顔だ。

「と言っても今日でオケ部の夏練習もしばらく休みだし、おれもあまり高等部に顔出せ

ないから口だけみたいだな。ごめんね。来週一週間は教会でボランティア活動をするか

ら、近くに来たら顔を出してくれると嬉しいよ。どんな楽器でも演奏できる子、大歓迎」

「……教会ですか?」

「そう。ミニコンサートとか子どもたち相手に音楽ボランティアみたいなこともするん

だよ。あとは労働奉仕ってところかな。教会で音を出せるのは気持ちいいんだ。響きが

違うよ。日野さんも、もし暇があって気が向いたら、ぜひ参加してほしいくらいなんだ

けど」

「え……私なんかが行ったら、ご迷惑じゃ」

「迷惑どころか、どんな楽器でも歌でも、音楽やる人、大歓迎だよ。お盆の頃は予定が

ある人も多くて人が足りなくてね。ミサの時間でなければ音を出せるところもあるし、

練習場所に苦労せずにすむのが役得かな」

「……練習……音、出しても?」

「ああ、大丈夫。さすがに教会に来て練習だけってわけにはいかないけどね」

「先輩、その……私、ご迷惑でないなら行ってみたいです。実はお盆休みの間、どこで

練習しようかなって思ってて。お役に立てるかあやしくてもよければ……」

「本当? 女の子が来てくれると助かるよ。参加してくれると嬉しいな。きみのヴァイ

オリンを聞くのも楽しみだし」

「先輩も演奏……するんですよね」

「ああ、もちろん。よかったら一緒に弾こうね」

「はい!」

 ここのところたった一人の練習ばかりで合奏は久しぶりなので、嬉しくてはしゃいだ

声で返事をした香穂子に、王崎も笑顔で頷いてくれた。

 そこへまた通りがかりにかけられた声に香穂子は背筋を伸ばした。

「王崎先輩、こんにちは。日野さんも」

「やあ、柚木くん。久しぶり。君も登校していたんだね」

「進路指導報告のことで、たまたま学年登校日に都合で出席できないので僕ひとり今日

になってしまいました。今しがた、終わったところなんです」

「それはお疲れ様。三年は慌しいよね」

「先輩のように幅広く活動できるようになれるといいのですが」

「柚木くんなら、大学でもきっとおれなんか以上に活躍できるよ。……ああ、そろそろ

行かなくちゃ。日野さん、教会の方は午後一時からなんだけど無理しないで顔出してく

れたら助かるよ。おれは昼前から入ってるから。一番、暑い時間からで申し訳ないけど」

「特に準備するものってありますか?」

「あらたまった演奏活動ってわけじゃないから動きやすい普段着でね。あとは楽器さえ

あれば、その場で役目を振ってしまうから」

「わかりました」

「じゃあ、またね」

 王崎はにこやかに手を振って、正門の方へ行ってしまった。

「ふうん。日野さんも先輩とボランティアに参加するの?」

「ええ、そうさせてもらおうかなって。お盆休みは学院にも入れないので」

「……なるほどね。善行で忙しく過ごすのも、ひとつのやり方だ」

「柚木先輩?」

「日野さん、よかったら練習に付き合っていかない? せっかく登校したから、この後

の練習室をきょうの最後のコマまで予約を取ったんだ。それとも、もう帰るところ?」

「え……でも先輩のお邪魔では」

「邪魔なら最初から誘わないよ」

「そうですか……じゃあ少しだけ」

「角部屋の12号室だから広目の部屋だよ。安心して」

 柚木の笑顔は王崎とは違う意味でひどく優しげだ。

 こんな風に誘われた時に断ると柚木の機嫌を損ねるだろうし、暑い日中に少しでも空

調の整った練習室で音を出せる時間が増えるのはありがたかったので、香穂子は素直に

厚意を受け入れた。



「これ弾けるか? コンクールの頃、合わせたことがあったと思うが」

 練習室に入ると最初にやさしいメロディーのデュオの譜面を渡されて、香穂子はうな

ずき、できるだけ手早く調弦してから出だしの部分を弾いてみた。

 自分で弾いてみて以前と同じようで違うとわかる。奏でたい美しい音をはっきりとイ

メージしてその理想の音を、音楽を目指して弾くようになった。

 柚木の華やかなフルートの音とハーモニーを響かせるのは楽しかった。

 ひとつひとつの音が連なり重なって、どこまでも美しく昇華していく錯覚がある。

「ずいぶん熱心に練習しているようじゃないか」

 最初に一度通して合わせてから柚木が言った。

「いくらやっても足りなくて」

「本気になったというわけか。まぁお前の基準は月森なんだろうからな。最初から高い

目標が当たり前なのは悪くない」

「悪くない……んでしょうか」

「なんだ。吹っ切れたから猛練習始めたんじゃないのか」

「そういうわけじゃ」

「直接、関係あるわけでなし、別にお前がどういうつもりで練習しようが俺は構わない

けどね」

「……じゃあ、なんで練習に誘ってくださったんですか?」

「退屈しのぎ」

 柚木はにべもない。

「お前に構うのは受験生のほんの息抜きさ。いい気になるんじゃないよ」

「そんなつもりありません。自信なくなるばっかりですし」

「へーえ、そう」

「きっと先輩の退屈しのぎにもなりません。どんなに練習しても届かなくて、ぐちゃぐ

ちゃなだけです」

 香穂子は思わず目の前の譜面と柚木の視線から逃げるようにうつむいた。

「最初はみるみる上達するけど、ちょっとその気になったところで上手くいかなくなっ

て停滞する。ありがちだな。ああ、月森は夏休みヨーロッパ行ってるんだっけ?」

「マエストロのお誘いで、ザルツブルグでセミナーです」

「で、お前はここで練習場所にも悩みつつあがいている、と」

 香穂子はうつむいていた顔を上げて柚木を見た。

 彼は確かに少し人の悪いところがあって皮肉も楽しげだったりするのだが、この日は

どこか様子が違っていた。

 そして香穂子は少しだけ自分の中の鬱積した気持ちを吐き出したくなっていた。

「仕方がないじゃないですか。月森くんは天才で私は遅れてきた素人ですから」

 愚痴を言うつもりはなかったのに、ついすねたような口調になったのは、たった今、

二重奏を美しく響かせた後の甘えがあったかもしれない。

 柚木ならすぐにこんな弱音ともつかない愚痴を一蹴し、ふがいない香穂子を叱ってく

れるのではないかと無意識に期待したのだ。

 だが柚木は香穂子が思っても見ない反応をした。

「天才? 誰が」

「やだなあ、先輩。月森くんに決まってます」

「天才だって? 月森が?」

 柚木がフルートを置いて、くすくすと笑い始めたので、香穂子は困惑した。

 ここは笑うところなのだろうか。柚木の思うところが理解できない。

「月森蓮は天才なんかじゃないさ。生まれる前から素質を磨ける環境にいた幸運なひよ

こだ。実際、この前の代演までデビューもしてなかったし神童でもなんでもなかったろ

う? ……ああ、もっとも俺は神童なんてろくなものじゃないと思っているけどね」

「柚木先輩……」

「あれほど己を突き詰めて練習しなけりゃならない奴が天才なものか。努力は認めるよ。

だいたい努力なんてのは実った経験がなけりゃできないものだからな。結果を出したこ

とのない奴が努力し続けることは不可能だ。そのたゆまぬ努力を才能というなら、確か

に彼には際立った才能があるだろう──だが天才じゃない」

「でも先輩、天才がいる……って……言ってたじゃないですか」

 柚木は当然、月森のことを話しているのだとばかり香穂子は思っていた。

「わからないのか? 本当に!?」

 怒りをこらえているような低い声で柚木がつぶやく。

「まったくそのおめでたさには呆れるよ。お前、あの魔法のヴァイオリンをリリに託さ

れた時に言われたんだっけな。魔法のヴァイオリンは自転車の補助輪みたいなものだっ

て! は! 笑わせてくれる」

 柚木は無意識に後ずさりする香穂子の腕をつかみ、引き寄せた。

「ふざけるな。初心者が補助輪をつけた自転車でレースに出てトップタイムで優勝する

か? しかもその補助は途中で壊れて、普通の競技用自転車に乗り換えて!」

 突然、自転車の話をされて香穂子は混乱したが、柚木は止まらない。

「わけがわからないって顔してるな。わからないのはこっちだよ。そんなことはあり得

ない。あり得ないんだ。だからリリが言っただろう。奇跡だ、と。奇跡を起こせるのは

天才だけだ」

 柚木の言葉に香穂子は身震いする。

 彼がどうして怒っているのか本当にわからなかった。

 しなやかで美しい柚木の指が恐ろしいほどの力で香穂子の腕に食い込んでいる。

 香穂子が視線を外すのを許さず、柚木は真正面から見据えて言い放った。



「天才はお前だよ──日野香穂子」



「ゆ……のき先輩……? なに言って……」

 香穂子は呆然と柚木を見た。

 彼は明らかに苛立っていたが、香穂子を突き放してはくれなかった。

「ファータが見えたから音楽の魔法をかけてもらえたわけじゃない。お前には音楽の才

能がある。才能があるからファータが見えたんだ。ファータと相性がいいってことは、

まぎれもなく音楽の天賦の才があるってことだ。幸か不幸か今までのお前の環境が、た

またま才能を現す機会を与えなかっただけさ。筋道を立てて考えればわかるだろう」

「私……が? 私の才能……? 音楽の?」

 全くの素人。学内コンクールで演奏できたのは魔法のヴァイオリンをもらったから。

 天才なんてあり得ないのに柚木は香穂子を許しそうもない。

「つい最近始めたくせに過剰な練習量に疑問も抱かず、人を魅了する他の誰にも出せな

い音でそこまでの演奏ができてしまうのは異常なんだよ。お前のしてることは普通の人

間にはできないことだって自覚しろ」

「異常……」

「ここへ来て月森がコンチェルトの代演を受けたり海外のセミナーだの何だのと外へ出

て積極的に活動しはじめたのは、お前と関わったからだろう。そりゃあ物心ついた頃か

ら音楽一筋の月森にしてみれば、いきなり出てきた無自覚の天才に負けられない気持ち

があって当然じゃないか」

「そんな……月森くんは……私はそんなんじゃ」

 柚木はおびえたように震える香穂子をさらに追い詰める。

「勘違いするなよ。お前が天才だってことに、音楽の妖精も、月森や俺を含むコンクー

ルのライバル、星奏の教師も音楽科の生徒も、お前の家族や……他のすべて、この世の

一切合財が関係ない。ただ才能がお前にあるというだけで、今後それをどうするかはお

前にしか決められない」

「どうして……どうして先輩は、そんなこと私に言ってくれるんですか?」

 柚木は盛大に肩をすくめ、ため息をついた。

「才能ってのはギフトだからな。生かすも殺すも本人次第だ。けれど桁外れの才能をど

ぶに捨てようとしていたら、それを望んでも得られない者に憎まれても仕方ないとは思

わないか。少しは考えてみるんだな。……お前の音楽を愛する者がいるってことに」

「それって音楽をやらない私は……意味がない……ってことですか」

 香穂子は、ずっと恐れていて誰にも聞けなかった質問を柚木にした。

「本当に馬鹿だね、お前は」

 呆れ声でため息混じりに話す柚木から、ふっと怒りの気配が消える。

「他人なんか関係ない。お前自身がそう思ってるんだろう。たとえば親が反対してヴァ

イオリンを取り上げられたら、どうするんだ? もう音楽なんかやるなと言われたら」

「イヤです!」

「見ろ。そういうことだ」

「……あ……っ」

 気負っていた力が抜けて、その場へ座り込みそうになる香穂子を、柚木はつかんでい

た腕を引っ張り上げて止めた。

「お前が自分の意思でヴァイオリンを弾き続けることには意味がある。その気があるな

ら天から与えられた才能を生かせばいい。それが周囲に何らかの影響を与えるとしても

お前がそれにわずらわされる必要はない。ただ、それだけだ」

 柚木は静かに言うと、つかんでいた香穂子の腕をゆっくりと放した。

 香穂子は座り込むことなくヴァイオリンを抱いて、立ち尽くした。

「もうここで練習どころじゃない……か。帰れよ。帰ってひとりで死ぬほど考えて決め

ればいい」

「先輩」

「自分で選べよ。そうすれば後悔せずに済むんじゃないか。他人がどう思ったって気に

する必要はない。選べる立場にある幸運だって本人が気付かなきゃ幸運でも何でもない

しね。……運も実力の内なんだ」

 柚木は脇に置いていたフルートをふたたび構えると、立ち尽くす香穂子を置いて、ス

ケールとアルペジオの練習を始めた。

 香穂子はもやがかかったようなぼんやりとした意識のままヴァイオリンをケースに片

付けると練習している柚木に深く一礼して、そっと練習室を出た。



 機械的に正門に向かって歩きながら、頭の中はぐるぐると混乱したままだった。

 そんなはずあるわけないと否定もさせてくれない柚木に、これ以上問いただすことも

できない。

 月森や先生には、もっと聞けない。

 そもそも何をどう尋ねればいいのか、わからない。


 天才は月森でも他の音楽科の誰でもないなんて。

 香穂子はドーピングの促成栽培なのに、柚木はどうして──。


「違う違う!」

 香穂子は頭を振った。

 困惑する香穂子に今も校内にいるはずの音楽の妖精の姿は見えず、夏の日差しが容赦

なく照りつけるだけだった。



 





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