憬文堂
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  朱の環礁  
LITTLE ANCHOR

仲秋 憬






 エリュシオンが次の任務、ICSEOの首都であるL2コロニーのケープムーンに向

かうその三日前には、艦長と副艦長のみが宇宙資源管理機構の事務局も設置されている

EUG軍統合作戦本部で、任務に関係する会議に出席する予定が組まれていた。

 フェンネルの様態を気にかけつつ、少々退屈な会議に出席するのは藍澄にとって苦痛

だったが、何事もなく早めに終わることだけを祈って、表面上は冷静にこなした。

 こういう時の雪乃の落ち着きぶりは見事なもので、指揮官たるもの、こうあるべきと

いう理想の姿なのだろうと藍澄は思う。彼だって弟のことを心配していないはずはない。

ただ、なすべきことをきちんと勤め上げる理性があるのだ。

 フェンネルの恋人というだけの藍澄と違って、血を分けた肉親が危篤である雪乃は、

緊急に休みを取っても責められることはない気がするのに、彼は時間通り、朝の7時に

は起床して藍澄を朝食に誘い、連れ立ってドックのエリュシオンからEUG本部へ出か

けた。


 本部でやるべき仕事を全部こなして、二人がようやく病院へ向かえたのは、午後4時

近くになってからだった。 

 フェンネルの術後経過は変わらない。

 麻酔は切れているはずなのに意識が戻らず、集中治療室で横たわっているだけだ。 

 医者でもない自分たちに、いったい何ができるだろう。

 ガラスの壁の向こう側から無言で見守るだけの数十分を過ごして、二人はまた昨夜と

同じようにエリュシオンの私室へ戻った。

 艦内ではまだ食事が取れないので、途中、外食していく必要があったのだが、藍澄に

食欲はない。しかし食べなければ体が持たない。ここで体調を崩すわけにはいかないの

で、雪乃が立ち寄ってくれたビストロで消化のよさそうな野菜の煮込みをほとんど無理

矢理に食べた。

「どんな時であっても、食べて眠ることができなければ軍人は務まりませんよ」

 そう言って、きちんと食事をする雪乃をお手本にすれば間違いはない。

 しかし、藍澄は時折、雪乃は本当はとてもつらいのに、つらくないふりをしているの

ではないかと感じることがあった。

 ふりでないとすれば、自分の痛みに気づいていないのかもしれない。

 真面目で責任感の強い雪乃なら、ありそうなことだ。

 しかしそれを雪乃に指摘すると、藍澄自身が一層不安に襲われそうな気がして、口に

するのは思いとどまった。

「バカか、お前。無理してんじゃねぇよ」

 フェンネルなら、そんな風に言ってひたいをこづくかもしれない。

 絶対に大丈夫だと信じるためには、できるだけ、ペースを崩さずいつも通りに過ごし

た方がいいような気がするのだ。

 藍澄の知るタフな人たち──主にエリュシオンのクルーたちには、皆、そんなところ

がある。





 翌日は午後1時からエリュシオンのメインクルーを集めてのミーティングが予定され

ていたので、今度は午前中に、やはり雪乃の運転する車で病院へ出向いた。

 フェンネルのいる集中治療室の前まで来ると、驚いたことにエリュシオンの医療室長、

リヒャルト・クロイツァーが立っていた。

「クロイツァーさん!」

 藍澄は思わず声を上げる。

「病院内では静かに、お嬢さん。ここはEUG軍本部と直接やりとりしている総合病院

ですから軍医である私を呼び出すのも容赦なくてねぇ。昨日、ヘルシンキ入りした途端

つかまりました」

「クロイツァーさんが呼ばれたってことは、フェンネルさんの病状で何か……っ」

「艦長、落ち着いてください。まぁ、私はエリュシオン・クルー全員の主治医みたいな

ものですが、ここへ呼び出された理由は、それだけじゃありません。少し外へ出ません

か。消毒液の匂いは息がつまるでしょ。副艦長も一緒なら話は早い。説明が一度ですみ

ます」

 普段通りにひょうひょうとしたクロイツァーを前にして、藍澄はふうっと息を吐いた。

 心を落ち着かせるのは大事なことだ。

 雪乃は黙って藍澄の背をそっと押して、先を行くクロイツァーの後へ続くのを促した。



 病院の裏手には小川が流れ、車椅子が楽に通れる遊歩道も造られていて、ちょっとし

た自然公園のような庭がある。喫茶室を通り抜け庭へ出て、小川の見えるベンチにクロ

イツァーを真ん中にして三人で並んで座った。

「結論から言うと、フェンネル・ヨークは意識不明の重態が続いていて集中治療室から

出られません。即死でも不思議はない事故で、出血が多すぎました。通常なら、とっく

に死んでいておかしくない。病院に運び込まれる前に絶命しているケースです」

「フェンネルさんは生きてます!」

 藍澄が声を張り上げると、クロイツァーは、ほんの少し口の両端を上げて微笑みを形

作る。だが目は全く笑っていなかった。

「ええ、死んではいませんね、まだ。回復に向かっているとも言い難いのですが」

「クロイツァーさん!」

「あなたが士官学校に入る前くらいまで、EUG軍部で研究されていた『SS計画』を

知っていますか?」

 急に関係ない質問をされて、藍澄は一瞬とまどい返事ができない。

「SuperSoldier計画……強化兵士育成計画のことですか。あれは主にSGでの戦闘訓練

プログラムの開発が主だったと記憶していますが……何年か前に終了しましたよね」

 雪乃が躊躇なく答えると、クロイツァーはうなずいた。

「さすがは副艦長。雪乃はご存知でしたか。表向きはそれで間違いないのですが、実は

SS計画にかんでいた一部の研究機関が、とんでもないものを隠していまして」

「……何の話ですか? すみません、私よく……」

 疑問ではち切れそうな藍澄を押しとどめて、クロイツァーは話し続けた。

「EUG軍のSS計画は全てのSGパイロットの戦闘能力を確実に一定以上に引き上げ

るための計画でした。始めはね。その過程で、種としての人類の潜在能力を兵士として

常に引き出すために、遺伝子や細胞単位で人為的に変異させる研究に手を出した部署が

ありましてね……。秘かに実験していたんです」

「どういうことですか……?」

「日本では火事場の馬鹿力と言うのでしたっけ。人は追い詰められると、普段とは桁違

いの能力を瞬間的に発揮することがある。それは意図的ではない非常事態下で稀に起き

ます。ならば戦闘時に何時でも、その潜在能力を発揮できたらどうですか?」

「ものすごく強い兵士になりますね」

 藍澄の答えにクロイツァーはうなずいた。

「そう、桁外れの戦闘能力を持った兵士にね。しかしそれはめったに発揮できない領域

です。そんなギリギリ状態を常に続けていたら人間の肉体も精神も持ちません。いくら

有能でも、すぐに使い物にならなくなるのでは継続して計算できる戦力にならないし、

人道的にも問題があり過ぎる」

 クロイツァーは腕組みをしたまま、淡々と語り続けた。

「人より圧倒的に優れた能力を発揮できる一部の天才が早世だとか奇行が多いというの

は、医学的に全く根拠がないものじゃないんですよ。だから、この研究は軍の全戦力を

恒常的にレベルアップさせるためには、あまり意味がなかった。そもそも人の遺伝子を

いじるのは違法です。それで、その禁断の実験は凍結……研究機関も解散されたはずで

した」

「はずだった……ということは、凍結されなかったということでしょうか」

 雪乃が指摘すると、クロイツァーは小さくため息をついた。

「見逃されていた数少ない人体実験があった証拠が、公開されている表向きのSS計画

から消去されている隠しファイルにありました。軍の医療研究履歴のデータバンクに、

ほんの一部、痕跡がね。そこで判明した事実は……被験者が捕虜だった上に、実験経過

データを取る前にEUG管理下を離れて行方がわからなくなっているケースがあったら

しいということです」

「クロイツァーさん、まさか」

 話を聞いている雪乃の膝に置かれた握り拳が込められた力に震えて色を失っていく。

「そのまさかですよ。フェンネル・ヨークは、おそらく失われたSS計画の実験体です」

「実験体って!」

 藍澄は思わず叫んでから両手で口を覆った。

「彼が十九から二十歳の頃でしたか……テロ組織の構成員としてEUGの捕虜になった

ことがあると履歴にあります。その間にひどい拷問に等しい尋問を受けたそうですね。

その中に実験体の被験者としてのものがあったのではないでしょうか。……SS計画の

ラボが独立して起動に乗った時期で……ちょうど時と場所が合うんです。しかし、その

後、彼は捕虜として拘束されていた収容所の爆破事件のどさくさでいなくなってます。

生死の確認もできていない。その後、わずか数年で、あっという間に敵であるEUGに

知られるほど驚異的なSGパイロットになった……」

 話を聞いているうちに悪寒のようなものが藍澄の背中を駆け上がる。

 藍澄は自分を抱くようにして肘上を抑えたが、震えを止めることができなかった。

 クロイツァーの話は驚くべきものだった。

「彼があれだけの怪我を負って死んでいないのは、普通の人間ではなく肉体強化された

兵士を生み出す目的で人体改造されているからです。病院が彼の治療データの異常数値

に気づいて、私が呼ばれ、埋もれていた資料を分析した結果、そう判断しました」

「間違いありませんか」

 雪乃が確認するとクロイツァーはうなずいた。

「そうとでも考えなければ、あの驚異的な戦闘力と生命力に説明がつきません。突然変

異もはなはだしい」


 フェンネルが尋常ではないパイロットなのは藍澄も雪乃も知っていた。

 ICSEOの赤いSG。

 戦闘中の興奮したようなハイテンションの彼の言動は常軌を逸している。SGを操る

反応速度は確かに人間にはあり得ないほどで、これほどまでに天才的なSGパイロット

もいるのだと驚いていた。

 強化されたSuperSoldierだと言われて、腑に落ちるものもある。

 ただ、その特別な能力は彼を救うものではないだろうか。


「だったらフェンネルさんは助かりますよね! 特別に強化されてるんでしょう?」

「残念ながら、いくら強化されていても、このままでは意識を取り戻して、以前と同じ

ように身体能力が回復するとは考えにくいんです」

「え……」

 クロイツァーは容赦のない事実を説明した。

「強化されているから劣化も激しい。そもそも普通の人間ではないから治療計画も立て

られない。通常なら死んでいるはずなんですよ。当たり前の治療をしたところで、焼き

切れて無くなったものを培養移植するように回復させることができないんです。遺伝子

レベルで細胞が変化しています」

「……治療……できないんですか……」

「可能性はゼロではありませんが、限りなくゼロに近いのが現状です。強化人間の奇跡

の自然治癒力に期待して、それに賭けるくらいなものでね」

 藍澄は泣き出さないように、ぐっと唇をかみしめた。

「一般的な人間の医療の蓄積されたデータは死にかけた彼の役に立たないし、もはや手

の施しようがない。実際に裏のSS計画に携わった……彼を実験体にした、当の研究者

でもいれば、また違うかもしれませんが」

「その研究者は、今、どこにいますか? まだ軍に関係して……」

「ラボの所長だった人間は、昨年すでに他界しています」

「あ……」

 藍澄がうなだれそうになるところで、新たな情報が告げられる。

「ただもう一人、おそらくスタッフでサブ・チーフだった人物は生存していると思われ

ますが」

「その方はどちらに?」

 雪乃の問いにクロイツァーは人差し指を空に向けた。

「地球にはいません。SS計画が凍結されてすぐにL1コロニーに移住した……という

のが軍に残っている最後の記録です」

「コロニーですか? EUGとICSEOの会戦続きだった時世に、自発的に地球から

コロニーに移住するとは考えにくいですね」

「雪乃の推察通り、圧力があってのことでしょう。EUGのSS計画の裏にあった本物

の強化兵士の実験体は隠され、事実は隠蔽破棄されたんです」

「コロニーに……いるかもしれない、その人が手を貸してくれたら、フェンネルさんは

助かりますか」

 藁にもすがる気持ちで尋ねる藍澄に、クロイツァーはわかっている事実だけを丁寧に

答えた。

「どの程度、当時の研究データを把握しているかによりますね。フェンネル・ヨークと

いうパイロットになる前の彼が、捕虜としてEUGのラボでSS計画のサンプルになっ

ていたと思われるのが五年以上前です」

 その年月が長いのか短いのか、まだ十九年しか生きていない藍澄には判断できない。

「そこで爆破事件のどさくさでいなくなって、三年前に創設されたICSEOに拾われ

ていたわけですが、ICSEOだってフェンネルが強化人間だと知っていて軍に受け入

れたとは思えません」

「……では偶然?」

 雪乃の疑問にクロイツァーは答える。

「EUGに反発する組織に捕虜収容所が襲撃されたのは必然だったのでしょうが、そこ

に実験体の成功例がいたのは偶然ですね。凍結されたSS計画の資料を確認しましたが、

実験体がフェンネルのように自然に安定するとまでは想定されていなかったようです。

実際、ICSEOでは、フェンネル・ヨークは単に気まぐれな性分の天才パイロットだ

としか認識されていないでしょう。瀕死の重傷で病院送りになったりしていませんから」

「え……っ? でも前に小惑星帯で行方不明になって、長いこと意識不明だった時は、

ICSEOのコロニーの病院で手当されてましたよね。その時は……」

「彼が新エリュシオンに配属が決まった時、身体病歴データはすべてエリュシオン医療

室長の私がチェックしています。ICSEO側から提出されたフェンネル少佐のデータ

には特に治癒力や快復力に着目した記述はありませんでした」

「そう……なんですか……」

 藍澄の指摘も、即座に否定されてしまう。

「あんな無茶な戦い方をしていて、彼は恐ろしいほど怪我が少ない。機体も壊さない。

同じ天才肌でも機体に無理をさせてでも敵機撃墜をねらうヨシュアなどとは次元が違い

ます。それは、あなた達の方がよくご存知でしょう」

 フェンネルのSGパイロットとしての異能さは、かつて戦場で目の当たりにしている

艦長と副艦長に取って、言うまでもないことだった。

「あの行方不明の時は……肉体的損傷はなく、酸素が持つかどうかの瀬戸際で代謝を落

とした人為的冬眠状態での発見でした。だからICSEO側の医師も、特に異常を認識

しなかったのでしょう。今回の事故とは違います」

 積み重ねられた事実が沈黙を連れてくる。

 その沈黙を破ったのは、藍澄だった。

「それじゃあ……やっぱり、その昔のSS計画に携わってたサブ・チーフを探してくる

しかなさそうですね」

「藍澄さん!」

 驚いて名を叫ぶ雪乃の声は、藍澄を煽るだけだ。

「可能性がゼロじゃないなら、あきらめません。L1コロニーでしたっけ? ちょうど

いいです。ケープムーンに行く途中の補給地をそこにします」

「藍澄さん、いえ、艦長!! 私事で任務の予定を変更するのは」

「どのみち補給はするんです。それをどこにするかを艦長が決めるのは、当たり前じゃ

ないですか。人探しは、そのついで、ですよ」

 焦燥を隠さない雪乃を横に置いて、クロイツァーはこれまでの重苦しい雰囲気を打ち

破るかのようにクツクツと含み笑いをこぼしてから、藍澄に向き直った。

「時間はあまり残されていないかもしれませんよ」

「だったら尚更、急がなきゃ! 与えられた条件の中で最善をつくせって、いつも雪乃

さんが言ってることでしょう。苦しくたって何だって、できるだけのことをします!」

 きっぱりと言い切った藍澄に、クロイツァーは、ますます笑みを深くした。

「あなたのそういうところが、すこぶる好ましい資質です。ねえ、副艦長?」

 海千山千の軍医と破天荒な艦長に、怜悧で生真面目な副艦長は、半ば呆然としてから、

それでもようやくつられたように微笑んだ。

「……艦長を補佐するのが、副艦長の役目ですから」

「クルーを守るのも艦長の務めですよね。フェンネルさんには、絶対に元気になって、

エリュシオンに戻ってきてもらいます」

「それじゃあ医務長の私は、出航までに、うちの天才パイロットの診療データを揃えて

持ち出せるよう用意しておきますか」

「お願いします!」

 フェンネルが事故にあってから、初めて、藍澄が希望を見つけて前向きになった瞬間

だった。


 




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