憬文堂
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  朱の環礁  
LITTLE ANCHOR

仲秋 憬






「フェンネルさん! フェンネルさんは?!」

「手術中です。藍澄さん。我々にできることは手術の成功を祈ることくらいです」

 病院のロビーで出迎えてくれた雪乃の青ざめた顔を見て、藍澄は自分の顔色も同じよ

うになっているのだろうかと我に返った。

「何があったんですか? 私、公園で待っていて、それで……」

「私もまだ詳しくはわからないのですが、交通事故だそうです。あなたとの待ち合わせ

場所に向かう途中だったようですね。花売りの女の子から花を買って……、そこへたま

たまスピードを出していた車が突っ込んできたので、その子をかばったらしい。現在も

警察が調査中です」

「花? ……花なんて、なんで……」

「あなたに渡すつもりだったのでしょう。藍澄さんと交際するようになってから、凪人

はずいぶん明るく精神的にも落ち着いてきて……変わりました」

「怪我、ひどいんですか……? 手術……してるんですよね?」

 藍澄が恐る恐るたずねると、雪乃はメガネのフレームに手をやってから感情を極端に

抑えた低い声で答えた。

「とにかく出血が多くて極めて危険な状態だそうです。万が一の覚悟はしてくれ……と」

 ぐらりと倒れそうになる藍澄を、雪乃がとっさに支えた。

「あ……っ、すみません……大丈夫です。SGで出撃して宇宙で行方不明になっても、

ちゃんと無事に帰ってきたんだもの……フェンネルさん……大丈夫ですよね」

「ええ、凪人があなたを置いていくはずはありません」

「そうですよね。フェンネルさんですもんね」

 弟の無事と恋人の無事を、それぞれに言い聞かせるようにして励まし合うと、雪乃は

藍澄を待合室へ案内した。しかし、白く清潔過ぎる大病院の待合室は、決して居心地の

いい場所ではない。

 休日なので急患のフェンネル以外に予定された手術はないらしく、広い待合室にいる

のは雪乃と藍澄だけだった。

「コーヒーを飲みますか? それとも紅茶かハーブティーでも?」

 藍澄は首を横に振る。

「長くかかりそうですから……ここで根を詰めているより喫茶室にでも行って待つ方が

気が紛れるかもしれませんね」

「離れてるとフェンネルさんが不安かもしれないですから、手術室に一番近いここにい

ます」

 藍澄は祈るように手を組んで長椅子に座り、目を閉じた。

「凪人は幸せ者です」

 左隣に腰掛けて、ぽつりと言った雪乃の言葉に、藍澄は思わず反応して横を見る。

 雪乃は藍澄と視線を合わせず、まっすぐ前を見ていた。

 普段、容姿がそれほど似ていると感じたことはないのに、雪乃の端正な横顔はやはり

どこかフェンネルと似ていて、彼らの血のつながりを感じさせた。

「……つらく厳しい運命に巻き込まれて、たった一人で成人しましたが……それでも、

凪人は……」

「雪乃さん?」

「そう……凪人は昔から甘え上手でした。……だだっ子みたいな恋人で、あなたも苦労

していませんか?」

「エリュシオンでは、たまにちょっと……って、副艦長の雪乃さんの方が、よく知って

るくせに」

「世話の焼ける発展途上の艦長を全面的に補佐するのと、わがままパイロットの素行を

注意指導するなら、艦長のフォローの方がずっと手がかかります」

「ご、ごめんなさい! ……不肖の弟妹ってとこでした」

「あなたの場合は妹というより、もはや娘のような気分ですよ……以前にも言ったこと

がありましたか」

 雪乃はかすかに微笑んで、ようやく藍澄を見た。

「凪人とあなたが結婚でもしたら、本当に妹になるわけですが」

「それはまだ! え、と……わからないですけど……」

 二十歳にもなっていない藍澄は、軍服を着ていても艦長には見えない。

 これでも士官学校を卒業していると証書を見せても信じてもらえないほどだ。

 それが周囲の男どもを、どれだけやきもきさせているか、本人は夢にも思わない。

「凪人は待ちきれないようでしたが」

「えぇ!?」

「すぐにでもしたいようなことを、いつも私に言ってましたよ」

「フェンネルさんがですか?」

「ええ。だから艦内でも部屋を同室にしろとか」

「な、ななな、なんてことをっ」

「落ち着きなさい。そんなことを私が許すわけないでしょう」

「あ……ですよね。すいません」

 頬が熱くなるのを意識した藍澄は、一瞬、重苦しい気分から解放された。

「本気で無茶を通すつもりではなく、牽制しているんでしょう……彼の気持ちも、まぁ、

わからなくもありません」

「牽制?」

「SGパイロットと艦長よりは、副艦長と艦長の方が、ずっと一緒にいますから」

「ああ、フェンネルさんって、やきもち激しい方なのかも……。私、男の人とおつきあ

いとか、あまり経験ないので、よくわからないんですけど」

「あなたの天然ぶりに救われている所もあるでしょうが、あやうさが心配なんですよ」

「えー、あやういって言うなら、私よりフェンネルさんの方が、ずっとあぶなっかしい

じゃないですか」

「意味は違いますが、どっちもどっちです」

「……そりゃあ雪乃さんに言われるのは、仕方ないですけど……」


 ただ手術の成功と無事を祈って待つだけの時間は、恐ろしいほどゆっくりとしか進ま

ない。まるで永遠の時を刻むようだ。こんな状況を想定せずに来た二人は、互いに心配

する相手の話をするくらいしかできることがなかった。

 黙ってじっとしていると、よくないことが起きてしまう、そんな予感すらあった。


「手術……長いですね」

「長いということは、助かる術があると思えばいいんです」

「はい。……でも雪乃さんがいてくれて良かったです。フェンネルさんも、きっと……」

「……凪人は、あなたに花を渡す夢をみているかもしれませんよ」


 事故現場でフェンネルが手にしていた花束は、ここにはない。

 雪乃も警察から話を聞いただけで見ていない。

 白いバラがフェンネル自身の流した血で朱に染まっていたという。

 恐らく見ない方がいい。血の匂いのバラに藍澄が耐えられるとは思えないし、ひどく

ショックを受けるだろう。


 藍澄は事故の様子も、倒れている本人も全く見ていないので、どうやら自分の恋人が

瀕死の状態であるということに現実感が乏しいようだったが、変に悲観的になるよりは、

ずっといい。

 その前向きさが力になる。彼女がフェンネルの無事を信じて待っていれば、きっと彼

は死の淵からでも戻ってくるだろう。





「手術は終わりました。麻酔から覚めるのには、まだかかりますし、このままICUで

術後の経過を見ますが予断を許しません。意識が戻っても、直接の面会は明日以降にな

ります」

 待合室で過ごした数時間の後、手術を担当した医師に直接、様態の説明を受けたが、

藍澄には正直、よく理解できなかった。単純に手術が成功したとか失敗したとかいう話

ではないらしいということだけがわかった。

 雪乃は落ち着いて医師の話を聞いてうなずいていたので、だったらきっと大丈夫だと、

妙な納得の仕方で自分の気持ちを何とか落ち着かせる。

「ガラス越しになら、ご家族は患者を見られますよ」

 看護師に案内されて、雪乃と藍澄は白い廊下をひたひたと歩いて、ICUまでたどり

着き、フェンネルの横たわるベッドを探した。

 新生児室の明るく優しげな窓と違い、集中治療室の窓は、沢山の器具で埋められた無

菌の実験室を隔てるガラスの壁のようだった。

「フェンネルさん……!」

 少し離れた位置にある管やパイプがたくさんつながっている透明な箱の中で、包帯を

まかれた彼が目を閉じて横たわっているのが見える。白い横顔に血の気はなかった。

「……明日、また来ましょう」

 雪乃がそっと藍澄の肩に手を置いた。

 他にどうしようもないのだ。彼の回復を祈り、彼の目覚めを待つ以外、二人に今ここ

で、できることはなかった。

「ここは病院です。宇宙で迷子になっていた時より、ずっと安心でしょう」

 雪乃の声は、藍澄を落ち着かせる。

 彼のおだやかな言葉を聞くだけで、藍澄は取り乱したりせずにすむ。

 雪乃は、理屈やものを教えたり、人をなだめ諭すのがとても上手い。

「エリュシオンに……帰ります。軍の宿舎やホテルより、エリュシオンの自分の部屋の

方が眠れそうですし」

「そうですね。私もそうします。車で来ていますから、一緒に帰りましょう」

 少し長めの休暇中だが、それも終わりに近いので、地球出身で世界各地に里帰りして

いたクルーたちも、そろそろ艦に戻ってくる頃だ。

 予定された出航まで、あと4日。

 次の任務は宇宙に出ることになっていた。

 しかしフェンネルの帰艦は、当分、先になるに違いない。

 エリュシオンの格納庫でパイロットのいないフェンネルの赤いSGを見るのは、さぞ

かし寂しいだろうと藍澄は思った。


 




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