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  朱の環礁  
LITTLE ANCHOR

仲秋 憬






 約束の時間を1時間以上過ぎても、フェンネルが来ない。

 藍澄は緑の豊かな公園で、ぼうっとしているのも好きな方だが、人を待つために動き

回らず固いベンチでじっと座っていられる時間には限度がある。

 ましてフェンネルは、これまで連絡もなしに約束をすっぽかしたりしたことのない男

なので、だんだん心配から不安になってくる。

 何度も携帯電話で連絡を取ろうとしているが、電源が切れているらしくつながらない。

 メールを入れても簡単な返事すら来ない。なしのつぶてだ。絶対におかしい。

 思い切って、彼がヘルシンキの長期滞在で借りているメゾンに行ってみようか。

 だが、約束の場所を離れて、もし行き違いになったら?

 そう思ってなかなかこの場所を動けなかったのだが、1時間も待てば怒っていいのは

待たされた藍澄の方だろう。今日を逃すと、また戦艦に乗艦して、しばらくの間、しが

らみを忘れた地上でのデートはお預けになる。


 天城藍澄とフェンネル・ヨークは、最新鋭戦艦の新生エリュシオン艦内で、まだまだ

未熟な女性艦長とエースSG(ストライクガンナー)パイロットという立場だ。

 エリュシオンにいる時の藍澄は、例え休憩時間でも睡眠中でも常に艦長という責任者

であり、天城藍澄という少女の感覚でいるべきではない。時々その自覚が足りない行動

をとってしまう失敗もしているが、藍澄だって日々学習しているのだ。

 いつまでもお飾りの艦長で甘えていてはクルー全員に迷惑をかけたままである。

 それを良しとしない素直な前向きさが成長した藍澄の取柄と言えるだろう。

 フェンネルは時たま藍澄の立場を失念したように奔放に振る舞ったりもしているが、

ブリッジで指揮をする藍澄は、そうはいかないのだ。

 それだけにエリュシオンを降りている間のデートの機会は貴重だ。独立都市国家永続

機構ICSEO(イクシオ)軍のフェンネルと地球統一政府EUG軍に所属する藍澄が山

盛りの障害を物ともせず惹かれ合ったのは偶然の出会いがきっかけで、お互いに運命を

感じていた。停戦条約が結ばれ、改めて再出発した宇宙資源管理機構の平和維持部隊と

して新生エリュシオンで再会するまで、何度となく砕け散りそうになった恋だった。

 だから藍澄はフェンネルの愛情を疑うことなど考えたこともない。

 彼と連絡すら取れないのは、よほどのことだ。


 どうしたものかと迷っている時、藍澄の手の中の携帯電話が震えた。

「フェンネルさん?!」

 着信ディスプレイには『白浪雪乃』の名前が表示されている。


 雪乃はEUG軍に所属している軍人であり、エリュシオンの副艦長で、夭逝した英雄

の一人娘であるというだけで据えられたお飾り艦長であった藍澄の教育係、兼、保護監

督責任者といったところだ。

 そして驚くべきことにフェンネル・ヨーク──本名・白浪凪人の実の兄である。

 彼らがまだ幼い頃、テロ事件に巻き込まれ生き別れになっていた家族であったことが、

単純に敵味方であるはずの藍澄とフェンネルを近づける運命の一端を担ったのだ。


「雪乃さん? 何かご用ですか? 実は私、今、待ち合わせ中で」

「待っていても、凪人はそこへ行けません。できる限り急いでヘルシンキ中央総合病院

まで来て下さい」

「え……病院って」

「早く! 説明は後です。凪人はこちらにいます」

 ざっと一気に血の気が引いたが、藍澄は反射的に携帯電話をにぎりしめて叫んだ。

「すぐ行きます!」


 公園の前でタクシーに乗り込み、指定された病院へ向かう。車の中で、じっと座って

いると、カチカチと歯の根が合わずに震えていることを自覚する。

 いったいどうして、などと考え始めると良くないことばかり頭に浮かぶのがわかって

いるので、ただ一刻も早く病院に向かうという目的だけに集中するようにした。

 余計なことを考えず、やるべきことだけに神経を集中させて動く。

 物事の大局は自分の感情とは切り離して客観的に判断する。

 決してパニックに陥ってはならない。

 エリュシオン艦長になってから雪乃に厳しく教えられて藍澄が身につけたことだった。


 




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