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Coda ─ コーダ ─




  ゴールウェイ・コンクールの本選三日目は続いていた。
  ソビエトのブーキンの演奏が終り、次のクライブの演奏までの三十分の休憩も終りに
 近付こうという時、JJは、大ホールの客席の一番後ろで、ようやくカメラ・スタッフ
 たちと合流した。
 「JJ、どこ行ってたんだよ。ひとり終わっちゃったぜ。まあ予定通り、絵はバッチリ
 撮っておいたけど」
 「悪い。裏でゴタゴタしていて」
 「ふーん」
  多分、これでコンクールが中止になるようなことはないはずだった。殺人事件のトラ
 ブルで中止になるのだけは避けたかった。不本意ではあるが、ヴァイオリン盗難だけな
 ら、ミスター・ゴールウェイのはからいで何とでもなる。コンクールの企画を失敗させ
 ることだけはできない。
  そしてJJの取材も、ここで取り止めるわけにはいかなかった。
  イチノミヤの参加が取り消されるようなことがないといいけれど、それは無理な話だ
 ろうか。彼女が本当の意味で殺人犯だとは思えない。あの子はまだ十三だから、次のチ
 ャンスもまためぐってくるだろうけれど、できれば、この本選でイチノミヤの演奏を聴
 きたかった。
  彼女はアスタロトを知らないと言った。死んでしまったヒギンズに、もうそのありか
 をたずねることはできない。

  ストラディヴァリは、どこだ。

  次は地元ニューヨークのクライブが、パガニーニを弾く。リハーサルで、迫力のある
 素晴らしい演奏をしていたから期待できる。
 「そういえば、クライブの本選出場に5ドル賭けてたな。僕の勝ちだ!」
  気を取り直したJJがニックに声をかけた時、場内アナウンスが響いた。

 『場内の皆様にお伝えします。この後に演奏するエントリーナンバー28のロイ・クライ
 ブは、本人の事情により最終審査を棄権することになりました。したがって本日の演奏
 は、これで終了となります。繰り返します。エントリーナンバー28の……』

  アナウンスを聞いて、場内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 「おい!! どういうことだよ」
 「僕が教えてほしいよ」
  ニックに尋ねられても、JJにだって訳がわからなかった。

  気がつくと、右手であごをさすっていた。
  ふと、ひらめいた。
  どこか不自然なアン・イチノミヤの証言。
  みつからないストラディヴァリ。
  からっぽのヴァイオリン・ケース。
  人が違ったようなクライブのパガニーニ。
  事件の時、ひとりで練習室にいたのは、ルミエール、ブーキン、クライブ、イチノミ
 ヤ、ローニ……。
  ストラディヴァリを弾いてみたくないヴァイオリニストなんて、いない。

  まさか。

 「楽屋に行ってくる」
  JJは何かにはじかれたように立ち上がると、ホール内にあるまじきスピードで走っ
 ていった。
 「5ドルぽっち逆転勝ちになっても、うれしかないやな」
  JJを見送りながらニックはボヤいた。


  楽屋周辺は、客席に輪をかけた大騒ぎになっていた。コンクール運営の関係者や、舞
 台から引き上げてきたオーケストラのメンバーが、クライブの突然の棄権の理由をしり
 たくて、着替えもせずに廊下にあふれていた。
  クライブの楽屋のドアの前には警察の者らしい男が何人かついていて、近寄れない。
 それだけで何か事件に関することがあったのだと知れる。
  審査委員長のバーンスタインが、楽屋口に近い事務局の方から早足でやってきた。
 「さあ、きょうはもう終りだ。クライブくんは私的な理由で棄権した。コンクールは明
 日が最終日なんだから、こんなところで暇をつぶしていないで帰りたまえ」
  今、このホールの最高権力者であるマエストロの言葉で、ざわめいていた人が少しず
 つ散っていったので、ようやくJJはバーンスタインに声をかけることができた。
 「マエストロ……」
 「ああ。私もまだ詳しい事情は聞いていないんだ。ただ、とにかく『アスタロト』が姿
 を現したからね」
  JJは、思わず息をのんだ。


  ロイ・クライブは本選の演奏を棄権した。
  出番の十五分前に、審査員の控室に彼はひとりでやってきた。参加者が本番前に審査
 員とコンタクトを取るのは禁止されている行為だ。控室にいた審査員たちは彼の行動を
 不審に思った。
  クライブは血の気の引いた緊張した面持ちで、楽屋の一番奥にある椅子に座っていた
 バーンスタインの前まで来ると、手に持っていたヴァイオリンを差し出した。
  近くで見れば年代物だと一目でわかる美しいヴァイオリン。
 「これを、お返ししたいのです。たぶんミスター・ゴールウェイのものでしょう」
  クライブは一息に、そう言ったのだった。


  捜査のために開けられた応接室のソファに埋もれるように座ったイチノミヤは、真相
 を語った。
 「私、楽しかったの。遠慮しないで弾いて、合奏して楽しかったのは初めてだったの。
 私のことを天才とか何とかひとことも言わないで、ただ一緒に演奏してくれた人はクラ
 イブさんが初めてだったんだもの」
  泣き出しそうな声。
 「私がヒギンズを殺したって言えば、クライブさんは大丈夫で、また一緒に演奏できる
 って思ったの。だって、あの人が私にコンクールを棄権しろと言ったのは本当だし」
  彼女は少女らしい一途さで、必要以上にクライブをかばった。
 「それは、いけないことだったのね。でも悪いのはヒギンズじゃないの? あの人、ヴ
 ァイオリンを壊そうとしてたのよ。弦の上からギュッて乱暴につかんで、窓から、こう
 突き出して、クライブさんを脅してたのよ」
  ヒギンズが、まさか本当に窓から『アスタロト』を落として壊す気だった、とは思え
 ない。彼は最終的には、バロンに二百万ドルでアスタロトを売り、儲けるつもりであっ
 ただろうから。
  すべてを、歯車が噛み合わないまま動き出してしまった運命のせいにでもしたくなる。

  偶然、アスタロトを手にしてしまったクライブ。
  最終審査に向けて、練習をしようと朝から取った練習室。
  ハーモニーを確かめようと鳴らしたアップライト・ピアノの音が狂っていた。調律の
 心得のある彼が、何気なくピアノの前蓋を開けて調子を見ようとしてみたら、ピアノの
 下、ペダルのバーに引っ掛からない隅っこにセーム皮に包まれた何かがあった。
  防湿剤にしては大きい。気になって下蓋をもはずし、取り出してみたらヴァイオリン
 だった。一目でわかる古い年期の入ったすばらしいヴァイオリン。
  なんでこんなところにヴァイオリンがあるのかなんて、もうどうでもよかった。
  f孔からラベルを見ると……ストラディヴァリ!
  ストラディヴァリの贋物なんて、掃いて捨てるほどある。ラベルがストラディヴァリ
 だなんて、全然保証にはならない。
  まさか本物のはずはないだろうと思うが、目の前にヴァイオリンがあって、音を出し
 てみないヴァイオリニストがいるだろうか。
  緩められた弦をきっちり巻いて、調弦する。そうっと弓をあててみる。
  信じられないほど華やかで美しい音が鳴った。ピアニシモからフォルテシモまで、自
 由自在に表現できる。こんなすばらしい楽器を使ったことはない。
  クライブはこのヴァイオリンが本物のストラディヴァリではないか、と思った。行方
 不明になっていた噂のビッグ・ゴールウェイのヴァイオリンは、これではないかと。
  このニスの輝きは、絶対に新しい楽器のものではない。フォルムやf字孔の形にスト
 ラディヴァリ中期の特徴が見られるように思う。
  おそらく、もう一生手にすることはないだろう百万ドルのストラディヴァリ。
  少しだけ。少しだけ演奏させてほしい。このヴァイオリンなら、パガニーニもうまく
 弾ける。きっとうまく弾ける。
  その時、悪魔の誘惑があった。

  練習室で、ひとりクライブがストラディヴァリでパガニーニを弾いているところに、
 ヒギンズが乱入する。
  ヒギンズはリハーサル室から盗んだヴァイオリンを、空いていた練習室のアップライ
 トピアノの中に隠したのだ。こうすれば後日ゆっくり取り出せるはずだった。
  まさか、それを見つけ出す者がいようとは思わなかった。
 『アスタロト』に魅せられたクライブをヒギンズは誘惑する。その楽器を使って、コン
 クールを勝ち抜けばいい。1位になればプロのヴァイオリニストだ。貸しは、それから
 ゆっくり、返してくれればよいのだと。
  ステージの上で演奏に使われているヴァイオリンを、盗まれたヴァイオリンだと指摘
 できる者などいやしない。
  ストラディヴァリだ。黙っていればこれでコンチェルトを演奏できる。
  それは猛烈な誘惑だった。
  ヒギンズはアスタロトを運び出すつもりで持ってきた新しいヴァイオリン・ケースを
 クライブに押し付けた。クライブは震える手でケースにアスタロトを収めた。

  本選を三日後に控え、一度は楽器を受け取ったクライブだったが、彼は迷っていた。
  舞台でストラディヴァリを弾いてみたい。今、クライブが使っている楽器とは表現力
 が桁違いの差だ。学校の教授の楽器だって、こんなにすばらしい物ではない。
  でも、これは罪だ。自分は犯罪に荷担することになるのだ。ヒギンズはまともじゃな
 い。自分でゴールウェイに売った楽器を自分で盗み出し、それを知ってしまったクライ
 ブの口封じのために、ストラディヴァリを与える素振りをしているのだ。永遠にクライ
 ブを拘束するために。そのためにはクライブにコンクールで結果を出させる必要がある。
  そのヒギンズの思惑がわからないクライブではなかった。
  良心の呵責。
  自分に嘘をついたままで、いい演奏などできそうもないと、一晩悩み抜いた揚げ句、
 クライブはゴールウェイに申し出ることを決心した。

  だが、その決心は間に合わなかったのだ。最終審査の初日、クライブは最上階で空き
 の多い6階の練習室で、ヒギンズに呼び出され、ストラディヴァリをはさんで大もめに
 もめた。
 「おまえには野心がないのか? 別にこれが無くなったからって、ゴールウェイは大し
 て困りもしないんだぞ。こんな貴重な楽器は、本当に必要としている者が使うべきなの
 だ。演奏家に世界中で演奏されてこそのストラディヴァリだ。そうじゃないのか!!」
  それは確かにクライブだって、そう思わないでもないのだ。だから今まで言い出せず
 にいたのだ。
 「教えてやろうか。このストラディヴァリは『アスタロト』という名前がついているん
 だ。悪魔のヴァイオリンなんだよ。罪の意識などは捨てるんだな。お前は、このアスタ
 ロトでパガニーニを弾いたんだろう? もうこのヴァイオリンの虜のはずだ。違うか?」
  狭い練習室がひどく暑い。空調がきいてないのだろうか。
 「でも、これは……ミスター・ゴールウェイが百万ドルで、あんたから買ったんだろう」
 「そんなのは金持ちの道楽だ。別にこのストラディヴァリである必然性は、あの男には
 ありゃしない。おまえはどうなんだ? おまえの本選は、このアスタロトにかかってい
 るんじゃないのか? おまえの演奏家としての将来は、このアスタロトが握っているん
 だ!! おまえはもう悪魔と契約したんだよ」
  暑い。どうしてこんなに暑いのだろう。
  喉がひりついて声が出ない。
 「おまえがアスタロトをゴールウェイに返すつもりなら、その前に、ここから落として
 壊してやる。どうせ、もともと飛行機事故でなくなっているはずの物なんだから」
  ヒギンズは乱暴にケースからアスタロトを取り出すと、窓からそれを突き出した。
  手を離せば、6階から落ちたヴァイオリンは簡単に壊れてしまうだろう。
  ストラディヴァリを壊す?
  信じられない。この世に限りある名器を壊す? バカなことを。

  窓際でもみあっているうちに、ストラディヴァリはクライブの腕に残り、ヒギンズは
 落ちて行った。

  クライブは震えながら、開け放されたケースもそのままに、ストラディバリを抱きか
 かえて自分が取っていた5階の練習室へ戻った。彼等のやりとりを、練習室ののぞき窓
 から好奇心の強いイチノミヤが見ていたことには気付かなかった。

  翌日、練習室に彼女が遊びに来た時はヒヤリとしたが、幸いアスタロトは出していな
 かった。イチノミヤとバッハを合奏していたら、そんなことも忘れてしまった。彼女は
 楽しそうだった。
  彼女は、いったい今がどんな時だと思っているのだろう。
  コンクールの最中なのに、コンクールとは関係のない曲の演奏に夢中になれるイチノ
 ミヤ。それは自分にはない才能だ。
  でも、自分だって。
  誰もいなくなってから、アスタロトを構えた。パガニーニをアスタロトで弾くと夢中
 になれる。自分のイメージしていた音が奏でられる。
  実力に見合った楽器が欲しいと、もう何年も思っていたけれど、そんなお金はどこに
 もなかった。音楽学校に行くのを反対していた父親。
  いい楽器が欲しい。それはクライブの宿望だったのだ。
  欲しい。欲しい。欲しい。
  偶然この手に迷い込んできたストラディヴァリを、どうして手放したいものか。そう、
 このコンクールの間だけでいい。どうして借りてはいけないだろう。
  クライブは結局『アスタロト』に魅入られるようにして、そのまま本選に臨もうとし
 た。リハーサルの出来は、自分でも驚くほどだった。まるで夢の中で演奏しているよう
 だ。
  リハーサルが終わった時、指揮者は「その調子で」という賞賛を隠さない目をしてい
 た。いける、という手応えがあった。
  そんな彼を現実に引き戻したのは、イチノミヤだった。
  リハーサルを終えて引っ込んだ楽屋で、イチノミヤがヒギンズの死に関わっていたら
 しいという噂を聞いた時、クライブは頭の中で、彼女のバッハを聴いた気がした。きの
 う、ほんの1時間ほど合奏したバッハ。
  彼女は、呼吸するのと同じにヴァイオリンを弾く。
  バッハの音楽には祈りが息づいている。

  なぜ、彼女がヒギンズを突き落としたなんて言うのだろう。ヒギンズを突き落とした
 のは自分なのに。
  彼女はたぶん知っている。知っていてクライブをかばっているのだ。
  これ以上、嘘はつけない。
  クライブは、アスタロトを持って、審査員控室への階段を昇っていった。
  クライブを罪にいざなったのは音楽で、彼に罪を貫き通させなかったのも音楽だった。




 「観客は、いっぱい入っている。この二千六百人入る大ホールが満席だ。君の演奏を聴
 きにきてくれたんだよ」
  舞台の袖で、バイオリンを抱いて震えているイチノミヤの肩に、JJは手を置いて励
 ました。
  オーケストラのオーボエがAの音を出す。チューニングのざわめきが終わると、指揮
 者に続いて、彼女は舞台へ出ていくのだ。
 「こんなに大きいところで演奏するのは初めてよ。何だかヘンなの」
  彼女はどこか熱っぽい目をしていた。弓といっしょに持っていたハンカチを落とした
 のに、気付いていない。JJが、レースのふちどりのついたそのハンカチを拾って差し
 出すと、彼女は首を横にふった。
 「持っててくれる? 舞台で落とすと困るから」
  JJはにっこりとうなづいた。
 「さあ、行っておいで」
  ポンと軽く肩を叩いて押し出した。
  華やかなステージに、先ほどまで震えていたとは思えないしっかりした足取りで、少
 女は進み出た。華やかなバラのつぼみのような深紅のワンピースが、オーケストラ・メ
 ンバーの黒の燕尾服の中に映える。

  ゴールウェイ国際音楽コンクールの本選最終日。
  アン・イチノミヤの演奏が始まった。
  ソロのはじめはフォルテシモの10度重音。一弓スタッカート。二重フラジオレット。
  超難曲で恐れられているヴァニヤフスキのヴァイオリン協奏曲第1番だ。
  彼女は目まぐるしく現れる難しい技巧で組み上げられた難所を、次々とクリアしてゆ
 く。確実な技術の上に浮かび上がる、美しいメロディ。
  少女の演奏が聴いている者の胸の鼓動を早くする。彼女と一緒に超絶技巧で嬰ヘ短調
 の音階を駆け上がる。聴衆は彼女のヴァイオリンに、めくるめく陶酔感を覚えていた。
  鮮やかに駆け抜けた終楽章のロンド。
  聴衆は賛辞を惜しまなかった。

  休憩の後、イタリアのジョルジオ・ローニが演奏が始まる。
  このコンクールの最後の演奏者だ。
  曲は、ある意味で、この前に演奏したイチノミヤの正反対に位置するものだろう。
  メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64だ。
  この曲はとりわけ難曲には属さない。流れるようなメロディーはあまりにも有名で、
 うっかりすると簡単な曲に聴こえる。だが、演奏者にとって、美しいメロディの流れは
 歌い方、ビブラートや弓の使い方ひとつで、演奏の成熟度がもろに現れてしまう怖い曲
 なのだ。
  彼は実に落ち着いていた。オーケストラと一緒に呼吸しているのがわかる。みごとな
 アンサンブル。協奏曲とはこういうものなのだ、と誰もが思った。ヴァイオリンとオー
 ケストラの編み出す音楽は、客席から一斉にため息がもれるほど甘く美しかった。
  ローニの演奏も満場の拍手を浴びた。


 「本当に二人ともいい演奏でしたね」
  JJは審査の結果が出るのを待ちながら、がらんとしたリハーサル室でビッグ・ゴー
 ルウェイと向かい合って話しをしていた。
 「ああ。何だか審査結果を聞きたくない気分だ」
 「わかります」
 「クライブくんは、残念だったが……」
  JJは適切な言葉を返せなかった。肯定も否定もしたくはない。
  ヴァイオリンに魔力があるのか。音楽に魔力があるのか。それとも人が罪深いのか。
  答えは、わからない。
  夢を見ることも、パワーをもらうことも、罪を犯すことも、それを許すことも。
  可能性はいくらでもあり、それを選び取るのは、やはり人なのだ。
 「コンクールで優勝した者に、無条件で『アスタロト』を貸そうと思うんだ。いい楽器
 はいい演奏家に弾いてもらってこそだしね」
  ビッグ・ゴールウェイは年がいもなく、はにかんだ様子で、そう言った。
 「そいつは……ステキですね。最高ですよ。さすがビッグ・ゴールウェイ!」
  JJは手を打って喜んだ。
  ビッグ・ゴールウェイは少し照れながら笑った。
  JJの拍手がホールと同じ残響1・7秒のリハーサル室に響き渡った。




  第一回ゴールウェイ国際音楽コンクールの第1位はイタリアのジョルジオ・ローニ。
  2位はアメリカのアン・イチノミヤ。
  3位はソビエトのセルゲイ・ペドロフという結果に終わった。
  新たに副賞に加わった四年間の『アスタロト』の使用権を1位のローニは辞退した。
 「僕には、このアマティが一番相性がいいみたいなんですよ。ストラディヴァリに魅力
 は感じるけど、四年間だけの恋人じゃあ、別れがつらいしね」
 『アスタロト』の使用権は2位のイチノミヤに譲られた。




  コンクールの最後を飾る、入賞者によるコンサートが、ゴールウェイ・ホールで開催
 された。
  ゴールウェイ・ホールは、コンクール中のはりつめた緊張感から解放された明るい雰
 囲気に包まれていた。このコンサートは、入賞者の将来の成功を願う祝いの宴なのだ
  JJは今日の取材が終われば、しばらくはクラシック音楽ともおさらばできると思う
 と、ホッとするような、寂しいような、不思議な気持ちがした。
  ホールは満席だ。
  すっかり人気者になった第2位入賞イチノミヤの、ラヴェルの『ツィガーヌ』の演奏
 が終わると、嵐のような拍手が起こった。
  アンコールに答えるイチノミヤを、クライブがホールの一番後ろから見つめていた。
 真横には刑事がいた。
  聴衆はイチノミヤのアンコールを待っていた。
  彼女は目を閉じてピアニシモで懐かしいメロディーを奏で始めた。
  フォスターの『故郷の人々』だった。
  フォスターの作った曲は、アメリカのごく普通の人々に愛され、歌われてきた。それ
 は芸術としては認められなかったけれど、オーケストラなど聴いたこともないアメリカ
 の片田舎の庶民にだって愛された歌なのだ。
  アスタロトの音色は泣きたくなるくらいやさしくて、夕闇に灯る家の明りを思わせる。
 二千人の聴衆が呼吸も忘れて、ただヴァイオリンの音色だけを追っていた。
  懐かしいアメリカの面影。
  遙かなるスワニー川。

  イチノミヤがアスタロトから弓を離した時、拍手はなかった。
  誰もがピアニシシモの残響を惜しむように、まばたきひとつしなかった。
  ゆっくりと心臓がみっつ鼓動を打つくらいの間があってから、途端に会場は割れるよ
 うな拍手に包まれた。会場中が拍手の轟音に飲み込まれるような錯覚があった。
  クライブは拍手ができなかった。
  穏やかな目で、隣りの刑事を促す。刑事はうなずいた。
  JJは何も言えなかったし、言うつもりもなかった。
  クライブは刑事とともに、舞台に背を向け、厚い扉を音をたてないようにゆっくり開
 けると、静かにホールを出て行った。
  JJは泣きたかったが、クライブが泣けずにいたのに、泣くわけにもいかない気がし
 て、唇をかみしめて耐えた。隣りでカメラを回しているニックに泣き顔を見られるのも
 イヤだった。
  拍手は鳴り止まず、イチノミヤは舞台から去ることを許されなかった。
  彼女は再び、アンコールに答えた。
  バッハの『アリア』だった。祈りはクライブに届くだろう。
  今度こそ、JJは泣いてしまった。
  これはクライブの代わりに泣いてやるのだ。だから泣いてもいいのだ。
 『アスタロト』は悪魔のヴァイオリンではなかった。それがこんなに嬉しい。
  アン・イチノミヤは『アスタロト』を悪魔の呪いから解き放つ最初のヴァイオリニス
 トになるのだ。JJは、きっとそのことをニュースにする。アメリカ中の人が、それを
 知るだろう。

  涙は、止まらなかった。





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