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The Finalist ─ファイナリスト─




 「警察の調べで、とんでもないことがわかったよ」
  翌日、本選二日目の朝一番に、マホガニーの机や革張りのソファがあるゴールウェイ・
 ホールの来賓室(ホールにこんな部屋まであることをJJは初めて知った)に通された
 JJは、ゴールウェイから新たな手掛かりをもらった。
 「ヒギンズはうちのホールのマスター・キーの合鍵を持っていた」
 「何ですって!!」
 「ホールの練習室やリハーサル室にあるピアノの調律を、ヒギンズに紹介してもらった
 調律師に頼んでいたんだ。これはけっこう大仕事でね。練習室のアップライト・ピアノ
 の調律をする時に、いちいち部屋の鍵を貸すと手間が大変だから、調律に来た時はマス
 ター・キーの予備を貸し出すんだ。調律師は練習室に片っぱしから鍵を開けて入って、
 ピアノを調律していく。数が多いから三日はかかる。帰りに警備室に鍵を返して終了と
 いうわけだ。月に一回は定期的に調律している」
 「じゃあ、その定期調律の時に合鍵を作ったわけですね。マスター・キーって、どこで
 も開けられるんですか?」
 「いや、練習室とリハーサル室だけだ。ピアノと譜面台と椅子しかない部屋で、普通な
 ら盗もうと思える物は、置いてない部屋だ。練習部屋として貸し出すことに価値がある
 ところだからね。私もうかつだったよ。なぜあの時ストラディヴァリを置いて席をはず
 したんだろう。一生後悔しそうだ」

  ヒギンズが練習室に自由に出入りできる鍵を持っていた。
  では、やはりどう考えても最初に『アスタロト』を盗んだのはヒギンズだ。警備員が
 盗んだのではない限り、ゴールウェイが席を外した十分間にヴァイオリンを持ち去るこ
 とができるのは、ヒギンズしかいないだろう。
  だが、いまだに『アスタロト』は行方知れずだ。ヒギンズ商会のショールームも捜索
 されたらしいが、見つかっていないという話だ。
 「すでに楽器は外国に出されているのかとも思うのだが……」
  そうしたら、もう見付からない可能性の方が高いだろう。もともと正規のルートに乗
 せられないストラディヴァリなのだ。
 「調査の結果は、アスタロトが盗まれてから、ヒギンズ商会が外へ出したヴァイオリン
 は表向き、ないことにはなっている」
  でも書類だけでは真実はわからない。
  誰がヒギンズを殺したのだ。
  そして何よりも、なぜ、ヒギンズは殺されたのだ。

 「ゴールウェイ・カンパニーのライバル企業が、コンクールを失敗させるために画策し
 たということはないですか?」
  JJの問いにゴールウェイは軽く笑って答えた。
 「イメージ・ダウンをねらってかい? 我が社にダメージを与えるためなら、効率が悪
 すぎる。私個人に恨みがあるなら、効果的だけどね」
  あとはもう警察にまかせるしかないのだろうか。

 「そんなことより、ゴールウェイを殺した犯人が、コンクール参加者だった時の方が、
 恐ろしいよ。そんなことになったら、コンクールはメチャクチャだ」
  その可能性を消すことはできないだろう。ヒギンズが落ちた時、練習室にいたであろ
 う参加者は、当日が本番だったアメリカのトーマスとソビエトのペドロフを除く6人。
  イギリスのウィリアムス、フランスのルミエール、ソビエトのブーキン、アメリカの
 クライブ、同じくアメリカのイチノミヤ、イタリアのローニ。
  彼らは、事件の時、一番、現場に近いところにいたことになるのだ。
 「最初にあのヴァイオリンの虜になった時、私ごときが手を出したのがいけなかったの
 かな。コンクールだ。コンクールさえ成功してくれたら……」
  JJはバロンの言葉を思い出した。

  ──アスタロトは人が持つには過ぎた楽器なのだよ。



  事件の捜査が足踏みしていてもコンクールは進められる。
  本選二日目は演奏者二人の選曲が同じメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、とい
 う緊張感に満ちた戦いになった。
  間を置かず同じ曲を演奏すれば、何から何まで徹底して比べられてしまう。こうなる
 と、先に演奏するイギリスのウィリアムスの方が少し有利かもしれなかった。
  だが、より鮮やかな演奏をすれば、間違いなく後のフランスのルミエールに点数が入
 るだろう。どうしても先に演奏する方が採点の『基準』になってしまうからだ。
  せめて違う日であったらと、さぞ二人とも思ったことだろうが、くじびきで決まった
 ことであるから仕方がない。本命の噂も高いイタリアのローニもメンデルスゾーンだっ
 たから、そちらと一緒になる可能性もあった。こればかりは運である。
  そしてコンクールとは、実力はもちろん、運も味方につけないと、勝つことができな
 い世界なのであった。

  殺人事件のニュースの取材と、コンクールのドキュメンタリーの取材は、別の仕事だ。
 コンクールの撮影をやめるわけにはいかない。
  殺人事件は警察にまかせて、JJはコンクールの撮影に集中するべきなのだが、この
 事件がコンクールそのものをおびやかしているので、気が気ではない。
  しかし、ひとまず消えたヴァイオリンと殺人事件のことは頭から追い出して、コンク
 ールの最終審査の取材に全力を傾けようとした。

  JJは本選のリハーサルの合間に、コンクールの最終予選に残ったファイナリストた
 ちにインタビューしたいと考えていた。来賓室を出た後、コンクール事務局で、きょう
 の練習室の使用状況を見せてもらった。
  事務室の壁に張ってあるボードに、新聞のテレビ版のような、部屋のナンバーごとに
 時間のメモリのついた表があり、部屋を使用する者の名前が書きこんである。このボー
 ドを見れば、きょうはどの練習室が空いているのか、誰がどの練習室に何時から何時ま
 でいるのか、一目瞭然であった。
  練習室を使用したい者は、事務局で練習室の予約と登録を済ませて、このボードに名
 前を書き、部屋の鍵と必要ならピアノの鍵を借りる。練習が終わったら戸締まりをして
 鍵を返すようになっている。まるでホテルのフロントのようだ。
  きょうは、事件のあった練習室のある6階の部屋はすべて使用禁止になっていて、5
 階の練習室だけを貸し出していた。
  昨日演奏が終わったトーマスとペドロフは、練習室には入っていない。ブーキン、ク
 ライブ、イチノミヤ、ローニはそれぞれ練習室を使用しているようだ。
  まずその四人から、インタビューを始めることにして、JJはスタッフと一緒に練習
 室へと向った。

  まず、ソビエトのミハイル・ブーキンを訪ねると、そこにはすでにきのう演奏を終え
 たセルゲイ・ペドロフもいた。チャンスとばかりに両名に話を聞いた。
 「ええ、このコンクールに出場するには国内でオーディションを受けてきています」
  当たり前のようにブーキンは言った。
 「お二人とも、すばらしい楽器を使われていますね。ストラディヴァリと伺いましたが」
 「ええ。コンクールのために学校を通して借りているものです」
 「コンクールのために、ですか?」
 「そう、コンクールで良い成績が残すのに、自分の表現力を最大限引き出せる楽器が使
 えるというのは、有り難いことです。音楽というのは限りがないものだとは思うのです
 が、やはりある程度の結果は出したいというのが本音です」
  二人についている中年のメガネの伴奏者は教師であろうか。妙な質問はさせないとで
 もいうような厳しい目つきで、JJのインタビューに立ち会っていた。

  ロイ・クライブを訪ねてみると、今度は、さらなる驚きがJJを待っていた。
  クライブの練習室にアン・イチノミヤが遊びに来ていて、バッハの『2つのヴァイオ
 リンのための協奏曲』を合奏していたからだ。
  美しい曲だった。ヴァイオリンというのはソロもいいけれど、合奏すると、また別の
 魅力があるようだ。ハーモニーが絶妙だった。
  コンクールで初めてイチノミヤを見てから、もう何度も思ったことだけど、普段は年
 より幼く見える少女なのに、バイオリンを演奏している時のイチノミヤの表情は、ひど
 く大人びて見える。こうして並んで合奏していても、クライブと対等の演奏家に見える
 のだ。いや、対等というよりも、むしろ彼女の方がリードしているかもしれない。
 「あ! JJさん。またテレビに撮るんですか? 私、お願いがあるんですけれど言っ
 てもかまいませんか?」
  美少女は部屋に入ってきたJJに気がつくと、突然、演奏の手を止めて、年相応の無
 邪気な笑顔を見せて話しかけてきた。
 「えーっとね、JJさんにサインしてほしいって、この前は言えなくって」
 「僕のサイン?」
 「だって私、いっつも『JJ・ニュース・ショウ』見てるんですよ。自分もあの番組に
 出られたなんて、もううれしくって!!」
  彼女はすっかりはしゃいでいて、隣に座っていたいたクライブは宙に浮いた弓もその
 ままに苦笑していた。それは本番前に練習しているコンクール参加者というよりは、仲
 良くバイオリンのおけいこをしていた兄と妹、といった感じだった。
  せがまれるまま彼女の差し出した五線紙にサインしてから、クライブに話を聞いた。
 「彼女の先生に、昔、僕も教わったことがあるんですよ。その縁で、ご挨拶がてらアン
 サンブルしましょうって、このコンクールが始まってから、時々合奏したりしていたん
 です」
  それはまた本番前に余裕があるなとJJは思ったが、今更、あたふたと練習しても始
 まらないのかもしれない。それは、むしろ大物の証拠だろうか。
 「だって、朝から晩まで同じ曲ばっかりじゃあきちゃうし。きょうなんか、クライブさ
 ん、こーんなしかめっつらして、朝からずっと練習室から出てこないんですもん。だっ
 たら合奏して気分転換した方がいいと思いません?」
  彼女は、演奏中、自分のあごとヴァイオリンのあごあての間にはさんでいた、白いハ
 ンカチをひろげたりたたんだりしながら、明るいソプラノでさえずった。
 「なんだ、ミス・イチノミヤはレディーのくせに、のぞきなんかしたの? ドアについ
 てる窓からのぞくには、君の身長だと天井しか見えないんじゃないかい?」
  いたずらっぽくJJが返すと、イチノミヤはイーッと舌を出してみせた。
 「そんなにオチビじゃないわ」
 「ごめん、ごめん、つい、かわいくて」
  JJは笑ってしまった。彼女もクスクス笑っていた。
  クライブがため息をついた。
 「僕はあした本番だし、君もあさって本番なんだから、合奏はもうおしまいにしよう」
 「そうね。そろそろ戻らないとママがうるさいし。どうもありがとう。クライブさん。
 また合奏しましょうね」
 「先生によろしく」
  彼女はヴァイオリンをケースにおさめて手に持つと、きちんと挨拶をして、素直に部
 屋を出ていった。

 「本当に、まだ子供なんですね。彼女は」
  JJが言うと、クライブも同意した。
 「そうですね。物怖じしないというか、怖い物知らずというか。でもヴァイオリンの演
 奏は子供の演奏じゃないですよ。神に選ばれた才能を持っているんです。でなけりゃ、
 テクニックはもちろん、あの年齢で、あんなに透明感のあるバッハが演奏できるわけが
 ない」
  クライブの言葉に、それは事実だろうと、JJはうなづいた。予選の時からわかって
 いたことだった。彼女は『特別』なのだ。
 「あの子はコンクールで1位が欲しいとか全然考えてないんでしょう、きっと。本当に
 怖い子だ」
  そう言った時のクライブの目が、妙に印象的だった。イチノミヤを見ていると、自分
 に足りない何かを持っている者に対する羨望を、かきたてられるのかもしれない。
 「でも、いい演奏をしたいって、その気持ちなら僕は誰にも負けない」
  感情を押さえた低い声で、クライブはそう言ったのだった。

  イタリアのジョルジオ・ローニは、心の底から音楽を楽しんでいる明るい青年という
 風情のある男だ。練習室にあるアップライト・ピアノの椅子に腰掛けたまま、JJの質
 問に、テンポよく、まるで歌うように答える。
 「このコンクール、すごく調子が良くて。自分でも信じられないくらいですよ。リハー
 サルでも、ほら音楽用語ってイタリア語でしょう? フォルテとかクレッシェンドとか。
 だからアンサンブルする時に言葉なんか通じなくったって全然平気。もともと音楽って
 世界共通語だと、僕は思っているから」
  底抜けに明るくてめまいがする。通訳を通しても、その勢いはさえぎられない。
 「ニューヨークに来ることができてよかったです。ほんと、別世界に来たって気がしま
 したよ。あのすごいビルの林を見た時は。人生観変りますね。僕の音楽観もちょっと変
 るかもしれないって思いましたよ。ローマと違い過ぎる。でもクラシック音楽が伝える
 感動って不変のものですからね。逆にホールにいると安心します」
  プレッシャーがなさそうだ。ある意味でイチノミヤと同じくらい怖い物知らずのよう
 に感じられる。
 「それにしてもローニさんは美声の持ち主ですね。オペラのスカラ座からスカウトが来
 そうだ」
 「声楽やれと勧められたこともあったんですよ。でもヴァイオリンの方が好きでね。こ
 んな魅力的な楽器ないでしょ。でもね、本当のこと言うと、音楽やってるヤツって、み
 んな自分の楽器が1番だって思ってるんだけど」
  そう言って笑った。迷いのない笑顔だった。

  コンクール参加者たちを取材して思うのは、誰もがみな音楽に対してひどく真摯であ
 るということだ。JJは、それぞれがそれぞれの場所で成功してほしいと、願わずには
 いられない。


  やはり同じ曲であることが不利に働いたのか、その晩のイギリスのウィリアムスとフ
 ランスのルミエールの演奏は、どちらもそこそこ、といった感じの演奏だった。
  ウィリアムスの演奏は、音は美しく鳴っているのだが、どこか上滑りしているような
 印象を与えたし、ルミエールはオーケストラとの合奏になれないのか、バランスを乱し、
 ヒヤッとする箇所も何度か見られた。
  ブラボーの声は上がらなかった。


  終演後、JJは、ホールのロビーから出口に向かう人の波の中にバロンを見つけて、
 思わず追いかけていた。バロンは自分で『アスタロト』に関わりがあることをほのめか
 していた。
  彼は、今度の事件に何等かの形で関与しているのではないかという疑いが、JJの頭
 をよぎった。
  今、ここで彼をつかまえないと、話を聞くチャンスは、もうないかもしれない。
  ホールを出て、街の明りと車のヘッドライトが交錯する夜の道端で、ようやく彼に追
 いついた。
 「待ってくれ。あなたに話がある」
  彼は意外そうな顔で、まじまじとJJを見つめていた。
 「君から私に話しかけるなんて、珍しいこともあるものだね」
  JJはいきなり本題に入った。
 「あなたは、何で『アスタロト』のことを知っているんです? どうして、またそれを
 僕に教えたりしたんです?」
 「一度にふたつのことを聞くものじゃないよ」
 「〜〜〜〜〜〜!!」
 (これだからコイツは嫌いなんだ)
  JJは自分がとてつもなく愚かな真似をしているような気がしてきた。だが、その後、
 意外にもすんなりとバロンが話しを始めたので、JJは黙って彼の話を聞いた。
 「ゴールウェイ・コンクールで『アスタロト』と再会したのは偶然だ。大体、私はコン
 クールを見にくるつもりはなかった。ビジネスの用事で立ち寄ったニューヨークで、た
 またま開催されていたヴァイオリンのコンクールに心を動かされたから寄っただけだ。
 そう、すべからく芸術を愛する私としては興味ある企画だ。企業が企画するコンクール
 というのはね。私のヴァイオリンの晴れ舞台でもあったし……」
 「それはアスタロトのこと? あなたはやっぱり事件に関わってるんじゃないのか」
 「いや、アスタロトはもう私の物じゃないさ。グァルネリだ」
 「グァルネリ? あなたが今持っているとかいう?」
  グァルネリといえば、ストラディヴァリに並ぶヴァイオリンの名器である。
 「ああ、このコンクールのために貸し出していたんだよ。きょう演奏したウィリアムス
 に。彼も貴族の出で、いい楽器を探していたからね。で、第二次審査の時、ウィリアム
 スの楽屋を訪ねたら、ゴールウェイのストラディヴァリの噂を聞いたというわけさ。帰
 りがけにゴールウェイがヴァイオリンを弾いている練習室をのぞきもした。ちょうど、
 ミスター・ゴールウェイのところに出入りしていた楽器商に見とがめられて、練習室前
 で言葉をかわしたよ。私がヴァイオリンのコレクターだと知って、商売っ気を出してい
 たな。彼、亡くなったそうだね」
 「そ、それで?」
 「私はビッグ・ゴールウェイのストラディヴァリが気になっただけだよ。あの楽器商、
 自分が扱ったストラディヴァリだと自慢していたから、話を聞くのは簡単だった。ゴー
 ルウェイのストラディヴァリの制作年を確かめて『アスタロト』ではないかと思ったよ。
 扉越しにチラッと聞いた音色も似ているようだったし。昔の形見だ。懐かしかったね。
 でも、ただ、それだけだ」
 「それだけ? あなたがそれだけですますなんて、信じられませんね。昔、あなたが僕
 の取材を出し抜いて、アトランタの清涼飲料水メーカーを手に入れた時、ずいぶん陰険
 なやり方で買収したのを、僕が気付いていなかったとでも?」
  JJは、新人の頃つかみ損ねたスクープを思い出していた。あの時は間に合わなかっ
 た。証拠がなかった。くやしくて。くやしくて。
  今度は、そうはいかない。バロンが何もしていないわけがないのだ。
 「君は本当に勘がいいな。ジャーナリストは、かくあるべきだね」
  バロンは皮肉っぽい賛辞を口にした。
 「そのジャーナリスト魂に免じて、本当のことを話せばね、アスタロトを取り戻したか
 ったのは事実さ。だからちょっと仕掛けてみた」
 「何をです」
 「あの楽器商に、本物のアスタロトなら、私にとって家宝と言ってもいいものだから、
 ぜひ買い戻したいと言った。金なら二百万ドル出そうとね」
 「ヒギンズに、そんなことを言ったんですか。だったら、あなたは無くなったアスタロ
 トと、ヒギンズの死に、無関係とは言えないじゃないですか」
 「おっと! 間違えちゃいけない。私は、ただ、ミスター・ゴールウェイがアスタロト
 を手放すなら私が倍の値段で買おうと言っただけだ。それは別に罪でもなんでもないさ。
 ヒギンズが何をしようとしていたかなんて、私には関係ない。顧客の求める商品を手配
 するのが、楽器商の仕事だろう。私は、そもそもヴァイオリンを買いにアメリカへ来た
 わけじゃなかった。ヒギンズが死んで、アスタロトも行方不明なら、もうあきらめるさ。
 アスタロトはやはり呪われているのかもしれないな。ウィリアムスの本選の演奏も聴い
 たし、明日にはロサンゼルスに向かう」
  道端で話すJJとバロンの前に、黒のロールスロイスが止まった。
 「迎えが来たので、失礼するよ」
  車に乗り込もうとするバロンをJJは引き止めた。
 「まだ質問が残ってますよ。なぜ、僕に『アスタロト』のことをほのめかしたりしたん
 です?」
 「さあ、なぜだろう……。君がニュースで、ヴァイオリンの情報を欲しがっていたのを
 見たからかな」
 「ウソでしょう」
 「そうだね。君にアスタロトの話をすれば、ミスター・ゴールウェイに、必ず伝わると
 思ったからだな」
  バロンはニヤリと笑った。
  つまりゴールウェイが無くなったストラディヴァリを見限るように、呪われたヴァイ
 オリンの情報を流したわけだ。ヒギンズが動きやすくなるように。何てことだろう。
  でも、バロンは直接的には何もしていないのだ。
  結局、彼はアスタロトを手にすることはなかった。

  持っていき場のない怒りが、JJの中にフツフツとたまっていった。表だってバロン
 をなじったところで、意味はない。ただにらみつけるくらいが関の山だった。バロンは
 そんなJJの視線を平然と受け止めて言った。
 「私はアメリカが好きじゃない。『アスタロト』は、もともとヨーロッパの遺産だ。ア
 メリカでいいようにされるのを見るのは、あまり嬉しくない。大戦後、みるみる値段が
 上がったストラディヴァリは、ずいぶんアメリカの金持ちに買われたな……」
  バロンの声はいつもより一段と低くなっていた。
  道をふさぐ大きなロールスロイスに後方の車がクラクションを鳴らす。車のヘッドラ
 イトがまぶしい。ライトの照り返しにバロンは目をしばたいた。
 「ゴールウェイ・カンパニーが、ロサンゼルスに進出しないことを祈るよ。成り上がり
 は成り上がりらしく、いつまでも自分のホールで、ヴァイオリニストごっこでもしてい
 ればいいさ。私はロサンゼルスに行く。では失礼」
  苦虫をかみつぶしたような表情のJJを華やかな夜景の中に取り残して、バロンを乗
 せたロールスロイスは走り去っていった。
  バロンはビッグ・ゴールウェイに失敗してほしいのだ。せいぜい『アスタロト』に振
 り回されていてほしい、というところか。
 「コンクールは成功するさッ。アメリカのパイオニア根性をなめるなよ!!」
  JJは、見えなくなるロールスロイスに向かって叫んだ。バロンに聞こえないことな
 どわかっていたが、叫ばずにはいられなかったのだ。

  結局、問題のストラディヴァリの行方は、闇に包まれたままだった。






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