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Astaroth ─アスタロト─




 「グッド・イーブニング! JJです!! ゴールウェイ国際音楽コンクールの会場で、
 大変な事件が起こりました。コンクールを企画したゴールウェイ・カンパニーを経営す
 るミスター・ゴールウェイ所有の時価百万ドルのヴァイオリンの名器『ストラディヴァ
 リ』が何者かによって盗まれました。現場に手がかりや目撃者はなく、ヴァイオリンの
 所在は、まったくわかりません。盗まれたストラディヴァリは1718年に製作された、
 極めて状態の良いヴァイオリンです……」
  JJはその日のニュースで、ヴァイオリン盗難事件を報道したが、結果がすぐに出る
 ことはなかった。

  ニュースが放映された次の日に、JJがゴールウェイ・ホールに出向くと、ひとりコ
 ンクール事務局で電話番をしていた女性スタッフに、声をかけられた。
 「おはようございます。ミスターJJ。夕べのニュース、見ましたわ。どうでしょう?
 少しは犯人の手掛かりは、つかめそうなのでしょうか」
 「残念ながら、今のところ、まったくわからないんです。警察も手掛かりをつかんでる
 のか、どうか……」
 「コンクール開催中の参加者の安全については保険もかけてありますし、一定の損害な
 らば保証もできる用意をしていたのですが、高額な楽器のことまでは、あくまでも参加
 者の責任において管理するように取り計らっていたんです。こんなことになって、事務
 局でも対応をしっかりしておく必要がありますわね。バーンスタイン氏も頭をかかえて
 おられて」
 「それはそうですよね。まあ、幸いと言ってはなんですが、コンクール参加者のヴァイ
 オリンが盗まれたわけじゃなくて、良かったかもしれませんよね」
  JJは自分が口にしたヘタクソないやみのような気安めに、自分で呆れてしまった。
  どこかで大金持ちのビッグ・ゴールウェイをひがむ自分が隠れていたような気がする。
  自分はビッグ・ゴールウェイに憧れている。それは間違いないのに。
  あれほど音楽を夢みて、そのために働きかけを惜しまない、器の大きな男はめったに
 いないのに。

  ちょうどその時、扉がノックされて、ヒョロッと背の高い楽器商のヒギンズが現れた。
 「ああ、おはようございます。ヒギンズ商会さん」
 「おはようございます。注文のあったガット弦、お持ちしましたよ。念の為、スチール
 弦も」
 「それは、どうも」
  女性スタッフは納品書と、弦が入っているのだろう細長い筒をヒギンズから受け取っ
 た。
 「事務局がヴァイオリンの弦を仕入れるんですか?」
  思わず質問してしまったJJに、女性スタッフはあっさりと教えてくれた。
 「ええ、コンクール参加者で予備が切れてしまった方にお分けしよう、というミスター・
 ゴールウェイの心配りですわね。でも、もう本選に残った八人だけになりましたし、弦
 の予備が足りなくなるような準備不足の方はいないでしょうけれど」
 「本当に、今回のミスター・ゴールウェイのコンクールへの配慮には、私も頭が下がり
 ます」
  ヒギンズが言った。
 「ミスター・ゴールウェイは、ヴァイオリニストになるのが夢だったようですからね。
 あの、なくなったストラディヴァリは……、心配ですね」
  JJが言うと、ヒギンズも神妙な表情をみせた。
 「このコンクールで、私がお役に立てるできるだけのことをしたいですな。もともと、
 こちらのゴールウェイ・ホールには備品も多く入れさせていただいておりますから。
 もちろん、まったく商売抜きで……というわけにもいきませんが」
  最後のところを遠慮がちにつぶやくヒギンズに、JJは安心させるように言った。
 「そりゃあ、ヒギンズ商会さんが、タダ働きというわけにはいかないでしょう。それが
 お仕事なんですから気にすることはないじゃありませんか」
 「そうおっしゃっていただけると、私どももありがたい」
  そう言うと、ヒギンズはわずかに顔をほころばせた。


  あくる日、JJは自宅から仕事場であるテレビ局へ向かう途中で、予期せぬ男に遭遇
 した。
  誰も信号なんぞ律義に守らないニューヨークの横断歩道、ちょうど車の流れが切れた
 ところを突っ切ろうとしたら、けっこうなスピードで飛び込んできた黒いロールスロイ
 スが、目の前で急停車した。驚いて立ち止まると(交通事故にならなかったのは、ひと
 えにJJの反射神経のおかげである)、車の中から、この世で一番いけ好かない男が、
 顔を出した。
 「やあ、ミスター・ジェンセン、ごきげんいかがかな」
  得体の知れない欧州の男、バロンである。
  JJの機嫌は、もはやどん底だ。
 「何の用です?」
 「知人に会ったら、まずは挨拶くらいするものだ。礼儀知らずと言われたくなければね」
 「あなたと親交を深めるつもりは、僕にはありません」
 「アメリカ人は、はっきり物を言う」
 「用事がないなら、失礼します」
  一刻も早くその場を離れたいJJを、バロンは意味不明の言葉で引き止めた。
 「アスタロトを探しているそうだね」
 「何ですって?」
 「君たちが探している1718年製のストラディヴァリのことだよ。あれは『アスタロ
 ト』だろう。私があれを持っていたことがあると言ったら驚くかい? いや、正確には
 祖父が持っていたということになるのかな」
 「ミスター・ゴールウェイのヴァイオリンのことを、何か知っているんですか?」
 「あれは、いいヴァイオリンだ。いわくつきだけれどね。アスタロトには、いい思い出
 も、悪い思い出もある」
 「アスタロトってのはストラディヴァリの別名ですか? もしかしてヴァイオリンの行
 方を知っているんじゃないでしょうね。そう言えば、ビッグ・ゴールウェイは経営の天
 才だ。あなたが目をつけていた企業をビッグ・ゴールウェイに奪われたりしたんじゃな
 いですか? まさかミスター・ゴールウェイを陥れるために、あなたがヴァイオリンを
 盗んだとか?」
  性急なJJの質問に、バロンはいきなり笑い出した。
 「とんでもない。私はアメリカを憎んでいるけれど、復讐は正当なやり方でするよ。大
 体ヴァイオリンなんて、もともとヨーロッパの遺産じゃないかね。金に飽かせて歴史を
 手に入れようとする者に哀れみを感じこそすれ、盗んで取り戻すなどという、バカげた
 真似をするものか」
  確かに、この男はこういうヤツだった。自らプライドを投げ捨てるような真似をする
 わけがない。完全犯罪の確証があれば、わからないけれど。
 「もう、あのヴァイオリンに未練はないんですね?」
 「ストラディヴァリもいいが、私は今、グァルネリを持っているしね。おお、もちろん
 デル・ジェスだよ。あとガダニーニのなかなかいいものをね……」
  こいつ、ヴァイオリン・マニアだったのか。
  バロンは、事あるごとにアメリカの成金が嫌いだと言うくせに、自分の方がよっぽど
 成金っぽい。わからないことばかり言いやがって。グァルネリがどうした。ガダニーニ
 で腹がふくれるか。
  JJのバロンに対する嫌悪感がふくれあがった。バロンのヴァイオリンへの興味は、
 ビッグ・ゴールウェイのヴァイオリンへの愛着と正反対のところにあるのだ。
 「ヴァイオリンは悪魔にふさわしい楽器だよ。そうは思わないか。悪魔が奏でるのには
 ヴァイオリンが一番ぴったりくるだろう」
 「天使だって弾くでしょうよ」
 「だが『悪魔のトリル』というヴァイオリン曲はあるが、『天使のピチカート』なんて
 曲はないからね。天使はラッパかな、やはり」
 「いったい何が言いたいんです?」
  JJは腹立ち紛れに大声を張り上げた。バロンは明らかに、JJを怒らせて楽しんで
 いるようだ。要するに、からかわれているのだろう。
 「会話を楽しむことを知らない男だな。テレビマンはせっかちだ。つまりね、『アスタ
 ロト』は悪魔のために作られたウァイオリンなんだ。人が持つには過ぎた楽器なのだよ」
  バロンはそれだけ言うと、ロールスロイスで去っていった。
  JJは訳のわからない悔しさに唇を噛みしめて、地下鉄の駅まで走った。



  テレビ局に出社して、まずJJは資料室に飛び込んだ。
 「おい、誰かヴァイオリンに詳しいやつ教えてくれ。鑑定家か輸入業者……何でもいい。
 ストラディヴァリのヴァイオリンについて、大至急、調べたいんだ」

  教えられたのはブロードウェイにある楽器店で、プロの演奏家を相手にヴァイオリン
 の修理・調整をしているリペアマンだった。さっそく店を尋ねてみた。
  楽器店の売り場の一角に、楽器の並んだショーケースから区切られている小さな工房
 のようなスペースがある。そこは小綺麗な売り場に比べると、明らかに仕事場の雑然と
 した様子がうかがえる。
  ノミや、ハンマー、定規に鋸、ドライバー、他にも何に使うのかよくわからない工具
 が、椅子に座っていてもすぐ手に届くようにズラリと机の前の壁にかかっている。その
 脇には、まるで魔法薬でも入っているかのような薬品のビンがいくつも並び、ネジなど
 の小物が入っているのだろう小さな引き出しが二十から三十はついている棚があった。
   そして、中央のどっしりした机の上には、現在、修理中とおぼしき、弦の張られて
 いないヴァイオリンが乗っていた。
  そこがヴァイオリンのリペアマンの仕事場だった。

  髭をたくわえた初老のリペアマンは、JJの質問に快く答えてくれた。
 「ええ、古いヴァイオリンには愛称がついている物もありますよ。そういう楽器は来歴
 もはっきりしていることが多いですね。パガニーニのグァルネリは『カノン砲』という
 愛称で呼ばれていたし、ストラディヴァリでは『ネルソン卿』とか『メシア』とか……、
 『マックス・シュトループ』なんてのは所有者の名前がそのまま愛称になっていますね。
 たいてい何らかのいわれがあるんですよ。故意に偽造されたりしなければ、ですがね。
 もっとも、ストラディヴァリをコピーして製作されたガダニーニも、いいバイオリンで
 しょう。写しだって、何だって、ようするに音が良ければいいですよね」
 「じゃあストラディヴァリが高いのは、ブランドと歴史にお金を払っているということ
 になるのですか?」
 「いや、それもあるけれど、やはりストラディヴァリの値段が高いのは、それなりの理
 由があります。華やかで輝かしい音色で、オーケストラをバックにソロを演奏しても負
 けないだけの大きい音が出せる。そこまで表現力のある楽器は少ないんですよ。だが、
 一口にヴァイオリンといっても、オーケストラに向く音を出す物、室内楽に向く物と、
 色々個性があります。生き物と一緒でね。ただ、きちんと作られたいい弦楽器は、なぜ
 か古くなるほど、音が良くなる傾向があるんです。だからストラディヴァリみたいに、
 しっかり作られた古い楽器の値段がどんどん上がるのです。数に限りがありますからね」

 「ストラディヴァリで『アスタロト』という愛称のヴァイオリンをご存じないですか?」
 「アスタロト? 1718年のストラディヴァリの? あれは呪われているという噂が
 消えなくてね」
 「ご存知でしたか!」
 「いや、まあ名前だけはね。その筋の者の間では有名ですから。でも今は行方不明じゃ
 なかったかな。最初はイタリアの貴族が持っていて自殺したという言い伝えがあった。
 その後も所有者が次々と変わってね。そのたびに血なまぐさいエピソードが残ってるん
 ですよ。そのヴァイオリンの所有権を争って決闘騒ぎで死人が出たとか、演奏中に急に
 血を吐いて倒れたとか、『赤い靴』みたいにヴァイオリンの演奏がやめられなくなって
 衰弱して死んだ者が出たとかねえ」
 「そんな話があるんですか……」
  JJは驚きを隠せなかった。
 「確か、五十年くらい前までは、どこだかのイギリスの貴族が持っていたはずだが、そ
 こが落ちぶれたかしてオークションにかけて……。そのオークションで購入したヴァイ
 オリニストは飛行機事故で亡くなったんです。おそらく、その事故で『アスタロト』も
 一緒に壊れたろう、と」
 「本当ですか?」
 「ええ、そういう話ですよ。だから『アスタロト』を持つと本当に不幸になる、なんて
 噂が、今でも、まかり通っているんです」
 「もし、今ここに『アスタロト』があったら、あなたには、それが『アスタロト』だと
 おわかりになりますか?」
 「ヴァイオリンの鑑定は、そんなに簡単にはいきませんよ。ちょっと見たくらいでは、
 わかりません」
  リペアマンは、はっきりと断言した。
 「例えば、ストラディヴァリなら、ストラディヴァリの特徴というものがありますが、
 そのひとつひとつの作品には、それぞれの個性があるわけです。要は、いかにたくさん
 の本物の名器を見知っているか、という経験だけが鑑定のよりどころです。『アスタロ
 ト』のように、経歴がはっきりしているヴァイオリンなら、以前の所有者と付き合いの
 あった者ならば、アスタロトだとわかるでしょうけれど、あいにく私はアスタロトの実
 物を手にしたことはないですからね。お預かりして、よ〜く調べたところで、おそらく
 私には、これはストラディヴァリの作品と思われる、としか言えないでしょうね」
 「演奏しているところを見たくらいでは、それがストラディヴァリかどうかも、わかり
 ませんか?」
 「遠目で見ているだけでは、わからないですね。糸巻きに彫刻があるとか、ニスの色に
 はっきりと特色があるとかいうならともかく、初めて見るヴァイオリンなら、手にとっ
 て、よく調べて見ないことには、鑑定は不可能でしょう」

  聞けるだけの話を聞くと、JJはヴァイオリンのことを親切に教えてくれたリペアマ
 ンに礼を言って、店を出た。


  ブロードウェイをまっすぐタイムズ・スクエアに向かって歩きながら、消えたストラ
 ディヴァリのことを考える。
  盗まれたゴールウェイのストラディヴァリは、本物の『アスタロト』なのだろうか。
  あのストラディヴァリの虜になっていたゴールウェイの様子を思い出す。あれは、ま
 さしく悪魔に見入られたような状態だった。
  いくらバロンがいやみな男でも、わざわざ嘘をついてJJをからかうとは考えにくい。
  ゴールウェイの消えたストラディヴァリが『アスタロト』という名器であることに、
 間違いはないような気がする。
  だったら、かえって盗まれて良かったのかもしれない。あの楽器のせいでコンクール
 が失敗したらたまらない。
  でも百万ドルだ。

  リペアマンから聞いた話がよみがえる。
  アスタロトに魅入られたヴァイオリニストは、演奏がやめられなくなって衰弱して死
 んだとか。
  アスタロトを購入したヴァイオリニストは、飛行機事故で亡くなったとか。
 (何をバカな。呪われたヴァイオリンなんて、そんなのは迷信だ)
  JJは首を振って、その考えを頭から追い払おうとした。

  しかし、いったい何でバロンは、ミスター・ゴールウェイのストラディヴァリのこと
 を知ったのだろう。やはり事件に関係しているのではないだろうか。

 (私があれを持っていたことがあると言ったら驚くかい?)
 (没落したイギリス貴族……)

  とにかく。
  消えたストラディヴァリの行方を突き止めなければ。
  そしてコンクールを成功させるのだ。
  JJは、ちょうど目の前を通ったタクシーをつかまえて、ゴールウェイ・ホールへと
 向かった。



  きょうのゴールウェイ・ホールでは、一日中コンクール本選のためのオーケストラ・
 リハーサルが行われていて、審査そのものはないのだが、ビッグ・ゴールウェイも、バ
 ーンスタインも揃っていた。
  色気のないコンクール事務局の部屋で三人でコーヒーをすすりながら、さっそくJJ
 は、ゴールウェイに尋ねてみた。
 「盗まれたストラディヴァリのバイオリンに愛称があったかどうかを、ご存じですか?」
 「いや、楽器商の持ってきた略歴には書いてなかったな。でも、こちらで鑑定したら、
 確かにストラディヴァリであろうということだったし、何より素晴らしい音だったよ。
 たとえ本物のストラディヴァリでなかったとしても、あの値段は正当な価格だ」
 「1718年製作のストラディヴァリでしたよね。いいストラディヴァリなら愛称があ
 るんじゃないかという話を聞きまして、僕もちょっと調べたんです。名器に愛称がある
 のは、その楽器の血統の良さを表しているようなものだそうですね。なのになぜ、盗ま
 れた、あのストラディヴァリの愛称が伏せられていたんでしょう。実はね、信じてくだ
 さらなくてもかまいませんが、あのヴァイオリンは『アスタロト』と呼ばれているヴァ
 イオリンじゃないかと思うんです」
  JJの話を聞いて、ヒュ〜ッと口笛を吹いたビッグ・ゴールウェイは、百万ドルの宝
 物を盗まれたアメリカ有数の大金持ちには見えなかった。
  どうやら楽器を失ったショックからは立ち直ったらしい。さすがに大物は精神的にも
 タフなんだな、と感心する。
 「悪魔の名前だね。それは」
 「ええ、いわくつきの名前でしょう? 本当かどうかはわかりませんが、呪われたヴァ
 イオリンなんだそうですよ」
 「あれが『アスタロト』だって?!」
  バーンスタインが叫んだ。
 「ご存じでしたか」
 「本物だとしたら、あれを演奏するのには覚悟がいるぞ。アスタロトの所有者が不幸に
 なるというのは、有名な話だからな。でも、あれは飛行機事故に巻き込まれたんじゃな
 かったかな」
 「ええ。僕もそう聞きました。だけどもしかすると、どこかで無事だったのかもしれま
 せん。あのストラディヴァリは、ヒギンズ商会で手に入れたんでしたね」
 「ああヒギンズ商会だ。実は、今晩、会う事になっている」
 「やはり、盗難の件で?」
 「それもあるが、また別のヴァイオリンを探してもらおうかと思って」
 「また買われるつもりだったんですか!!」
  それで盗まれたショックから立ち直ったのか。JJは、さっき心中、ゴールウェイに
 感心したのがバカらしくなった。
  まあ、パワーのないビッグ・ゴールウェイを見るよりマシだが。
 「ヒギンズ商会も気の毒がって、掘り出し物を探してくれるという話だったんだ」
 「ミスター・ゴールウェイ」
  JJは、ごく真剣な面持ちでゴールウェイに話しかけた。
 「なんだい」
 「盗まれたヴァイオリンの来歴を調べた方が、いいと思います」
 「ヒギンズ商会に聞くのか」
 「捜索に必要だと言えば、不審に思うこともないでしょう。ヒギンズ商会は、本当に何
 も知らないのかもしれないし」
 「だが、あのヴァイオリンにストラディヴァリの鑑定書を添付し、百万ドルの値をつけ
 たのは、ヒギンズ商会だろう? 何も知らないわけはない。ヴァイオリンを扱っていて
 『アスタロト』の話を聞いたことがないなんて有り得ないよ。『アスタロト』の外観が、
 どんなものかを知らなかったということは、あるかもしれないがね」
  厳しい表情でバーンスタインは言い切った。ゴールウェイはうなずいた。
 「わかった。慎重に調べよう」


  一時間近く話し込んでゴールウェイが席を外した時、バーンスタインはJJに、こっ
 そりと打ち明けた。
 「ミスター・ゴールウェイが、すっかりヴァイオリンに囚われてしまったようだったか
 ら、いささか心配していたのだ」
 「ええ、少し熱にうかされている感じがします」
 「実はコンクールの審査員や参加者の間では、ちょっとした評判だったんだ。ビッグ・
 ゴールウェイがヴァイオリン狂で、いきなり本選に自分のストラディヴァリで参加する
 ……なんて噂もあった」
 「そりゃスゴイ噂ですね」
 「毎日のようにホールの練習室で音を出していればね。勘繰られてもしかたない」
 「では、コンクール関係者はみんな、ミスター・ゴールウェイが、ストラディヴァリを
 ホールへ持ち込んでいることを、知っていたんですね」
 「ほとんどの者は知っていたろうな」
  JJは、ため息をついた。犯人の確定は難しそうだ。
 「ヴァイオリンって悪魔的な魅力があるんでしょうか?」
 「確かにヴァイオリンのコレクターには、偏執的なタイプも多いな。演奏家でも、パガ
 ニーニなんか『悪魔に魂を売って超絶技巧を身につけた』という噂が、死ぬまで付きま
 とっていたし」
 「たまらない魅力があるんですね」
 「君はコンクールの予選のほとんどを、客席で聴いていたろう。どう思ったかい?」
  バーンスタインに質問されて、JJは思わず微笑んだ。
 「ええ、このコンクールで僕もヴァイオリンの魅力を堪能しましたよ。確かに音楽も楽
 しんだ。でも、どちらかと言えば、演奏者そのものに興味が傾いていた気がするんです」
 「だから君は、音楽家じゃなくて、ニュース・キャスターなんだ」
  バーンスタインも、静かに微笑んだ。






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