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The Second Screening ─第二次審査─



  ゴールウェイ・コンクールの第二次審査が進んでいた。
  このコンクールを企画したゴールウェイ・カンパニーのトップであるビッグ・ゴール
 ウェイ。彼はコンクール会場であるゴールウェイ・ホールへ、頻繁に足を運んでいた。
  あまり連日現れるので、JJはゴールウェイ・カンパニーの経営は大丈夫なのかと、
 心配になったほどである。

  第二次審査も中頃に差しかかった日の朝、見知らぬ男と二人連れで事務局前の廊下を
 歩くゴールウェイを見かけて、JJは声をかけた。
 「ミスター・ゴールウェイ! きょうもいらしてたんですか?」
 「だってきょうは午後に、君がテレビで注目していた天才少女のイチノミヤが出るだろ
 う? どうしても演奏を聴きたくてね。それにヴァイオリンも弾きたいし」
  そんなことを言って、件のストラディヴァリの入ったヴァイオリンケースをちょっと
 持ち上げ、ウインクをよこす。ゴールウェイは本当に憎めない人物だった。
 「そちらは?」
  ゴールウェイに同行しているヒョロッと背の高い男は、この暑い夏に、きちんとネク
 タイをしめてサマースーツを着ていた。初めて見る顔だった。
 「ああ、彼はヒギンズ商会のヒギンズ君だ。このストラディヴァリを手配してくれた、
 立て役者さ」
 「ミスター・JJ、ご活躍はいつもテレビで拝見しています」
  ヒギンズに挨拶されたので、JJもすかさず答えた。
 「ありがとうございます。ヒギンズさんの所は主にヴァイオリンを専門に扱っていらっ
 しゃるのですか?」
 「いえ、ヴァイオリンだけでなく楽器は何でも扱います。でも弦楽器が中心ですね。修
 理調整なども承っておりますので、何かご入り用の時は、ぜひ声をかけて下さい」
 「僕は、ミスター・ゴールウェイみたいな買い物は、できませんよ」
 「いえいえ、お仕事柄、ご紹介いただける方も多かろうかと。さしづめ、このコンクー
 ルの参加者の方などに、ご贔屓いただければありがたいのですけれどね。ガット弦一本
 でも商いますから」
 「まったく商売熱心だよ、君は」
  ゴールウェイが、ほがらかに口をんはさんだ。
 「これからレッスンですか?」
 「いや、レッスンの前にヒギンズ君と、ちょっとヴァイオリンの調整の相談をね。古い
 楽器は手入れが大変だ」
  ゴールウェイは真面目くさって、そう告げると、練習室に向かうためにエレベーター
 に乗り込んだ。JJは二人を乗せたエレベーターの扉が閉まるのを見送って、思わず苦
 笑した。
  何も個人的なバイオリンの練習や調整を、わざわざコンクール開催中のホールでやら
 なくてもと思うが、彼は自分もホールの練習室でヴァイオリンを弾きたいらしい。コン
 クールの熱気が演奏者心を刺激するのだろうか。
 (でも、まあ、それもコンクールが終るまでのことだろう)
  それなら、あと一週間くらいのことだ。自分が気にするようなことでもないと、この
 時のJJは思っていた。
 後に、この安直な考えを後悔することになったのだが。


  コンクールも、さすがに第二次審査になると、あきらかにヘタな演奏者は出てこない。
 小ホールの客席には一般の聴衆も混じり、どの日も、ほぼ満席になった。
  ホールのロビーには、コンクール関係者よりも、演奏を聴きにやってきた聴衆の姿が
 目立つようになり、コンサートのように華やいだ雰囲気も醸し出すようになった。
 『JJ・ニュース・ショウ』で、このコンクールの様子を紹介したことも、影響があっ
 たようだ。本選に誰が進むのか、スターは生まれるのか、ゴールウェイ・コンクールは
 ニューヨークの音楽好きな聴衆の注目を集めている。

  第二次審査で圧倒的な人気を誇ったのは、やはり天才少女のアン・イチノミヤだ。
  彼女の演奏は完全に子供のお稽古の域を越えていた。単なるアクロバットではない、
 確実なテクニック。豊かな叙情性。とてもローティーンの演奏とは思えない。JJのテ
 レビ報道も手伝って、イチノミヤは完全に一般客の人気者になってしまった。彼女の演
 奏には、確かに音楽に詳しくない人をも引きつける魅力があるのだ。
  第二次審査で彼女が弾いたラヴェルの『ツィガーヌ』に観客は熱狂し、会場は拍手と
 ブラボーの声がなかなか鳴り止まず、ロビーに出れば気の早いファンのサイン攻めにあ
 う、という具合だった。

  イタリアのジョルジオ・ローニの伸びやかな演奏も人気があった。
  彼はきちんと様式を理解した上で、非常に巧みにメロディーを歌い上げた。バッハは
 バッハの、モーツァルトはモーツァルトの、それぞれの作曲家の様式を崩さずに、確か
 なテクニックで情感豊かに表現できる演奏者だった。ことに、第二次審査で彼の弾いた
 『カルメン幻想曲』は曲がポピュラーであった事もあって聴衆にうけていたし、何より
 大人の演奏であるということで評判は良かった。

  ソビエトのセルゲイ・ペトロフも、まさに伝統的な教育に裏打ちされた正確無比の美
 しい演奏をしてみせ、モスクワ音楽院のレベルの高さを見せつけた。彼の演奏したバッ
 ハの『シャコンヌ』の折り目正しい美しさは、まったく文句のつけようのない正統派の
 演奏だった。この東側からやってきた演奏者にも、ニューヨークっ子は惜しみ無い拍手
 を与えていた。

  本選である最終審査を前にして、アメリカでこれだけ注目を集めている音楽コンクー
 ルはかつてなく、この時点でゴールウェイ国際音楽コンクールの成功は約束されたも同
 然だった。

  コンクール成功の予感からか、はたまた手に入れたストラディヴァリの素晴らしさか
 らか、最近のビッグ・ゴールウェイは、常に軽い興奮状態にあるようだ。
  JJは取材中に何度も、ゴールウェイがストラディヴァリで演奏する『愛の喜び』と
 か『ロマンス』とか『ホラ・スタカート』などを耳にした。
  ゴールウェイ・ホール5〜6階の練習室がズラリと並んだ廊下を歩いていると、かす
 かに漏れるヴァイオリンの音色の中に、決まってゴールウェイのものがあったのだ。
  JJは音を聴いただけで、彼だとわかるわけではなかったが、練習室のドアには部屋
 の中を伺える小窓がついているので、窓からのぞけば誰が練習しているかは一目瞭然だ。
  JJは、練習室にゴールウェイを認めると、必ず声をかけた。彼が喜ぶからである。
  そうしてアンコールによく演奏するような小曲を一曲、聴かせてもらうのだった。演
 奏しているゴールウェイは、うっとりとヴァイオリンに夢中だ。まるで大会社の経営者
 である自分を忘れてしまったかのように。

  機嫌のよいビッグ・ゴールウェイをよそに、コンクールの客席が活気を帯びるように
 なるにしたがって、舞台裏の演奏者たちの間には、緊張と興奮と不安がないまぜになっ
 た一触即発の空気が満ちてくる。自分以外のすべての参加者はライバルで、お互いに牽
 制しあうことで、危うい均衡が保たれているのだ。
  例えば、ここで何か不正の噂が出たりしたら、誰かがその場で審査員につかみかかっ
 ても不思議はない、といったような空気。
  それは、コンクール参加者の練習室確保時に、特によく現れているようだった。JJ
 はコンクール事務局で練習室の予約を取るために、早朝、関係者がホールに出勤してく
 る前から事務局の扉の前に並んでいる参加者を何人も見たし、練習室の前の廊下で、使
 用時間が過ぎているのに出てこない者を派手にノックして追い立てる次の予約者の姿を
 何度も見かけた。
  コンクールは確実に勝者と敗者を生み出す。


 「でもさ、よく考えると、音楽に勝ち負けって、何か違う気がしないか?」
  JJは、ホールの全景を撮影するというニックに付き合って、ゴールウェイ・ホール
 がよく見渡せる、向かいのビルの屋上に来ていた。
  セントラル・パークからまっすぐに伸びている7番街。南に行けばブロードウェイの
 交差するタイムズ・スクエアだ。昼の間は高級店の立ち並ぶ5番街がニューヨークの商
 業の中心だが、夜ともなればブロードウェイを初めとする劇場街が主役に代る。
  背の高いビルが林立する、いかにもニューヨーク的な風景が目の前に広がっていた。
  ビルの屋上には日陰がなく、晴れ上がった夏の陽射しがきつかったが、撮影にはこれ
 以上の好条件はないだろう。
  ひっきりなしに道を行き交う車の吐き出すガスが、都会の夏を不快にする。しかし、
 それがゴールウェイ・ホールの豪奢な風情を損なわせているようなことはなかった。地
 上三十階の屋上の金網ごしに見下ろしても、やっぱりゴールウェイ・ホールはマンハッ
 タンの摩天楼の中に輝く美しいクラシックの砦に見える。
 「おまえって、ゴチャゴチャといろんなこと考えるやつだな。コンクールは優劣を競う
 から、普通のコンサートと違って、見ていて面白いって言ってたじゃないか」
  白いTシャツにジーンズ姿のニックは、額に汗を浮かべながら、紙コップのコークを
 飲み干して、JJのつぶやきに答えた。
  必要な撮影は終わったので、アシスタントが引っ張ってきたケーブルを片付けていた。
 「ああ、もちろんそうなんだけどさ。そういう人間同士の駆け引きにドラマがあるから、
 見ていて面白いし、番組にだってなるんだよな。それはそうなんだけど、でも、音楽に
 絶対の優劣なんてつけられのかなと思ってさ。一次審査の時は、僕でもウマイ・ヘタが
 わかったけど、二次になったら、すっかりわからなくなったしね」
 「そりゃ、明らかにヘタなやつは一次で落ちたんだから当然だろ。何だよ。コンクール
 に飽きちまったのか?」
 「いいや。クラシック音楽に興味が広がったし、ヴァイオリンのことも色々知ったから、
 前より面白くなってるよ。でも、何か怖い気がして。このコンクールで優勝できないか
 らってプロになれないわけじゃないだろうに、コンクールの参加者みんな、まるで、こ
 こで優勝しないと命がない、みたいな感じになってきてるから……さ」
 「それだけチャンスが少ないんじゃないのか。おまえだってテレビのニュース・キャス
 ターとしてデビューするチャンスには、命がけって意気込みだったろうが」
 「僕はラッキーだっただけでさ。恵まれてたよ」
 「ふーん。でも、運も実力のうちだしな。何でもそうだろ」
 「そうだね。ビッグ・ゴールウェイ見てると、ホントそう思うよ。彼は、運を自分で引
 き寄せるパワーがあると思わないか」
 「カメラのぞいてると、そういうやつ、わかるんだぜ。ほら、あのちっこいイチノミヤ
 なんか、最初っから違ってたもんな。存在感があるっていうか」
 「そういえば、彼女は、あまりピリピリしてないな」
 「結局、そういうやつが本物になるんじゃねえの」
  ニックはそう断言して、とめどないおしゃべりに、けりをつけた。


  確かに、練習室の辺りには、舞台袖やステージの上とはまた違った攻防がある。
  隣の部屋に出入りするコンクール参加者同士がドアの前でかち合ったりすると、見交
 わす視線が、大抵お互いの実力を探りあうライバル意識むき出しの鋭い視線になる。
  相手の持っているヴァイオリン・ケースにチラチラと目がいく。
  練習室に入れば入ったで、隣の部屋からわずかに課題曲の難しいパッセージが聞こえ
 てこようものなら、張り合って倍のスピードで同じパッセージを弾いてみせたりもする
 らしい。
  コンクール参加者は、プレッシャーと不安を紛らわすために、できるだけ長い間、練
 習しようとするものがほとんどだった。演奏をやめた途端、心のすきまに不安が渦巻く
 のだろう。

  本番の最中、弦が切れたりしないだろうか。
  出番前に、きっちり調弦したはずなのに、音がどうしようもなく狂ったりしたら、ど
 うする。
  楽屋で、どうしても今、弓にぬりたい松ヤニが見つからなくなったりしないだろうか。
  ああ、それより、ステージで急に曲が思い出せなくなったりしたら。

  しかし、同じ練習室でヴァイオリンを演奏する者でも、ビッグ・ゴールウェイはコン
 クールの参加者ではないのだから、そういったコンクール・シンドロームから無縁であ
 るはずだ。彼には、別に寝食を惜しんでヴァイオリンを弾く必要性はない。

  それなのに。

  コンクールの審査が進めば進ほど、ゴールウェイの、ホールの練習室でのヴァイオリ
 ン演奏熱は加熱する一方だった。段々と練習室にこもる時間が長くなる。
  審査のステージを聴きに客席に来るはずが、いつまでも現れないので、後で聞いてみ
 ると、ずっと練習室でヴァイオリンを弾いていた、などということが起こる。
 「いやあ、周囲の人達が、みんなプロを目指して練習しているだろう。私も、つい、つ
 られてしまうんだな。おまけに、このストラディヴァリときたら、何時間弾いていても、
 ちっとも疲れないのだよ。いくら弾いても飽きるということがないんだ。やはり名器は
 違うのだね」
  ビッグ・ゴールウェイは興奮気味の大きな声で、そんなことを言う。
  まるでヴァイオリンに取りつかれているようだ。そんなにストラディヴァリはいいの
 だろうか。
  JJは、ゴールウェイのストラディヴァリに浮かれている態度が、妙に危うく感じら
 れてならなかった。



  第二次審査の最終日。
  お昼時に、JJは審査委員長であるバーンスタインを探していた。
  夕方の第二次審査発表の場にもカメラを持ち込みたいので、許可がほしかった。審査
 の様子も伺いたい。
 「JJ! 来ていたのか。何時頃から取材をしていた?」
  ゴールウェイ・ホールの3階にあるリハーサル室の前を一人歩いていたJJは、バー
 ンスタインに低い声で呼び止められた。
 「ああ、探していたんですよ。マエストロ! 実は……」
 「すまない。きょうは、いつから会場に来ていたか教えてくれたまえ」
  バーンスタインの様子が、明らかにいつもと違う。音楽家である彼は、普段、こんな問
 い詰めるような物言いはしない。ジャーナリストとしての勘が『何かあったのだ』とJJ
 に知らせる。
 「コンクール出場者たちの様子を撮るので、九時にはホールに来ていましたよ」
 「そうか。テレビ・スタッフも一緒かね」
 「先程まで一緒でしたよ。ランチタイムで別れましたが。僕はあなたを探していたんです」
 「テレビカメラでコンクール参加者を撮影していたんだね」
 「ええ。練習室での伴奏合わせとか、舞台の袖で順番を待つ様子とか………何があったん
 ですか?」
  JJは、バーンスタインのどこか追い詰められたような様子が気になった。彼は周囲を
 見渡してから、JJを目の前のリハーサル室へと押し込むようにしてドアをしめた。

  防音完備のリハーサル室には、指揮台を囲むようにして椅子と譜面台が並べられていた。
 その指揮台の正面の椅子に、ゴールウェイがひとりで座っている。ひどく顔色が悪い。
  やけにひんやりした空気が流れている気がするのは、性能のいい空調のせいだけではな
 さそうだ。ドアの閉まる音にゴールウェイはうつむいていた顔を上げると、部屋に入って
 来たJJに向かって、のろのろとつぶやいた。
 「ストラディヴァリが……」
  ヴァイオリンの名器がどうかしたのだろうか? そりゃあ、ここはヴァイオリン・コン
 クールの会場なのだからストラディヴァリの名前を聞くのも不思議はないが、ゴールウェ
 イが言うのは、もちろん彼自身の百万ドルの恋人のことだろう。
 「君も知っている、私のストラディヴァリが、ないんだ」
 「ないって……、行方がわからないってことですか? 盗難?」
 「じゃないかと思う」
  JJは息をのんだ。
 「きょうは審査発表もあるし、どうしても会場へ来たくてね。十一時だったな。空き時間
 に、ここのリハーサル室で音を出すつもりで、ストラディヴァリを持ってきていたのだ」
 「ストラディヴァリがない事に気付いたのは、いつです? どんな状況で? 持ち歩いて
 いたわけじゃあないんですね」
 「実は、きょう、このホールに立ち寄るのは予定外だったんだ。ビジネス・ランチと、午
 後の打ち合わせをキャンセルしてきたんだよ。だから部下も連れてこなかった。とにかく
 ヴァイオリンを弾きたくて、ホールに来てバーンスタイン君に挨拶してから、すぐにこの
 リハーサル室でストラディヴァリを弾いた。ひとりで。一時間ほど弾いてから、用を足す
 ためにリハーサル室を出た。楽器を置いて。もちろん部屋に鍵はかけた。だが、戻って来
 たら、ストラディヴァリがなかった。譜面台の前の椅子には弓とバイオリン・ケースしか
 残っていなかったんだ。ストラディヴァリ本体だけが、消えていた……」

  ヴァイオリン・コンクールを企画したミスター・ゴールウェイが百万ドルで手に入れた
 ヴァイオリンの、盗難事件。しかもコンクールの会場で。
 「ヴァイオリン・コンクールに高価な楽器が集まることは予測していたことだ。コンクー
 ル参加者にも、厳重に注意を促す必要があるな」
  バーンスタインが苦々しく言った。
 「警察には?」
 「届けはしたが……、ヴァイオリンが見つかる可能性は少ないだろうな。もうすぐ、ここ
 に来ると思うが」
 「とにかく、きょうの正午前後にゴールウェイ・ホールに出入りしたすべての者に容疑が
 かかるわけだ」
  バーンスタインが宣言した。
  三人のあいだに沈黙が落ちた。


  警察による捜査が執り行なわれたが、結局、ヴァイオリンも、犯人も、出てこなかった。
  リハーサル室に入るためには、ホールの裏にある楽屋口の警備室の前を通るか、ホール
 のロビーから舞台袖に通じている関係者以外立ち入り禁止のドアを開けて、侵入するか。
  しかし、関係者以外立ち入り禁止のドアに鍵はかかっておらず、実際には演奏者に花束
 を届けるために、そこを通り抜けた客もいたのだ。舞台裏事情に少し明るい者なら、リハ
 ーサル室に近付く事も、それほど難しくはない。
  楽屋で物が盗まれるというのは、どこのホールでもよく聞く話で、大抵の出演者は楽屋
 に大事な物を置き放しにしないように注意しているのが普通だ。
  ゴールウェイの場合、ここが自分の建てた自分のホールであるということに、どこか油
 断があったかもしれない。実際、部屋に鍵はかけていたのだし、トイレは廊下のすぐ向か
 いにある。リハーサル室を離れていた時間は十分間もなかった。
  しかし、現実にストラディヴァリは消えてしまったのだ。


  騒然となった舞台裏をよそに、ゴールウェイ・コンクール第二次審査の審査結果発表は
 予定通り行われた。
  今度の発表は、ロビーの掲示板に張り出すだけでなく、きちんと小ホールの舞台でバー
 ンスタインから発表された。本当は第1リハーサル室で発表される予定だったのだが、近
 くの第3リハーサル室で起こった盗難事件の捜査を円滑に進めるため、ステージでの発表
 となったのだ。幸い、客席に集まった関係者に目立った混乱は見られなかった。
  最終審査、本選に進む八人の中には、観客の予想した優勝候補もしっかり残っていた。
  ソビエトのペドロフとブーキンの二人。
  イタリアのローニ。
  フランスのルミエール。
  イギリスのウィリアムス。
  そして注目されていた地元アメリカの参加者からは、トーマス、クライブ、イチノミヤ
 が残った。
  この八人がゴールウェイ・コンクールのファイナリストとなったのだ。
  JJは、発表された瞬間の彼らの表情を何とかカメラにおさめたかったが、全員を映す
 のはとても無理だった。
  それでも、最初から本選出場が予想されたペドロフの怜悧で落ち着いた横顔、ローニの
 心底から満足そうな笑顔、そしてアメリカの三人……トーマスの自分の名前を聞いた途端
 のほっと安堵したような表情と、クライブの早くも本選の舞台を見つめているかのような
 強い力を感じる目の輝き、天才少女イチノミヤが喜ぶ母親に抱きしめられている様子だけ
 は、何とか撮影することができた。
  バーンスタインが彼らの名前を読み上げるたびに、会場からため息がもれていた。

  この日に起こったストラディヴァリ盗難事件はコンクール参加者の間に知れわたってい
 たが、発表の場を支配している話題はヴァイオリンの盗難事件ではなく、審査結果につい
 てがすべてだった。
  それはそうだろう。自分の楽器を盗まれたわけではない。ならば、参加者にとっては、
 自分が本選に出られるかどうかの方が、よほど重要な問題だ。コンクールの結果は、演奏
 家としての一生の問題なのだから。


  いっそ、盗難事件をニュースとして報道したらヴァイオリンも見つかるだろうかと思っ
 ている自分に、JJは気がついた。
  審査発表が終わった後、ホールを引き上げる前に事務局へ立ち寄り、考えをゴールウェ
 イに申し出ると、彼はわらにもすがる様子で、この提案を受け入れた。
 「事件を公にしてもかまいませんか? 情報が集まるかどうかは未知数ですが」
 「ストラディヴァリが戻って来るためなら、何でもする。ニュースで呼びかけてくれるの
 かい?」
 「心配なのは、コンクール運営への影響ですが」
 「うむ。それはバーンスタイン君が押さえてくれているし、かえって参加者の注意を促す
 ためにもいいのじゃないだろうか」
 「できるだけのことはしてみましょう。こんなに跡形も無く消えてしまうなんて変です」
  ビッグ・ゴールウェイはストラディヴァリという夢の形見を失ってから、その名に反し
 て小さくなってしまったように見える。JJは、それがたまらなく寂しかった。





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