憬文堂
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Competition ─コンクール─


  六月。
  いつのまにか夏が近づいていた。
  すでに第一回ゴールウェイ国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門の、参加申し込み
 は締め切られ、書類選考が終わっていた。

  JJは取材準備にかかるべく、コンクール本部事務局が設けられているゴールウェイ・
 ホールにバーンスタインを訪ねた。
  ニューヨーク7番街に建つ、このゴールウェイ・ホールは、古いヨーロッパ・スタイ
 ルの面影を写した外観と、素晴らしい音響、充実した施設とで、クラシック音楽関係者
 に愛されていた。
  ビッグ・ゴールウェイが建てたシンフォニー・ホールには、二千六百人を収容する大
 ホールと、リサイタルなどに使われる二百席の小ホールがあり、充実したリハーサル・
 スタジオ施設を併設しているのが自慢らしい。
  ゴールウェイ交響楽団の活動の本拠地でもある、このホールには、音楽学校並の練習
 スタジオがついているわけだ。オーケストラの楽団員や、コンサートの出演者にとって、
 ゴールウェイ・ホールは大変使い勝手の良いホールであった。
  コンクールの参加者は、最後の練習場所としてホールの練習スタジオを使用すること
 になるだろう。

 「イタリア・ルネッサンス様式っていうのかな。クラシックの殿堂って感じだよなァ」
  ホールの前に立つと、そのどっしりとした重厚な雰囲気に、まずJJは息を飲む。
  JJの勤めるテレビ局とは別世界だ。テレビ局のスタジオだって一種のステージで、
 どちらも客に見せるための場なのだけれど、世界の在り方が全く違うと思う。

  テレビ局というのはケーブルとハリボテの世界で、言ってみれば、実にアメリカ的な
 ところだ。真四角の窓が並ぶビルには新しい機械がバンバン出入りする。絶えず空気が
 入れ替わる世界。
  対するシンフォニー・ホールは、本質的な物は百年たっても変わらない場所ではない
 かと思う。伝統芸術の世界なのだ。

  一歩、足を踏み入れて目に入るのは、正面ロビーにふんだんに使われている大理石。
 大ホールはクリーム色の石膏の壁に囲まれた4層建ての円形ホール。客席の椅子なんか
 黒革張りで……と思うと、いつもの動きやすさ重視の取材ルックがちょっと恥ずかしい。
 (でもきょうは裏方だからね。テレビに出る時はおめかしするけどな)
  悪びれずに、裏にある楽屋口から、ゴールウェイ国際音楽コンクール本部事務局へ向
 かった。


 「ようこそ、ミスター・JJ!」
  バーンスタインはJJに手を差し延べて、ゴールウェイ・コンクール本部事務局の部
 屋に迎え入れてくれる。人なっつこい笑顔は、この人の宝だろう。
  彼の前ではJJも自然に笑顔がこぼれてしまう。

  部屋には電話の乗った事務机と、書類棚、四名ほどで打ち合わせできそうな簡単な応
 接セットなどがあり、事務作業を担当しているのであろうスタッフ二名が机に向かって
 いた。
  部屋の一番目立つところにある大きなスピーカーのオーディオ・セットが、この部屋
 が音楽関係の事務所であることを物語っている。
  JJは、さっそくコンクール参加者のリストを見せてもらった。全部で八十七名。
  アメリカ国内の参加者が一番多いが、ヨーロッパ各国の参加者もかなりいる。
  審査員の確かさと、高額な賞金。入賞してプロモーターの目に止まれば、デビューの
 可能性がある。すべての参加者が、独奏者──ソリストになる夢を抱いて、コンクール
 に参加するのだろう。
  みんな夢をかなえたくてアメリカへやってくる。自由の国、アメリカへ。

 「参加希望者は各国から集まったそうですね。高いレベルになりそうですか?」
 「もちろんだ。ところで、参加者をある程度カメラで追いかける、ということだったね」
 「ええ。できたら最終選考に残りそうな参加者を推薦していただけますか?」
 「おいおい、演奏を聞かなければ、そりゃ確定できないよ」
  バーンスタインは笑った。

  JJは、参加者のプロフィールも見せてもらった。
 「おや、この子も参加者ですか?」
  パラパラとめくっていたプロフィールの十何枚目かで突然現れた写真に、JJは思わ
 ず手を止めた。
  赤いワンピースの少女のポートレイトは、他の参加者より著しく目立っている。
 「ああ、西海岸では有名な子だよ。アン・イチノミヤ。日系の天才少女と評判でね。サ
 ンフランシスコ交響楽団のコンサート・マスターに師事していて、最年少の参加者だ。
 十三歳とは思えないほど表現豊かな演奏をするそうだよ。テクニックもあるしね」
  バーンスタインは簡潔に欲しい情報を与えてくれた。
 「天才少女か……。彼女を撮りたいけれど、あんまり騒ぎになると、彼女のためになら
 ないですかね」
  聴衆は神童を期待するものなのだ。十三歳のオリエンタルな美少女。最高だ。
 「コンクールの邪魔をされては困るが、少しばかりテレビに映ったからって、音楽がお
 ろそかになるようなら、しょせん、そこまでさ。もちろん彼女がOKするかどうかは、
 わからんがね」
 「そうですか。まあ、彼女だけを撮影するわけじゃありませんから」
  JJは他にも何人かの参加者をチェックした。演奏の邪魔にならないように、インタ
 ビューの予定を立てなくてはならないだろう。
  ゴールウェイ・カンパニーが企画した、第一回ゴールウェイ国際音楽コンクールの開
 催は、一か月後に迫っていた。




  クラシックの定期公演のシーズンは大抵、秋から五月までで、夏は各種の音楽祭のよ
 うなイベント公演が中心となる。大規模な音楽コンクールが開催されるのも大抵、夏だ。
  そんな七月。

 『第一回ゴールウェイ国際音楽コンクール』がニューヨークで開催された。
  いよいよ審査が始まる。
  コンクールの第一次審査は、ゴールウェイ・ホールの小ホールが会場となる。
  もちろんJJは、ホールへと取材に向かった。

  会場になるゴールウェイ・ホールはニューヨークのマンハッタンにあり、コンクール
 参加者も審査員も、コンクール期間はニューヨークのゴールウェイ・ホテルに滞在して
 いる。
  ただし、審査員と参加者がホテルでかち合わないように審査員はホテルの本館、参加
 者は新館に部屋を割り当てられていた。
  ホテルからコンクールの審査が行われるゴールウェイ・ホールまで、歩いても十五分
 ほどだが、ゴールウェイ・カンパニーはホテルと会場間にリムジン・バスを走らせる心
 配りを見せた。
  ホールにある事務局に申し込めば、希望人数によって時間制限はあったけれど、ホー
 ル付属の練習室で、ピアノ伴奏と合わせて練習することもできる。もちろん無料だ。
  コンクール関係者は一様に、ゴールウェイ・カンパニーの行き届いたスポンサーぶり
 に感心していた。
  そもそもゴールウェイ・ホールは、世界に誇れるコンサートホールを建てたいという、
 ビッグ・ゴールウェイの夢が形になったものだ。今度はそこに、夢を求めるパイオニア
 たちが集まって来たのだ。

  普段はとりすましたムードの漂うコンサートホールが、やけに若々しい熱気に包まれ
 ている。多くの若い野心家たちが、練習室の確保と予選の見学のために、楽屋口や、ロ
 ビーを行き来しているせいだろう。
  独特の緊張感が、ホールのそこかしこにあふれていた。JJは初めて見るコンクール
 会場の空気に、自分の身も引きしまるような感じがした。


  午前十時から始まった第一次審査が昼休みに入ったので、JJは審査員の控室にバー
 ンスタインを訪ねた。
  審査員控室には、比較的広い楽屋があてがわれていた。メイク用にそれぞれ照明のつ
 いた鏡がズラリと壁に取り付けられている明るい楽屋は、テレビマンのJJにとっても、
 馴染みの深いものだった。この雰囲気が嫌いな者は、めったにいないだろうと思う。こ
 こはステージに上がる者が変身する秘密の空間なのだ。
  関係者以外、めったにのぞくことのできない舞台裏は、いつでも人をワクワクさせる。

  バーンスタインはオーケストラ曲のフル・スコアらしい大判の楽譜をながめながら、
 鏡の前の椅子に座って、コーヒーで一息入れていた。
 「おお。JJか。初日から御苦労様」
 「こんにちは、マエストロ。審査の方はいかがですか」
 「うん。さしたるトラブルもなく順調だよ。ちょっと時間が押しているが。あと一時間
 で午後の審査再開だな。時にきょうはミスター・ゴールウェイに会ったかい?」
 「いいえ。予選から、いらしているんですか?」
 「ああ。きょう、彼はごきげんだよ。たぶん第3リハーサル室にいるから、行ってみた
 まえ。とびきりの宝物を披露してくれるだろう。きょうは例の恋人連れだから」
 「はあ?」
  バーンスタインの言っていることが何を意味するのかわからなかったが、好奇心を刺
 激されたJJは、ビッグ・ゴールウェイに会うために第3リハーサル室へ向かった。


 「やあ、ミスター・JJ! ちょっと聴いてくれるかい」
  壁一面が鏡張りのせいで、やけに広く感じる第3リハーサル室では、少しばかりハイ
 な状態のビッグ・ゴールウェイが、部屋の中央に、たったひとりでヴァイオリンを構え
 て立っていた。
 「ミスター・ゴールウェイ……まさかコンクールに出場されるんじゃないでしょうね?」
 「それができれば、最高なんだがね」
  そう言って、ウインクをよこしてから、おもむろに演奏を始めた。

  サラサーテの『チゴイネルワイゼン』だった。ジプシーの悲哀と祭りの熱狂。
  ゴールウェイの演奏はお世辞抜きで、うまいものだった。難しそうな『チゴイネルワ
 イゼン』後半の速いテンポも澱みなく弾ききった。半年前の取材の時も思ったが、ただ
 の趣味にしては相当な腕前だ。
  あごにはさまれているバイオリンは、もちろん、あのストラディヴァリなのだろう。
  ストラディヴァリの美しい音色を堪能して、思わず拍手をした。ゴールウェイは本当
 に楽しそうに弾くので、見ていて微笑ましい。
  JJは、一時、コンクールの緊張感から解放されていた。

 「ブラボー!! これ、あの百万ドルのストラディヴァリですよね?」
  あまりの素晴らしさに、19世紀のなかほどからその価値はどんどん高くなって、今と
 なっては庶民の手には届かない楽器になってしまったヴァイオリン。
 「そうだよ。どうしてもここで演奏したくて連れて来たのさ。持ってみるかい?」
  ゴールウェイにそっと手渡されたストラディヴァリは、想像していたよりもずっと軽
 いもので、それがひどくJJを不安にさせた。
  手が震えて楽器を落としでもしたら大変だ。
 「も、もう、けっこうです」
  歴史ある名器は、十秒もしない内にゴールウェイの手に戻った。
 「そんなに、おびえることはないだろう」
  愉快そうに言うゴールウェイに、JJは、金持ち特有のからかいというよりは、まる
 で、いたずらっこのちょっかいみたいなものを感じた。ゴールウェイに悪気はないのだ
 が、庶民にとって、まったく心臓によろしくない。
 「でも、やっぱり……、だって下世話な話で申し訳ないんですけれど、家一軒より高い
 値段のものだと思うと、どうも落ちつかなくって」
 「演奏家にとっては、それだけの価値がある楽器だけれどね。この明るく輝かしい音は、
 他のヴァイオリンでは得られないものなんだ」
  大事な家族を見るような目で、ゴールウェイは手に持ったヴァイオリンを見ている。

 「前にも言ったかな? 私はね、本当は音楽家になりたかったのだ……」
  ビッグ・ゴールウェイは、ちょっと寂しそうに言った。
 「でも才能がなかった。ハンバーガー屋を大きくすることはできたけど、自分の演奏で
 他人を魅了することはできなかった。残念だけれど、それも仕方がない……。好きなだ
 けでは、努力だけでは、どうにもならないこともあるんだということを、私は人生の早
 いうちに知ったのだ」
  ゴールウェイが言う事を、JJは黙って聞いていた。
 「だから、こんな風に少しばかり余裕ができた時にね、昔の私をなぐさめたくなったん
 だ。今更、私がストラディヴァリを奏でても、演奏家になれるわけではないが、でもね、
 夢がかなったよ……」

  それは感傷だったかもしれないが、JJは笑う気にはなれなかった。
  誰もが、何かをあきらめ、何かをつかむ。全てを手に入れることは不可能だ。
  ビッグ・ゴールウェイでさえもそうなのだ。
  オーケストラを持ち、コンサート・ホールを建て、国際的なコンクールを企画するの
 も、すべては、そこから始まっているのだろうか。
  ついにストラディヴァリを自分の物にすることができるようになった今も、昔の夢は
 色あせることがないのだろうか。

  ゴールウェイは、まるで魅入られたように手にしたヴァイオリンを見つめ続けている。
 「会社を大きくするパワーを、このバイオリンからもらうのだ」
  低い声で力強く言い切ったゴールウェイの様子で、JJは彼が感傷だけで動くような
 男ではないことを知った。
  昔の夢は未来の夢と無関係ではないのだ。それは亡霊のようにゴールウェイを悩ませ
 たりはしない。願うことは実現への一歩だ。夢の実現への道程はひとつではないのだか
 ら。
  それでこそ『ビッグ・ゴールウェイ』だ。

  ゴールウェイがストラディヴァリを入手するために払った百万ドルが、高いのか安い
 のか、JJには、よくわからない。
  ただ、単純にお金と引き替えにならないものを、ゴールウェイが手にしていることは、
 わかった。

  この楽器が百万ドルだなんてことは、本当はたいしたニュースじゃないのだ。
  かけがえのない何かがこの世にあることを、ニュースで伝えられればいいのに、とJ
 Jは考えていた。感動もニュースになれば、いいのに。

  ヴァイオリンの価値がよくわからないJJの目にも、ストラディヴァリのヴァイオリ
 ンは魅惑的に見えた。
  美しい楽器だ。このヴァイオリンという楽器の演奏を競うコンクールが始まった。

  所在ない時に出るくせで右手をあごにやった時、JJの頭をチラリと、何かが、かす
 めた。だが、2、3度強く頭を振ると、わけのわからない予感は消えてしまった。




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