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Prelude ─前奏曲─


  なんともいえないカーブを描いたフォルム。
  飴色に輝く美しい表面は、オリジナル・ニスのものだろう。
  表板の中央部、左右に開いたfの字を形取った孔。
  てっぺんに巻き貝のラセンにそっくりの渦巻き。
  ひたすら甘やかな曲線の体躯に、まっすぐに張り詰めたガット弦が緊張感をたたえて
 いる。この世に、これほど魅惑的な物が、他にあるだろうか。

 「どうぞ。音を」
  すぐ横にいる楽器商に促されたロバート・ゴールウェイは、美しい楽器を構えると、
 まずE線を指ではじいてみた。豊かなヴァイオリンの音が、ゴールウェイ・ホールの、
 第1リハーサル室いっぱいに響いた。
  大ホールの舞台とほとんど同じくらいの広さがある贅沢なこのリハーサル室で、ゴー
 ルウェイのヴァイオリンの試奏を見守っているのは、ゴールウェイの秘書と、楽器商、
 それに二人のガードマンだけだ。
  片側の壁一面が鏡のせいで、なおさら広々と感じるリハーサル室に、数人しかいない
 のがもったいないようだとゴールウェイは考える。

  いや、広い空間に数人しかいないのがもったいないというのではない。
  この美しい楽器の音色を数人しか聴いていないのが惜しいのだ。

 「美しいな……」
  ゴールウェイは手早く調弦を済ませると、クライスラーの小曲を弾いた。
 『愛の喜び』
 『美しいロスマリン』
 『ウィーン奇想曲』

  ベルベットを撫でているように心地好くなめらかな音がメロディーを紡いでゆく。誰
 もが夢中になる響きだろう。小曲ばかりを三曲続けて弾いて、ゴールウェイはホウッと
 ため息をついた後、ほとんど放心状態になった。

 「いかがですか?」
  楽器商の声で、ゴールウェイは現実に引き戻された。
 「もうすっかり虜になってしまったよ。君も人が悪いな。一度弾いてしまったら、あき
 らめられない事をわかっていたんだろう? 鑑定の結果も間違いないし、例えこれがス
 トラディヴァリでないとしても、かまわない。こんないい音の出るヴァイオリンを手に
 するのが、私の夢だった」
 「では、さっそくご契約いただけますか」
 「弁護士を呼ぼう」


  ロバート・ゴールウェイは百万ドルで、ヒギンズ商会から、そのヴァイオリンを手に
 入れた。極めて状態の良い正真正銘のストラディヴァリとはいえ、それは、かつてない
 高額で取り引きされたヴァイオリンだろう。
  たかがヴァイオリンに百万ドル。しかし、もちろんゴールウェイにとって、これは
 『たかが』ではないのだ。
  二百年以上も前に作られたこの世にふたつとない芸術品。
  甘くて浸透力のあるストラディヴァリ・トーンは、他のヴァイオリンでは得られない。
  その値打ちを認めたから百万ドル出したのだ。ゴールウェイは、本当に気に入った物
 にお金をかけることを無駄とは思っていなかった。
  いい買い物をした。そう思っていた。

  百万ドルで、どこかに店を持つのも夢なら、百万ドルでヴァイオリンを買うのも夢だ。
  ゴールウェイ・カンパニーの経営は順調だ。信じられないくらい大きくなった自分の
 名をつけた自分の会社。
  ヴァイオリンのコンクールを企画する段になって、こんな素晴らしい宝物が手に入る
 とは運命的なものすら感じる。

  いよいよ来月には発表する『ゴールウェイ国際音楽コンクール』も、きっと成功する
 だろう。
  この企画は絶対に成功させたい。コンクールの成功は、ゴールウェイ・カンパニーが
 アメリカのショウ・ビジネス界でも成功するための、足掛かりになるはずだ。

  夢はこの手でつかむものだ。夢を夢で終わらせたくはなかった。





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