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う き 波  廿弐
仲秋 憬 




  後のことは、浮雲のようにどこかふわふわと頼りなく、あやふやだ。

  次に友雅がはっきりと目覚めたのは、土御門に向かう牛車の中だった。あちこち

 焼け焦げや、かぎざぎの出来ている衣に、煤まみれで乱れた哀れな姿のまま、それ

 でもしっかりとあかねを抱いていることに気付き、あらためて助かったのだと思っ

 た。

  あかねは友雅の腕の中で眠っていた。牛車のきしむ律動とは別のゆるやかな鼓動

 が今の友雅を生かしている。誰も見るものはいなかったが自然に微笑みが浮かび、

 そのままの姿勢で車のゆれに身を任せた。



  日が落ちた頃、ようやく土御門へ帰り着けば、案の定、藤姫が半狂乱にならんば

 かりであったが、泰明が鬼との戦いから火事にまきこまれた事情を話した後は、た

 だ神子の無事を喜び、いつものようにかいがいしく周囲に世話を指示した。

  あかねは友雅に寝間へと運ばれ、女房達の手でそっと身なりを調えられている間

 も、昏々と眠り続けていた。

  すっかり身を清め人心地ついた友雅たち事情を知る四人の八葉が、いつも集う廂

 の間にそろった時、あかねは御簾の向こうで一人静かに眠っていて目覚める気配は

 ないようだった。何度か同じ様なことをくり返していることに、自然と不安がつの

 る。

 「よもや、このままという事はあるまいね?」

  友雅の問いに泰明は素っ気なく「問題ない」と返した。

 「魂が戻ったあと、たて続けに力を使った反動が来ているだけだ。物忌みまでゆっ

 くりと休めば何の心配もない」

 「よかった……ボク、本当に息が止まるかと思った……。でも、あかねちゃんも、

 友雅さんも、無事に助かって本当によかった」

  詩紋がほっとした表情で大きく息を吐いた。

 「あの時……、神子殿の小太刀に鳴神が落ちたように見えましたが、あれは、やは

 り龍神の厳つ霊(いかつち)であったのでしょうか?」

  頼久が尋ねた。

 「神子は神の愛し子だからな。でなければ落雷を受けて命が助かるはずもない。あ

 れは神託だ」

  泰明の答えにその場にいた八葉達は皆、心持ち表情を固くした。



  自らの喉に刃を突き立てて、何もかも無に帰そうとしていた少女の構える、その

 刀に鳴神は落ちた。

  一瞬の衝撃のあと、彼らが見たのは、神の怒りを受けて裂けた門柱、くすぶる煙

 に覆われ始めた半壊の門と、その前に倒れている少女の姿だった。

 「神子!!」

  最初に己を取り戻した泰明が声を上げる。落雷のすさまじさに、地面に膝をつき、

 同じように体勢を崩していた詩紋と頼久も、その身を起こし、三人の八葉がほとん

 ど同時に少女に駆け寄ろうとした時、壊れかけていた門は耐えかねたように、うな

 りを上げて崩壊し、門柱は倒れる前に火柱となった。

  少女の体にも火の粉が降りかかり、燃え上がる門の残骸の向こうにも火の手が上

 がっているのが彼らの目に映った。

 「あかねちゃんっ!」

 「神子殿!!」

  その呼び声が届いたのか、少女は頭を上げたかと思うと、炎に向かって、ゆらり

 と立ち上がった。それはまるで、見えざる手で動かされている人形のような、重み

 を感じさせない不思議な動きだった。

  少女は、ゆっくりとあたりを見回すように首をめぐらせた。

 「……あ……なんで……ここ……どこ…………?」

  何度もまばたきする彼女の瞳に段々と力が蘇る。

 「神子! こちらへ来い!」

  声を張り上げる泰明を見て、少女は首を傾げた。

 「泰明……さん? どうして……」

  ぼんやりと立ち尽くすあかねに駆け寄った途端、泰明は両手であかねの肩をつか

 んで自分の方を向かせると、強く揺すぶった。

 「神子! 神子か?! 戻ったのだな」

 「あかねちゃん、大丈夫?」

 「神子殿、お怪我はございませんか?」

  詩紋も頼久も、目の前のあかねの無事を確かめるのに必死であった。

 「平気だけど……あ……でも……」

  泰明に肩をつかまれたまま、炎に包まれ始めた屋敷を振り返る。

 「これ以上、ここに留まるのは危険だ。行くぞ」

  泰明は、そう告げると、あかねの肩を抱きかかえ、その場を離れようとした。あ

 かねはそれに抗うように激しく首を横に振った。

 「だめっ!! 中に……あの中に、まだ……っ!」

  少女にはあり得ない力で、泰明を振りきって、あかねは後も見ずに炎の中にその

 身を翻した。何の迷いも躊躇もなかった。死にに行くような悲壮感はなく、ただ一

 途で。



  この時のあかねを決して忘れることはないだろうと、詩紋は友雅に話した。

 「ああ、あかねちゃんだなぁって思ったんです。……すぐに朱雀が後を追って、大

 丈夫だって信じていても……恥ずかしいんですけど、ボクあの時、泣いてたような

 気がします」

 「恥じることはないよ。何より尊い気持ちではないかな、それは」

  友雅が言うと、詩紋は嬉しそうに笑った。



  心配続きだった藤姫にも、外出していた天真にも、一条戻り橋での騒ぎの晩から

 今朝までのあかねが、真のあかねでなかったことは、告げられなかった。今さら告

 げたところで、益はないというのが、それを知る四人の考えだった。

  もはや、朝から晩まで八葉が神子と同じ一間の側近くにつくことまでは必要ない

 と、泰明は請け負った。どのみち龍神が神子を呼び出すのなら、八葉がついていた

 ところで止めようはない。鬼は、龍神の神子によって確実に力をそがれつつあり、

 もはや玄武の解放の時まで自らの戦力を弱める真似はしないだろうというのが、そ

 の理由だ。

  夜になって土御門に帰ってきた天真は、彼が留守にした昼の間、あかねが出かけ

 て何やら一騒ぎしてきたあげく、またもや寝込んでいると聞いて、ひどく不機嫌に

 なった。しかし、今度こそ神子に大事はない、という泰明の言葉と、詩紋のなだめ

 で、ひとまず落ち着きを取り戻し、近付く玄武解放の日と、最後の戦いを前に、あ

 かねとともに、必ず妹を救うと改めて誓っていた。




  友雅は、その晩、自邸へ帰らず、土御門の屋敷に留まった。あかねの休んでいる

 西の対の中で、東廂の一部を屏風で仕切られた一間が友雅に用意され、そこで休む

 ように促された。

  だが友雅は眠る気になれない。今日は多くのことがあり過ぎた。

  できる限りあかねの側にいたいと思う。自邸よりは土御門。別の対よりは同じ対。

 叶うものなら、昨日までの数日のように、物忌みよろしく、御簾も几帳も取り払い、

 昼も夜も常にあかねの姿を目に入れていたいほどだ。

  泰明によって清められ、新たに結界の張られた西の対のどこにいても、龍神の神

 子であるあかねの気配を感じることができる。優しい気配に、ささくれだった心を

 柔らかく撫でられ、おだやかに満たされるはずなのに、それがかえって、友雅を不

 安で、やるせない気持ちにさせた。

  こんな物思いを、友雅は、ずっと知らずに生きてきた。

  胸がざわざわと騒いで、どうしても目を閉じて横になどなっていられないと悟る

 と、まだ望月に遠い、か細い月を求めて、夜具にしていた二藍の衵(あこめ)に袖

 を通し、与えられた一間から簀の子へと出る。

  庭に面した南廂の前に回ろうとして、ふと妻戸がわずかに開いているのに気がつ

 いた。そこから中へ入れば、いつも八葉が集う廂の間に通じ、御簾で分けられた、

 その奥の奥で、あかねは眠っているはずだ。友雅は何も考えずに、妻戸を押し開け

 て中へ滑り込んだ。そんな友雅を見とがめる者は、いなかった。


  しんと静まり返った南廂の下りている蔀戸の格子の間から、かすかな月光が、さ

 し込んでいる。そのあえかな光の中に、たたずむ姿があった。

  肩の上で短く切りそろえられた髪。か細い身体。一見、頼りなく見える体躯から、

 まぶしいほどの神気をあふれさせ、格子に手をかけ寄りかかるようにして月光の庭

 をながめているその人は、白い単衣に薄羽のように透けた萌黄の袿を一枚、羽織っ

 ただけの姿で、まるで、この世の者ではないように見えた。


 「月の姫君はお目覚めになられたね。そうして月が恋しいの?」

 「友雅さん……!」

  片手を格子に置いたまま、少女は振り返って友雅を見た。

 「名を呼んでくださるのだね。私の命の今日より先は、君に授けていただいた……

 ありがとう、神子殿」

  あかねはそっと首を振って、今度は体ごと友雅に向き直った。彼女の顔は、かす

 かな明かりの逆光になり、影になってしまったけれど、確かに微笑んでいるのが友

 雅にはわかった。

 「お礼を言うのは私の方です。友雅さんに何度も助けてもらいました。今度のこと

 でも……、今までの怨霊との戦いだとか、それだけじゃなくて……、本当ですよ。

 ありがとうございました」

  心からの礼が、どんなに美しく胸に響くか、友雅は、そんなことも知らなかった。

 「では、お互い様というわけだね」

  少しおどけて言うと、少女も安心したように笑って肩をすくめてみせた。

 「……友雅さん、まさか本当に私が月に住んでいたなんて思ってませんよね?」

 「君の世界は、私にとって月の世界と変わらない。私が決して行くことのできない

 ところだ」

  ゆっくりと庭に目を向けて話す友雅に、あかねがおずおずと声をかけた。

 「……桃源郷に輝く……月……みたいに?」

  友雅は驚いて、あかねを見つめた。

 「私ね、友雅さんに……話したいことや聞きたいことが、たくさんあったの……。

 でも、友雅さんは教えるのが好きじゃないって言っていたでしょう? うるさがら

 れたら……嫌われたら……悲しいなって思って……それで…………」

  あかねは、くるりと友雅に背を向けて、ふたたび格子にすがり外を見る。

 「私、たぶん、怖かったの」

 「……思い出したのだね」

  無理に自分の方を向かせるような真似はせず、友雅は静かにあかねの後ろに立っ

 た。

 「私が、みんな忘れてしまっていた時、友雅さんは、本当は別人の誰かが“自分が

 橘友雅だ”と言ったら私はそれを信じたろうって言ったけど、それ、逆も同じなん

 です。……ずっと考えてた……私が誰で……何を思って……誰が好きなのか。思い

 出しても同じかどうか……」

 「神子殿……」

 「友雅さんや、みんなのことが、わからなかっただけじゃない。……自分が一番わ

 からなかったの。龍神の神子の役目ができて……それなら、ここにいていいんだと

 思えたけど……でも、ランと心が入れ替わったら、もっと、わからなくなっちゃっ

 た……」

  あかねの小さく震え出した肩を目の前にして友雅は胸が詰まった。

  手を触れようとして、拒絶されたらと思うと恐ろしく、それができない。こんな

 ことも初めてだった。

 「ああ……違う……君を悩ませたかったわけじゃない。私が愚かだったばかりに君

 を傷つけたね。……すまない……許してほしいと…………ようやく私も言えるよ」

  振り返らずに、あかねは首を振る。

 「自分がわからなくて……自信も、記憶も、何もなくて……そしたら……そうした

 らね、友雅さんが見つけてくれたの…………私が、あかねだって……っ!」

  震えるあかねの手が握っている格子の枠が、かたかたと鳴っている。せめて震え

 を止めたくて、友雅はあかねの手に自分の手を重ねた。

 「私に無いと思っていた情熱を気付かせてくれたのは、君だよ」

  友雅は頭を垂れて、背中を向けているあかねの右肩に額をつけた。男のゆるやか

 に流れる髪が、少女の肩先からひじまでを覆う。そのまま肩に響く少しくぐもった

 声で友雅は話し続けた。

 「自分のすべてを引き換えにしても欲しいものなど、どこにもなかった。何かに本

 気になったこともない。いつでも心のどこかが醒めていて、何をしても、それは同

 じだった。……けれど、生まれて初めて、こんな私にも、どうしても無くしたくな

 いものができたんだ。なのに、私はそれを恐れたのだね。今なら、それがわかる。

 何か、ひとかけらでも君の中に私を残せたら、別れを迎えたその後は、思い出の海

 に身を投げてしまえば楽だと思ったのだよ。なんてひどい考え違いだろう。君を失

 う事より恐ろしい事など、今の私には無い。それに気付くのに、ずいぶん遠回りを

 してしまったけれど」

 「友雅さん、わたし……私……私ね……友雅さんが、す……」

  あかねが自分の右肩にある友雅の顔の方へ首を傾け、彼の目を見て告げようとし

 た言葉を、友雅は唇でふさいで飲み込んでしまった。

  驚いたあかねが呆然としているうちに、友雅は押さえていたあかねの手を取って

 少し強引に自分の方を向かせて格子から引き剥がすと、今度はしっかり抱きしめて、

 もう一度深く口づけた。

 「今度は……本気だ」

 「……さっきのは……本気じゃないの……?」

  突然の口づけに翻弄された、あえぎ混じりの、この問いに、友雅は思わず目を細

 めた。

 「君に触れる時、そこに込められた私の想いが偽りであることなどないよ。ただ、

 私の本気は君を泣かせてしまうかもしれないけれど……どうしようか」

 「え?」

 「一度手にしたら、きっと、もう離れていられない。それでも、私が、このまま朝

 まで君の側にいるのを許してくれるのかい?」

  あかねは何も言わずに、友雅に強くしがみついた。

 「ありがとう……嬉しいよ」

  彼女の覚悟を受け止めた友雅は、ふわりとあかねを抱き上げると、そのまま御簾

 の奥の寝間へ彼女を運び入れた。



  月明かりも届かない寝間には、燈台の小さな明かりがぼんやりと灯っていた。

  ついさっき、あかねが起き上がって来たままになっている帳台の褥に彼女を下ろ

 すと、自分は覆いかぶさるように身を横たえた。

  それ以上、無理に何をするというのでもなく、ただ優しく手を頬に差しのべると、

 あかねの瞳から涙がこぼれた。

  その涙は、友雅の胸にかすかな痛みをもたらしたが、それでも透き通った美しさ

 には目を奪われる。

 「わたし……私……忘れなくても……いい……ですか? 覚えていても……いい?」

  しゃくり上げるようにして言うあかねに、友雅は頷いた。

 「忘れないでおくれ。いや、忘れてもかまわない。何度でも思い出せるように側に

 いよう。朝も昼も夜も、君だけ。君だけだ。私の月の姫」

 「……友雅さん」

 「忘れられないように何度でも繰り返そう。こうして熱を分けあって、互いに互い

 を刻み込んで…………」

 「あ……っ」

  未知の領域へ踏み込まれたことの恥じらいと驚きからか、小さく抗うあかねに、

 もはや友雅は躊躇しなかった。別れの予感を吹き消すように、ひたすら優しく追い

 詰める。

 「逃げてもかまわないよ……私が追いかけるから」

  夜明けまで、離すつもりはなかった。




  ひとしきり触れ合って満たされた後は、ひとつ衾を引きかぶり、夢うつつにとろ

 とろとしながら互いのぬくもりを抱きしめあって、夜通し密やかに様々なことを話

 した。めぐり合うまでの離れていた時を埋めるように、伝えたいことは、いくらで

 もあった。


 「まだ見ぬ美しいものを君と見たい。めしいていた目が、君と会ってようやく開い

 たからね。これまで見えなかったものが見えると思う。炎の海さえ美しいと思った

 よ。ならば真の海は、どれほど美しいだろうか……歌や絵の中の海でなく」

 「友雅さん、海を見たことないの?」

  あかねが目を丸くした。

 「ああ。私は京を出たのも片手で数えるほどでね。君の倍も年を重ねていても、実

 は神子殿より、よほど世間知らずかもしれないよ」


  そう言って笑う友雅を見上げて、あかねも笑った。

  友雅の息があかねの額髪をさらりと吹き上げる。そのこそばゆさに、額を合わせ、

 また互いに微笑みあう。くり返される睦言も、さざ波のようだ。

  最後の日まで、この手は離さない。


  いつか海を見よう。

  そして一緒に数えて過ごそう。

  よせる波、かえす波。──ふたりで。





                  【 完 】





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