憬文堂
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う き 波  廿
仲秋 憬 




  泰明の使者である時鳥が土御門殿へ飛んできたのは、午後まだ日の高い頃だった。

 頼久は御簾奥で神子の側近くについており、詩紋はひとり庭の見える廂の間で空を

 ながめていた。ふたりの他に来ていた八葉は、すでにそれぞれの役目に散っている。

 天真も妹を探しに外出してしまっていた。

  時鳥は詩紋の膝に舞い降りた。

 「神子の居所をつきとめた。器を連れてこい。急げ」

  時鳥が泰明の声で伝えるのを聞いて、詩紋は御簾の奥に向かって声をかけた。

 「頼久さん、大変なんだ! あかねちゃん、いい? 解いたはずの玄武の呪詛が不

 完全に残ってるらしいって泰明さんから連絡が来たんだよ……」


  泰明が呼んでいると聞き、頼久と詩紋の八葉ふたりがついて行くと申し出れば、

 藤姫もそれを留めることはしなかった。

  幼い星の姫に心配そうに見送られて、龍神の神子とふたりの八葉は土御門の屋敷

 を出た。

  神子として必要とされていると告げられた少女は、ためらうそぶりを見せない。

 口数が少な目で、ほんの少し元気が足りなさげなところを除けば、いつものあかね

 と変わりはないように見える。それは、ここ最近の異変続きのせいで、あかねも疲

 れているのだろうと思えるくらいの違和感なのだが、友雅と泰明の話を聞いて、実

 際に少女と向き合った詩紋と頼久は、その違和感が一瞬ごとに強くなるのを止めら

 れなかった。最早ふたりは、目の前のあかねの姿をしている少女の中身が別人であ

 ることを確信していた。

  それが天真の妹であることを、どうして天真に話せるだろう。あかねとかれの妹

 の心が入れ替わっているなんて。八葉としての役目と、行方不明の妹を探すこと、

 好きな女の子を守ること。天真は京に来てから、自分の立場に感情を引き裂かれて

 悩んでいたのを詩紋は知っていた。

  今頃天真は、妹の蘭を探して、ろくに食事もせず、京のどこかを走りまわってい

 るのだろう。

  詩紋はそっとため息をついた。

  時鳥は高からず低からず目で楽に追えるくらいのところを飛んで行く。三人は口

 数の少ないまま道を急いだ。



 「双ヶ丘だね……」

  詩紋が時鳥を見上げながら、藪に覆われた丘にたどりついたところで、ぽつんと

 言った。

 「……ここに呪詛があるの?」

  少女が疑問を口にした。

 「覚えておられませんか?」

  頼久が尋ねると、少女は首を横に振った。

 「あの晩から前のことは……何だかはっきりしなくて……」

 「それは無理もございません。──あちらに泰明殿が」

  藪を抜けた先に、突然、この地に不似合いなほど大きな屋敷が見えて、門の前に

 泰明がいた。時鳥は泰明の頭の上をくるくると数回まわってから、どこかへ飛んで

 行ってしまった。


 「遅い」

  現れた三人に泰明が声をかけた。

 「申し訳ない」

 「ごめんなさい」

  頼久と詩紋が軽く頭を下げた。あやまった方も、あやまられた方も、特に気を悪

 くしてはいない。焦る気持ちはどちらも同じだ。

  少女はといえば、今まで鬼が利用してきたのかもしれない屋敷の前へ連れてこら

 れても、取り乱すようなことはなかった。特に心を動かされている様子もない。

 「こんなところに立派なお屋敷ですね」

  詩紋が感心した声を上げる。

 「……中へ入れるか? この屋敷全体が呪詛だ」

  泰明が頼久と泰明の後方に立つあかねの姿をした少女に向かって声をかけた。少

 女は少し不安げな顔で、ゆっくりと門の前へ進み出た。泰明は彼女の真後ろに立ち、

 右に詩紋が、左に頼久が並んだ。


 「どうしたらいいか……わからなくて……ごめんなさい…………」

  あかねの声で。あかねの顔で。力無くうつむく憂いの表情を見せられて、八葉た

 ちは何も感じずにはいられない。その憂いを取り除くためには何でもしたいと思っ

 てしまう。

  しかし、少女のその態度こそが、彼らの胸に、ますます違和感を広げて行くのだ。

 真のあかねならおそらく、思い出せないからと言って、その場であきらめたりはし

 ない。必ず、何かをこころみようとするだろう。いつも前向きな、その明るさと暖

 かさに、彼らは、皆、心を寄せていた。記憶を失う前も後もそれは変わらぬあかね

 の本質であったのに。


 「そうか……。龍神の力は、再び封印されてしまったようだな」

  泰明は責めるでもなく、そう言って、音もなく一歩足を踏み出し、少女との距離

 を詰めた。それとほぼ同時に、詩紋と頼久は、少し引いた位置に下がる。少女は門

 に背を向けて泰明と向き合った。視線があったところで、おびえたように一歩下が

 る。少女の背中は門に突き当たって、それ以上後ずさることは不可能だった。

  泰明はかまわず右手を少女の肩へ置き、言った。

 「だが、ここまで来たのだ。力の具現化は試みる価値がある。目を閉じて……己の

 内なる声を聞き、この地に眠る力を引き出す……やってみるがよい」

  泰明が、さりげなく少女を導くように、肩に乗せた手を引き、後ろへ数歩下がっ

 て娘から離れると、彼女はそのまま泰明について同じように数歩前へ出て、門から

 少し離れた。

  少女は泰明に言われた通りに目をつむり、祈る時のように胸の前で両手を組んだ。

 その仕草は、いつものあかねの仕草とまったく変わりはなかったが、やはり何も起

 こらなかった。

  しばらくして、彼女は目を明けると小さく首を振ってから、すまなそうに視線を

 落とした。

 「無理みたい……」

 「いや、かまわぬ。それも仕方あるまい。──お前は、今、本来の姿でないのだか

 らな。だが、このままにしておくわけには行かぬ。我らには、それほど時は残され

 ておらぬし、ゆがめたままの姿に長くあると、真の姿に戻れなくなる」

  泰明が何を言わんとしているのか少女に伝わったかどうか。彼女はうつむいたま

 まだ。

 「お前を元のあるべき姿へ戻す。私の言う通りにしてもらう」

 「……忘れたことを思い出す……ということ?」

 「最後には、そうなればよいがな」

 「……龍神の神子として……龍神を呼べれば…………力があれ……ば……」

  少女のつぶやきは、まるで呪文のようだ。彼女はじりじりと、また門に向かって

 後ずさりを始めていた。三人の八葉は言葉もなく、射抜くような瞳で少女を見る。

 彼女は彼らを見ていなかった。

 「…………私は今ここに、こうしていなかった」

  少女の背が再び門に突き当たり、もうそれ以上は下がれないところまで来た。泰

 明が彼女に近寄るべく、足を出そうとした時、少女は叫んだ。


 「来ないで!!」


  泰明はぴたりと動きを止めた。

  少女の手には抜き身の小太刀があり、その刃先は自分の喉に向けられていた。

  詩紋は息を呑み、頼久は唇を強くひき結び歯噛みした。


 「いつの間にそのようなものをお持ちになられましたか……」

  頼久が隙のない動きで手を差しのべようとすると、少女はぐいっと刃を喉に当て

 た。

 「やめろ!」

  泰明の声に頼久も石のごとく硬直した。

 「それ以上近付いたらのどを突く。私は別にこの体を失ってもかまわない。この体

 が傷ついて困るのはお前達だ」

  ぎらりと鈍く光る刃を手にして感情を押し殺した声で話しているのは、龍神の神

 子であるあかねではない。もうそこには、龍神の神子をなぞろうとする少女はいな

 かった。

 「そんなことをすれば、今、その器の中にいるお前も無事では済むまい」

 「かまわない……龍神の力を使えぬまま見破られ、お館様のお役に立てぬ時ような

 ら、その場で命を絶てばよい。そうすれば龍神の神子は失われる」

 「だめだよ! そんな……天真先輩が悲しむよ……お兄さんでしょう? あなたを

 とても心配して、ずっと探してるんだよ。ねえ……」

  詩紋が震える声で説得を試みる。

 「そのような者は知らない」

 「元に戻って、一緒に帰ろう? そうしたらきっと思い出すよ」

  少女は返事をしない。もう詩紋の声を耳に入れてはいないらしい。


  さっきまで夏の日が輝いていた空が、みるみる内に黒雲に覆われ、あたりが急に

 暗くなった。しかし、その昼間とも思えぬ暗さに、その場にいる四人は注意を払う

 所ではなかった。

  うかつに触れたら切れそうな張りつめた糸か、あふれる寸前の水瓶のような、ぎ

 りぎりの緊張感の中にさらされて、誰一人動き出すことができない。ほんの少し、

 その均衡が破られれば一気に何かが崩壊する。

  武芸に秀でた頼久をして一歩も動けず、稀代の陰陽師の一番弟子である泰明です

 ら呪ひとつ、つぶやけずにいる。

  暗くなった空の雲の向こうで獣の咆哮のような雷鳴が遠く響いた。

  それでも四人は位置を変えず、天を仰ぎ見ることもしなかった。


 「……鬼が龍神の神子を欲しているから、このようなまねをしたのだろう。ならば

 お前達も神子の体を失って益はない」

 「敵にあり、我らの邪魔になるばかりなら、いっそ無いほうがよいとお館様は言わ

 れた……。神子は敵。八葉も敵。私はお館様のご命令に従うだけだ」

  泰明が言っても、少女の態度は変わらない。あかねの声で紡がれる鬼に捕らわれ

 た言葉は、なお一層、彼らを締め付けた。


  三人の八葉は一気に少女に飛びかかって押さえこむには、まだ離れ過ぎていた。

 門を背にした彼女を取り囲むようにして、すり足で、じわりじわりと距離を縮めて

 いこうとする。

  頼久が音を立てずに、右手を腰の太刀にかけた。

  それに気付いた少女が喉に当てていた小太刀の刃を横一文字に引く。

  夜のように暗くたそがれていた辺りに、カッと閃光が走り、少女の手にある刃が

 白く光った。

 「やめろ──っ!!」

  次の瞬間、すさまじい光があふれ、地響きを伴う雷鳴がとどろき渡り、白い稲妻

 の柱が鼓膜を破らんばかりの轟音とともに大地に突き刺さった。
 
  それはまさしくあらぶる神の怒りの激しさを示すかのごとく、その場のすべての

 者を打ちのめす。

  誰一人として、まともに受け止められるような生半可なものではなかった。神の

 鉄槌のあまりの衝撃に、耳をふさぐことも、目をつぶることもできず、光の爆発に

 さらされて、何を感じる猶予もなく、いきなり体中の骨を砕かれたように、てんで

 に、その場へくずおれた。

  柱の中心には神子の姿が確かにあった。少女の手にあった小太刀をめがけて、そ

 の鳴神は落ちたのだ。
 








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