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う き 波  拾八
仲秋 憬 




  神子と藤姫の前を辞した安倍泰明が土御門殿の東門を出ると、すぐ先の辻に面し

 た築地に寄せて牛を外した網代車が一台停まっていた。

 「待たせたな」

  泰明が車の脇に控えていた従者の男に声をかけると、男は一礼して車の簾を巻き

 上げる。中に座っていたのは内裏から呼び出しの使いが来て出仕したはずの左近衛

 府少将、橘友雅であった。

  泰明は素っ気なく友雅に声をかけた。

 「牛車でゆるりと移動などしてはいられぬ。おのが足で行くぞ」

 「かまわないよ。どこへ、と訊いてもいいかい?」

 「決まっている。一条戻り橋だ」

  泰明はそう言い捨てて、早足で歩き出す。友雅はすばやく車から降りると、泰明

 の後を追った。


  夏の日差しが照り付け始めた乾いた道をふたりは急ぎ歩いた。すぐ後を歩く友雅

 を振り返らずに泰明が告げる。

 「手がかりは橋にしかない。幸い一条戻り橋の下にはお師匠の式神がいくらかいる。

 橋が異界へとつながる時を見定めることは可能なはずだ。ただし、いつ道が開くか

 はわからぬ。何か鍵があるかもしれぬが」

 「そこしか道がないと言うなら、こじ開けてでも通るしかあるまい」

  何でもないことのように友雅は言った。泰明の足は、ますます早くなるが、友雅

 は少しも遅れを取らず、同じ歩調で道を急ぐ。

  道すがら友雅が泰明に問いかけた。

 「できれば、もう少し早く来ていただきたかったね。我らはともかく、有能な陰陽

 師たる泰明殿が、どうしてあの晩の内に、神子殿が神子殿でないことに気付かれな

 かったのか、不思議でならないのだけれど」

 「……気があまりにも似ていた。眠りについている内は判別できぬ程に」

 「神子殿を決して見失うことはないはずの泰明殿でもかい?」

  ずっと無表情であった泰明から、紛れもなく不機嫌そうな感情のさざ波が立った。

 「器は影などではなく、確かに神子そのものだ。その中に表裏一体ともなる存在の

 魂が入っていて神子たろうとしていた。お前が考えるより、ことは容易くない」

 「このありようを軽んじているつもりはないよ」

 「そうは言っていない」

  少しの沈黙の後、今度は泰明が尋ねた。

 「お前は、いつ気付いた?」

 「最初は私の気のせいかと思ったよ。あの異変の後だ。神子殿は記憶も戻らぬまま

 だし、呪いか怨霊の穢れのせいかとも考えた。でも、それなら泰明殿が真っ先に気

 付いたはずだからね」

  友雅は歩きながら、遠くを見つめ、ひとつずつ確かめるように話した。

 「……目の前にいるのは確かに神子殿のはずなのに、近く側にいて何でもない言葉

 を交わすたび、私の中で何かが違うと叫ぶのだよ。見た目は確かに神子殿だ。けれ

 ど、あれは違う。記憶の有無が問題なのではないよ。魂が別物だとしか私には思え

 なかった。神子殿をなぞろうとしている別人としか。……しかし、本当を言えば私

 にも自信が無くてね。こうして君を頼っているわけだ。愚かな年寄りの私は、ここ

 までの目に遭わなければ己を知ることもなかったのかと腹立たしくもなるけれど、

 でも知らずに命を終えるより、よほどいい。所詮、はかない一時のうたかたの命と

 見限っていたことを思えば雲泥の差だ。神子殿は取り戻すよ。必ず」

 「無論だ」

  泰明は大きく肯いた。

  一条戻り橋は、もう目と鼻の先のところまで来ていた。




  真昼の一条戻り橋は、特に怪しの気配に包まれているということはない。だが元

 より橋という物は隔てられた二箇所をつなぐ目に見える呪法のようなものだ。ゆえ

 に異界への道も作られやすいと泰明は説いた。

  ふたりの八葉は、橋のたもとに立ち、行き交う人をしばらく眺めていた。ひっき

 りなしというわけではないが、それでも時折、道を急ぐ者や牛や馬を引く者が通る。

  友雅が泰明に問いかけるような視線を送ると、泰明は、背の低い柵をひょいとま

 たぐような身軽さで、橋の下へひらりと飛び降りた。

 「泰明殿!」

 「そこで待っていろ」

  泰明の姿は川原の葦が生い茂る橋の下方に隠れてしまい、友雅が橋の上から見て

 も、どこで何をしているかは確かめられない。

  友雅はちいさく息を吐いて、欄干に身を持たせかけ、泰明が戻るのを待った。


  日陰のない橋の上に立ち尽くしでめまいを感じる前に、泰明が降りた時と同じく

 唐突に戻ってきた。まるで目に見えぬ翼で飛び上がってきたようにふわりと飛び上

 がって来て友雅の前に立つと、何の前置きもなく言った。

 「鬼は、やはり呪法で路(みち)を作っている。その跡を追うしかない。日の暮れ

 る戌(いぬ)の刻が確実だが、それまで待つ猶予はない」

 「手段は?」

 「八方の内、何処かに道は開く。私の五行属性、土で中央を押さえ、八卦の艮、鬼
 
 門より路を探す。金にして兌、西方を示すお前がいる。よって寅の二刻から酉の二

 刻までを今から橋の上で数える」

 「酉の刻まで、ここで待つのかい?」

  夕刻近くまで、ただ待っている時間は、いかにも惜しい。

 「そんな悠長な真似はせぬ。お前が言ったのではないか。道が無くば、こじ開ける

 まで。神子のもとへ行くと強く念じろ。失敗を考える必要はない」

 「承知した」


  人通りが切れるのを見計らい、泰明は友雅と共に橋のたもとに立った。

 「歩幅を私に合わせろ。橋の板目を四目ずつで一辰刻だ」

  足下の板目を見つめながら泰明が口の中で何事か呪文を唱えるのを友雅は黙って

 見守った。

 「よし……寅より始めるぞ。寅、卯、辰、巳……」

  泰明は、一辰刻を叫ぶごとに橋の中央を一歩進む。一歩はすべて等しく板目四つ

 だ。友雅は注意深く泰明に足並みを揃えた。

 「……午、未、申……酉!!」

  七歩で橋を二十八目刻み、八歩目にさしかかった時、橋の上にぽっかりと浮かび

 上がった黒く渦巻くゆがみの中に、こことは別の場所がぼんやりとのぞく。確かに

 あの神子を失ったであろう晩、鬼の首領が現れ消えた時と、よく似たことが、同じ

 橋の上で起きていた。

 「今だ。行くぞ!」

  ふたりは八歩目で、現れた黒いゆがみへとその身を躍らせた。


  ゆがみの中へ入ると、確かに今、歩いてきた橋は影も形も消え失せて、黒い霧の

 中に迷い込んだように不確かな、何処かにいた。足下にしっかりした地を踏みしめ

 ている感覚もない。

 「──これは」

 「案ずるな。目で見ることができない道を通っているだけだ」

  泰明が告げた途端、体が引き絞られ、狭い穴蔵からどこかへ押し出されるような

 心地がして、気が付けば広く視界の開けた藪のただ中にふたりは降り立っていた。


  乾いた風にゆれる藪草や低い灌木の茂みが続いている。

 「ここは……双ヶ丘じゃないか」

 「そのようだな」

  友雅のつぶやきを泰明が肯定した。

 「神子殿が、ここにいるのかい」

 「穢れを感じる……この地はそう遠くない以前に、神子が清めていなかったか」

 「ああ。怨霊を封印まではされなかったように思うが」

 「それでか。……しかし妙だ。怨霊が復活するには早すぎる」

 「ここで何かゆゆしき事があったのだね」

 「そう考えるのが理にかなっている。危なくなったら呼べと、あれほど言い置いて

 いたが、神子は八葉を呼ばなかった。今だ神子の声は聞こえぬ」

 「呼ばなかったのではなく“呼べなかった”ということは?」
 
「あり得る。我らも器と魂の入れ替わりに直ぐには気付けぬほどだったのだからな。

 神子の声は本来の躰と異なる器に閉じこめられ、届かぬ状態にあるのだろう。だと

 すれば今の神子に龍神の加護は及ばないということだ」

 「神子殿が鬼の手の内にあるなら、それこそ猶予はないね」

 「待て」

  泰明が友雅を遮った。

 「獣でも怨霊でも神子でもない異質な気の名残がある」

  泰明は目を閉じ、見えない気を探るために集中する。友雅は邪魔をせぬよう黙っ

 て控えていた。

  近くで時鳥が鳴くのが聞こえる。

  しばらく探っていた泰明が、かっと両目を開けると、無造作にやぶをかき分け、

 道なき道を進みだした。

 「来い。こちらだ。近いぞ」

  友雅は唯一の案内となる彼の後を無言で追った。



  丘を越え、ほどなくして北山への境あたりに見慣れぬ屋敷に突き当たった。人の

 気配はなく、貴人の山荘のように見える小さからぬ屋敷である。

 「こんなところに、どなたかの屋敷があったかな。しかも捨ておかれて久しいよう

 な……」

 「友雅──この中だ。奇しの気を強く感じる。間違いない」

  泰明が断言する。

 「何者かの結界がはられているな。かなり大がかりだ」

 「それでは中に大事な何かを隠していると言っているようなものだね」

 「常人は、この屋敷には気付かぬ。目で見ても何かあるとは感じぬはずだ。ここに

 は何もないと素通りしてしまうだろう。そういう結界がはってある。鬼の呪術なの

 だろう」

 「神子殿が……中に閉じこめられているのか」

 「おそらくな。正しくは魂が神子である者だが」

 「どうすればいい? 神子殿を助け出さねば始まらないだろう」

  友雅は門の戸を強く押したが、開けることはできなかった。

 「少し下がっていろ」

  泰明は閉ざされた門の前まで進むと、握った左手から白砂をさらさらと地面に落

 とし、肩幅ほどの円を形作る複雑な文様を書いた。

 「神子の助けがないのでな……使える術も限られるが」

  そう言って泰明は書き終えた文様の上に立ち、目を閉じて両手の指を組み印を結

 ぶ。泰明が小声で祈るように、口の中で他人が聞き取れない呪文を一心につぶやい

 てみせると、びくともしなかった門が、まるで見えない門番がそこにいるかのごと

 く、ひとりでにきしむ音を響かせてゆっくりと開いてゆく。

 「行け!」

  両手の印を解かずに泰明が叫んだ。

  友雅は後方から駆け込むようにして、わずかに開きかけた門の両扉に手をかける

 と、泰明を振り返った。

 「泰明殿は?」

 「ここを押さえておく。お前にそれは無理だからな。中はまかせる。神子を必ず連

 れて来い。私はこれから土御門にいる神子の器をここへ呼ぶ。ふたつの魂と器がそ

 ろえば元に戻す術は探せる」

 「わかった。頼んだよ」

  扉がぎぎと音を立て半分ほど開いた。友雅は両手で開いた門扉の両側を分けるよ

 うにして体を入れ、屋敷の中へと滑り込んだ。

  それと同時に泰明が印を解くと、門は直ぐさま大きな音を響かせて閉まった。


  友雅を見送ってから門に背を向けた泰明が、右手を高く上げ左指を口に当てて指

 笛を吹く。時鳥が一羽飛んできて、泰明の手に舞い降り、とまった。

 「土御門殿へ行け。頼久、詩紋。神子の器を連れて来るがいい」

  時鳥は泰明の命を受け、美しく一声鳴いてから、土御門を目指して梢高く飛んで

 行った。








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