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う き 波 拾七
仲秋 憬 




  荒れ野のように生い茂る藪(やぶ)を乾いた風が鳴らす丘に、アクラムと少女は

 忽然と現れた。藪の中に立った途端、少女は肩を抱かれていたアクラムから飛びす

 さるようにして身を離したが、アクラムは格別に焦るそぶりも見せず少女を見据え

 て傲然と言い放った。

 「さあ、力を現すがよい。そなたが龍神の神子ならば」

  少女の意識はあかねでも、体は別人で、そうでなくても、あかねには自分がどう

 やって龍神の神子の力を現していたか、わからなかった。意識してやっていたこと

 ではない。呪詛の浄化も、力の具現化も、怨霊の封印も、過去の記憶に関わらず気

 付かぬ内に成し遂げていたのだ。

 「そんなの……どうやってたか、わからないよ……」

 「相手がいるか。では呼ぼう」

  アクラムが何事かを口の中でつぶやき、胸の前で印を切った。

  わずかの間で遠く地鳴りがしたかと思うと、日の照りつける真昼であったはずが、

 にわかに空かき曇り、周囲は薄闇に包まれる。

  禍々しい気配が辺りに満ちあふれ、蛇が威嚇するような鳴き声が響く。少女の前

 に大蛟(みずち)のごとき怨霊が現れた。

 「な、何っ?!」

  少女が悲鳴を上げる間もなく、怨霊は彼女に襲いかかった。

 「そなたが神子ならば封印するもよし、ランであれば、その程度の怨霊、従わせる

 ことも容易かろう」

  いつの間にか少女から距離を取り、まるで高みの見物といった態のアクラムの言

 葉が、娘の耳に届いていたかどうか。

  少女はなす術もなく襲い来る怨霊を避けるのに必死であった。

 「だ……だめっ! 来ないで……いやぁ!!」

  怨霊と戦う術は少女には無く、ただひたすら逃げまどう。藪草は少女の手足に、

 いくつものすり傷を作り、血がにじんだが、それにかまう暇はない。穢れをまき散

 らす鋭い攻撃が少女をかすめ、火傷したような痛みが体のあちこちに走ったが、ど

 うすることもできない。

  龍神の神子であるあかねとして戦ったわずかな記憶は、何の役にも立たなかった。

 無意識に唱えていた呪文は今まったく頭に浮かぶことはなく、懐に入れていた様々

 な札も、ここにはない。しかし、たとえ札があったとしても、どう使えばいいか少

 女にはわからなかった。

  髪を振り乱して無我夢中で走り、取り込まれそうになるぎりぎりのところでよく

 避けていたが、疲れを知らぬ怨霊の素早い動きに、少女は、とうとう足をもつれさ

 せ、藪の中で転んでしまった。

  助けを呼ぶ声も出ない。もはやこれまでと悟ったのか、固く目をつむり、何かを

 覚悟したかのようにその場へうずくまる。

  奇蹟は起こらない。

  その小さな体に怨霊が覆いかぶさり、少女を呑み込むと見えた次の瞬間、それま

 で何一つ手を出さなかったアクラムが叫んだ。

 「もうよい。とく去ね!」

  怨霊は幻のごとくかき消え、辺りには日の光が戻り、荒々しく踏み倒された藪の

 中にうずくまる少女だけが残された。

  少女に意識はないのか、起き上がる様子はない。

  アクラムは朱の衣の裾を風になびかせ、少女の元へ歩み寄ると、無事を確かめる

 こともせず、ただ見下ろしていた。

 「やはり魂だけでは無理か」

  返事をする者はない。

  アクラムはおもむろに少女を抱き上げると、重さを感じさせない足取りで、ざわ

 わと鳴る藪を分け、進んでいった。





  次に少女が気が付いた時、彼女は、薄暗い屋内で、畳はおろか筵(むしろ)すら

 ない板の間の上にいた。

  几帳や屏風といった調度も一切無く、目に映る物と言えば、ささくれだった板の

 床に太い柱、灰色に見える壁、すき間からわずかに光がもれる板戸や、破れかけた

 襖障子などで、荒れた雰囲気のそこは廃屋の中のようである。内と外を隔てる御簾

 や格子といったものは見あたらず、それなりに大きな家屋の奥に位置しているらし

 いことしかわからない。

  少女の両手両足は拘束され、自分の意志で動くことはできなかった。背中にまわ

 された手首は部屋の柱につながれて、両足首も歩けぬように荒縄できつく縛られて

 いる。

  空気はよどみ、ほとんど瘴気と言ってもよい重苦しい気に包まれて、少女は息を

 するのもやっとであった。


  柱にもたれるようにして座らされている少女は、わずかに震えつつ、気丈にも目

 の前に立っているアクラムと名乗る男に問いかけた。

 「……私を元に戻して。龍神の神子の力が無ければ、役立たずなんでしょう? 怨

 霊だって、どうしてあげることもできない……。あなた、さっき見てたじゃない」

 「そう決めるのは、まだ早い。今すぐには無理でも、時をかけ、器と魂がなじみ分

 かち難くなれば、その命をつなぐために力は現れるやも知れぬ。ランが陰の力を現

 すのにも、それなりの時がかかったものだ」

 「私は、その子じゃない……。やろうとしたって、できないし、そんなの意味ない

 よ……。帰して……帰してよ……」

 「どこへ帰るというのだ。八葉の元へか? お前の育った世界へか? どちらも覚

 えておらず、力も現すこともできぬ、そなたの居場所は無いであろうに」

  少女は、びくんと肩をふるわせた。

 「ここは怨霊を呼ぶことも、土地の力を引き出すことも、できるはずの地だ。龍神

 の力を現せ──さもなくば果てるがよい」

  力無くうつむいた少女は、それでもゆっくりと疑問を口にする。

 「どうしてこんなことするの? 龍神の力で何をしたいの? 私も、ランっていう

 子も、自分でどうしようもないのに……。何も覚えてなくても……体と中身を入れ

 替えたって、私は、あなたの言いなりにはならない」

 「黙れ。そなたをどうするかは私が決める」


  アクラムは膝をつくと、身動きできず柱に縛りつけられている少女のあごを、片

 手でくいと持ち上げ、息のかかる位置まで仮面の顔を近づけた。

  少女の長い髪がさらりと揺れる。

 「……いっそ、このまま我がものにするのも悪くはないか。中身が違えば同じ躰で

 も随分と異なる趣があろうというもの。言いなりの人形を抱いても興は乗らぬしな」

  じりじりと追いつめ、なぶるような仮面の下からの値踏みの視線に、少女は身を

 すくませる。しかし逃げ場は、どこにもなく、目をそらすことさえ許されない。

 「……狂って……る…………」

 「そう思うか?」

  アクラムは、少女のあごをとらえている手はそのままに、縄の下の衣の袷にもう

 片方の手をかけ強引にゆるめると、彼女の白い首筋をついと撫でた。

  少女は無理に触れられる恐怖で本能的に総毛立った身を、あらん限りの力でよじ

 り、悲鳴を上げた。

 「やめて! いやっ!! それ以上何かしたら、舌かんで死ぬから……っ!!」

 「やってみるがいい」

  ぞっとするほど感情をそぎ落とした冷たい声が、天井板の無い、がらんとした部

 屋に響いた。

 「いっそ気が狂うことができていれば、我らもずっと楽であったろう。そうたやす

 く死んだり狂ったりなど、できぬものだ。人でも──鬼でもな」

  自分を支配しようとする男の仮面に隠された表情は、間近にあっても、うかがう

 ことはできず、薄い唇が真実を刻むのを、少女はただ見つめていた。

  男の言葉が彼女を絶望の淵に追いやった。少女には、舌をかみきりその場で自ら

 死を選ぶことなど、できはしない。


  少女の見開かれた黒目がちの眼から音もなく涙がこぼれ、頬をつたって、あごを

 おさえる無慈悲な男の手をも濡らした。

  その途端、男は、突然、興味を失ったかのように、少女にかけていた手を離すと、

 自由を奪われ自分が泣いていることにも気付いていないらしい娘に背を向けて、何

 処とも知れぬどこかへ立ち去った。










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