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う き 波  拾六
仲秋 憬 




  龍神の神子に仕える星の一族で、最後のひとりである藤姫は、いつものように朝

 の支度が済んだ頃を見計らって参上した。

  昼も夜も八葉が側近く守るといっても、その日の身支度や一日二回の食事の間ま

 で、張り付いているわけではなかったし、特に朝、今日の予定──つまり八葉の内、

 誰についてもらうかを神子に尋ねるのは藤姫の役目で、この時ばかりは八葉も神子

 の前から下がっていた。

  もっとも、神子が指名するのは、ここ数日はただひとりの八葉だけであったので、

 最近はわざわざ呼び出す意味もないようなやりとりが続いていたのだった。


 「おはようございます、神子様。お加減はいかがでございますか?」

  神子がいつまた行方知れずになるかと気が気でない藤姫は、玄武を解放する子の

 日が来るまで、できる限り、神子に外出などせずに、大人しく八葉に守られていて

 欲しいと考えていた。

  ただでさえ未だ記憶は戻らず、行動も心許ないのだ。神子が外出先で鬼のたくら

 みや怨霊などの穢れに悩まされたあげく、倒れでもしたらと思うと、藤姫は胸が不

 安で張り裂けそうな気分になる。

  このところ、神子が奥の間から動かずに過ごしていることは、体をしっかり休め

 てもらえるいい機会だと藤姫は思っていた。あかねが龍神の神子として本当によく

 働いてきたことに藤姫は深い敬意と感謝を抱き、日々ますます神子に傾倒していた

 のである。


 「そろそろ八葉の方々もお集まりになっておりますわ。……そうそう、本日は朝早

 くから泰明殿がいらっしゃって、神子様のご様子を先に伺いたいと申されています。

 お通ししてもかまいませんか?」

 「様子……?」

 「ええ、神子様のいらっしゃるこの対の屋は泰明殿がはられた結界に守られており

 ますけれど、神子様の御身に何か悪しき呪いや穢れなどが残っていては大変です。

 陰陽師の泰明殿ならば、すぐに良きようにしてくださいましょう」

 「特に具合は……悪くないけど……」

 「それはよろしゅうございました。でも神子様ご自身で気付かぬことがあるといけ

 ませんし……」


 「神子、入るぞ」

 「泰明殿!」

  藤姫の話をさえぎり、神子の承諾を得る前に、泰明は御簾を上げ、神子と藤姫の

 いる奥の几帳ひとつを隔てたところまで進み入った。藤姫は顔色を変えたが、泰明

 に気にする様子は一切なかった。

 「具合はどうだ? 一条戻り橋で倒れた晩から、身体に障りは感じていないか?」

 「……はい」

  突然の泰明の問いに神子は素直に答えた。

 「そうか。他に変わったことはないか?」

 「いえ……何も思い出せないままだし……あの、何か……?」

  几帳越しの対面であったが、泰明はその色違いの両目で神子の気配をすべて見通

 すかのように、こちらを一心に見ているのが、藤姫には感じられた。泰明は単に目

 で見ているだけではないのだろう。

 「……神子の身に呪や穢れはない」

  しばらく気を探るのに集中していてか、黙っていた泰明がこう告げると、藤姫は

 神子の隣で安堵の息をついた。

 「だが、龍神の力を顕わすためには、器としての身体だけが整っていても、気だけ

 が高まっていても、叶わぬものだ。物忌みも近い。今しばらくはやはり八葉を近く

 に置き、できるだけ身体を休めて、子の日を待つのが上策であろう」

 「わかりましたわ。神子様、ご退屈かとも思いますけれど、今しばらくご辛抱くだ

 さいませ」

 「ええ……それはいい……けど……でも、それでいいの? 龍神の神子として、何

 か……」

 「神子様はもう充分すぎるほどのお働きをなさってくださっております。神子様に

 今一番していただきたいことは、一日も早くご本復いただき、つつがなく過去を取

 り戻されて、神子様の元のお暮らしにお戻りいただくことですわ。そのためなら、

 わたくしにできることは、どんなことでもいたします。どうか体を休めてお楽にな

 さっていてくださいまし。今の京では、神子様にとって、ここがどこよりも安心な

 場所と信じております。そうでしょう? 泰明殿」

 「問題ない」

  泰明が肯定したことに藤姫は力を得て、傍らの神子に改めて尋ねた。

 「では神子様、本日はどなたについていただきましょうか? よろしければ、今日

 はこのまま泰明殿に……」

 「いや、私はこれから所用あって向かわねばならぬ所がある。八葉の役目にも関わ

 る件ゆえ、今日はこれで失礼する」

 「まあ、そうでございましたか。……それでは神子様、いかがなさいますか?」

 「あ……あの……できれば今日も」

 「友雅殿でございますか? あの方は先程、神子様がお支度をされる間、ご自分も

 一旦下がられましたけれど、きっともうお戻りでしょう」

 「友雅には内裏より使いが来ていたが。表向きは伏せていたが、あれは勅使のよう

 だった」

 「それでは主上の……。友雅殿が、ここ数日、参内されなかったからでしょうか。

 八葉の役目が第一なのでかまわないと、ご本人はおっしゃっていましたのに」
 
 泰明の指摘に藤姫が顔を曇らせる。

 「他の八葉も、もう集まっているだろう」

 「神子様、どういたしましょうか」

 「あ……あの、誰って、まだよく……私……」

 「そういえば、神子様が記憶を失われてからは、友雅殿と泰明殿がずっとお供をし

 ていたのですね。やはり、面識なく感じられる方でないほうがよろしいでしょうか。

 天真殿か詩紋殿なら……」

 「頼久もすでに来ている」

 「そう、頼久も、いつも宿直させておりますし、神子様がお気をつかわれることも

 ないかと存じます」

 「…………じゃあ……お願い……します」

  その返事を聞いてから、泰明は神子の前を辞して下がり、今日、神子を守る役目

 は、頼久が努めることになった。







  闇に閉ざされたそこはただ静かだった。風の音も、木々のざわめきも、人の行き

 交う気配もなく、針の落ちる音さえ響きそうな無の空間。

  人が恐れを抱かずにはいられないであろう闇の中で、否応なく呼び立てる鈴の音

 でもなく、霞がかった過去を思い出させる声でもなく、耳慣れぬ低い声が唐突に響

 いた。

 「──目覚めよ。そなたをここへ呼んだのは私だ。目覚め、その力を現すがよい」

  冷たい水の雫が一滴、少女の頬に落ち、その拍子に娘は目を開けた。

  辺りは暗く、どのような所にいるのか目で見て確かめることはできなかった。

  少女はゆるゆると身を起こすが、まだ目覚めきっていないのか、体は重たげで、

 気だるさを隠せない。口から出る言葉も、ひどくうつろだった。

 「…………ここ、どこ──?」

 「我らの砦とでも言えばよいか」

 「我ら……?」

 「鬼の一族と言えばわかるか」

 「鬼って……鬼なんて……そんなの、いない…………」

 「しかし、我らは生まれ落ちたその日より、鬼として扱われ虐げられし者だ。そし

 て、そなたも我らの内に立ち混じる限り、そう呼ばれるであろう」

 「……何言ってるのかわからないよ……。頭、痛い……」

  ぼんやりした意識をはっきりさせたいのか、少女は左手で額を押さえ、頭を振っ

 た。長い髪がさらりと肩から下へ揺れて流れ落ち、自分の膝をかすめたのに気が付

 いて、少女は、はっとその身を固くした。


  鬼と名乗る男が彼女の前に左の手のひらを上に向けて差し出すと、その手のひら

 のほんの少し上に、こぶし大の青白い炎の玉が浮かび上がり、わずかに辺りを照ら

 した。自然の岩屋とおぼしき場所の硬い地べたの上で、かろうじて身を起こしかけ

 た少女の前に、朱の衣を身にまとう男が片膝をつき、この場で唯一の明かりを掲げ

 る。

  男の顔は仮面に隠れていて表情はわからないが、仮面の下からひたと少女を見つ

 めている気配があった。

  少女は、ようやく与えられた視界に呆然としていた。目の前の男にではない。

  彼女が見ていたのは自分の両頬に触れ、膝まで流れている自分の髪だ。くせのな

 い黒髪をすくい上げてかざし見る。

 「何……? これ……私の……」

 「今のそなたを何と呼ぼう。『ラン』──と? それともやはり『神子』か?」

  男の問いかけに少女は初めて前を見た。

 「あなたは……」
 
 「我が名はアクラム。それも忘れたままか」

 「……私は…………」

 「そなたは過去を失いし者。我が京に呼び給いし娘よ。何も覚えてはおらぬのだろ

 う?」

 「私……私はこんなじゃない。ランって名前じゃない……私は……私は……っ!」

  少女の手が震え、細くなめらかな髪の毛は彼女の手から滑り落ちる。

 「なぜ、そなたにそれがわかる?」

 「なぜって……とにかく違うもの! みんなは、どこ? どうして……いつ、こん

 な……」

  我と我が身をなでさすり、身につけている衣の袖や裾を何度も確かめ、少女が惑

 乱の態を見せても、男は動じない。

 「そう……肉の器と魂を違える術は、よほどの条件が揃わねば叶わぬ。あの一条戻

 り橋は、希有な機会であった。神子の器がふたつ、同じように過去を失い、魔の刻

 に共にあるとはな」

  笑いを含んだ声でアクラムは話を続けた。

 「一体誰がそのようなことを信じる? 過去を失った娘の魂が別のものだなどと。

 そなたには、それを証す記憶がない」

  残酷な事実が容赦なくさらされる。

 「ランと呼ぼうが、神子と呼ぼうが、その身は私の手の中にある。今、ここにいる

 そなたは私のものだ」

 「違うわ!! 私は……私は…………あかね……そうよ! 私の名前は『元宮あかね』

 なんだから!」

  両手を胸の前で交差させ、自分の体を抱くようにして少女は叫んだ。

 「そう思い込んでいるだけとは思わぬのか? そなたの名がランでも、あかねでも

 私は一向にかまわぬが」

  その言い様に、信じられないという驚愕の表情で、少女はアクラムを見た。

  しかし、確かに彼の言う通り、彼女の中に自分が『あかね』だという過去の確か

 なよりどころは何もなかった。



 『あかね』であることに意味はない。

  ただの『あかね』は何もできない。

  思い出してはいけない。忘れなければ……忘れて────。


  あれは、いつのことだったか。

 ──私が、そう名乗ったから、周囲がそう呼ぶから、すべてを忘れた君は、私を八

 葉である橘友雅だと信じたね。でも真実は、どうだろう。誰か他の男が、自分は橘

 友雅だと言えば、君はそれを信じたろう。私が本当は橘友雅でなくても同じだ。

  すべてを忘れたというのは、そういうことだね──


  同じだ。同じことをくり返している。

  思い出してはいけないのだ。


  少女は、もはや目の前のアクラムも何も見ていなかった。

  彼女の華奢で、はかなげな体が、ひっきりなしに震えているのをながめていても、

 アクラムに心を動かされる様子はない。 

 「そなたがランでなくば、やはり真の龍神の神子ということになる。ならば、その

 力、見せてもらおう」

  アクラムが炎の玉を投げるように、掲げていた左手をすいと上げると、炎はパッ

 と小さな火花にはじけて散った。その光が岩屋を明るく照らした瞬間、アクラムが

 少女の肩を抱き寄せ、立ち上がると、ふたりをとりまく空気がゆらりとゆがむ。

  闇が再び岩屋を支配した時、そこにはすでに何者も存在していなかった。










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