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う き 波  拾伍
仲秋 憬 





 「……え……と、私、どうすれば……。ずっとついててもらっても…………」

  二人きりで御簾内に残された、あかねの困惑を、友雅は感じていた。几帳に囲まれ

 た畳の上に座っていても、脇に置かれた脇息にもたれるでもなく、所在なげだ。少女

 の前に円座を敷いて座った友雅は、うつむく少女に何気なく答えた。

 「そんなに緊張せずに、のんびりしておいで。今までの物忌みの時と同じ……と言っ

 ても覚えていないのだったね」

 「ごめんなさい……」

 「神子殿があやまることはないよ。君がそんな風だと、貴女が悪いわけではないのに、

 と、いつも私たちが、かしこまっていなければならないだろう?」

  友雅が微笑んでみせると、あかねの肩から少し力が抜けたようだった。

 「体に、障りはないの?」

 「ええ……痛みもないですし」

 「それは何より。昨夜、神子殿が倒れられた時は、どうなることかと思ったが……」

  友雅が語尾をにごし、後は黙ってあかねをながめていると、少女は意を決したよう

 に面を上げ、口を開いた。

 「あの……聞いてみたいこと……が…………」

 「私が答えられることなら何なりと」

  少女の瞳から迷いの影が薄れた。

 「昨日……言ってたことは……本当ですか?」

 「それは昨日の私の言葉のいずれを指しておられるのかな。玄武の呪詛を解くために、

 ご一緒していた時のこと? それとも一条戻り橋でのことかな」

 「夜…………橋で」

 「あの時、神子殿は私達八葉の声が聞こえていたんだね」

 「いえ、はっきりとは……だから……」

 「そう……それで、何を確かめたいの? 姫君は」

  一瞬ためらってから、少女は口にした。

 「…………神子が望まないなら京など、どうなってもかまわない……神子の望みが、

 すべてだ──って」

 「本当だよ」

  あっさりと肯定した友雅に、少女は目を見開いた。

 「神子が……すべてを忘れて、何の力も発揮できなくても?」

 「ああ、神子殿はまだ思い出せないことを気にしているのかい?」

 「神子が龍神の力を失ったら……それでも神子を守るの?」

 「守るよ」

 「何も覚えていなくても? 人が違ったようになってしまっても?」

 「大事なのは、あかね殿だよ。間違えないでほしいのだけれど、君が忘れてしまって

 も、神子殿は私を本気にさせてしまったのだから、何を言って逃れようとしても、も

 う遅い。たとえ神子殿が龍神の神子でなくなっても、私が八葉でなくなったとしても、

 私には関係ない。無用な心配だ」

 「……どうして?」

 「さあ、どうしてだろう。私がそうすることが神子殿の迷惑になると言うなら……」

 「そうじゃなくて……ただ私は……何も思い出せないし、昨日も……迷惑かけた……

 でしょう。このまま何もできなくなって…………役立たずに……」

 「それは違う。迷惑を被っているのは我々ではなく君だよ。それだけは、あの鬼の首

 領の言い分もあながち間違いではないな。……それに、神子殿が、今、差し迫って為

 さねばならぬことなどないしね。たった一日で玄武の呪詛を解いてしまった君の、一

 体どこが役立たずだなどと言うの。……いっそ本当に君が役立たずであってくれたら、

 私などもっと喜んでいたかもしれない」

  友雅の言葉をどう受け取ったのか、あかねは黙ってしまった。彼女の不安を思うと

 友雅は己の無力がうらめしかった。だが、思い出せずとも構わないのだと無闇にくり

 返すことは、彼女を更に追い詰めるように思われ、目の前で物思いに沈んでしまった

 少女を、ただ見守った。

  あかねはすっかりうつむいてしまい、何を考えているのか、その表情からうかがう

 こともできなかった。



  どれほどの時が経っただろう。身じろぎもせず沈黙していた少女が口を開くまで、

 ひどく長い時がたったように友雅には感じられたが、実際にはゆっくり百を数えるく

 らいの間であったろう。

  ようやく、あかねの口から出た言葉は、友雅がずっと欲していたものだった。

 「それが本当なら、お願い…………側にいて……守って……ください」


  誰を偽ることができても、己の心だけは偽れない。

  忘れられてしまっても、かまわなかった。自分が側にいられるならば。

  やり直す機会を得たと思えばいい。

  あかねが記憶を失ったことで、くり返し友雅を苛んだ憂き波は、もはや彼にとって

 穢れたその身を洗う心地よいものにすら感じられるほどだ。


 「願うまでもないことだよ。それは……」

  その言葉を聞いたあかねは黙って頷くと、後は放心したように体から力を抜いて、

 傍らの脇息にもたれかかった。

 「少し……眠い……です」

 「ゆっくりお休み。私は、ここにいるから」

  あかねのまぶたがゆっくりと落ちるのをながめながら、友雅はつぶやいた。


  ──住の江の岸に生ひたる忘れ草枯れもやすると寄するうき波──


  その日、夜半まで、友雅は少女の眠りを守ることとなった。






 「友雅が神子につきっきり──だと?」

  しばらく姿を見せなかった泰明が、土御門の龍神の神子のもとを訪れたのは、あか

 ねが一条戻り橋で異変にあった晩からまる三日が過ぎた早朝だった。

  八葉が集う廂の間には、天真と詩紋がいて、泰明がやってくるなり彼を挟んで、こ

 の三日の間の様子をまくしたてた。


 「あかねの指名だからって、藤姫も承知してるらしいけど……でもな、ほとんど朝晩

 ぶっ通しだぜ? ああ、夜、寝てる時は、さすがに俺や頼久が少しだけ代わったりも

 するけど、あかねが帳台とかいう寝床に引っ込んでからだから、藤姫と友雅の他は、

 話もしてなきゃ、顔もろくに見てねえよ。今まで通り、毎朝、お前以外の八葉は大抵

 ここに集まってたけど、今のとこ友雅しか呼ばれないな」

  天真は明らかに不満気だった。

 「何か理由(わけ)が……あるんだと思うけど……」

  遠慮がちな詩紋の言葉も、天真は認めない。

 「どんな理由だよ? あいつの様子はどうなんだと聞いても、友雅の野郎は適当なこ

 とぬかしてはぐらかしやがるし、でも、こんな引っ込みっぱなしなのは、ヘンだ。あ

 かねらしくないだろ、絶対」

 「神子の記憶が未だ戻らぬせいではないのか?」

 「……泰明。お前、それ本気で言ってるか? 記憶なんか関係ねえよ。そんなんじゃ

 なくて、とにかく変なんだよ!」

  うまく説明できずに天真が焦れた。


  その時、三人の背後の御簾がばらりと揺れた。

 「おや、久しぶりの顔が見えるね」

 「友雅さん!!」

  詩紋が叫ぶ。

  廂の間と神子の寝起きする奥の間を隔てていた御簾を上げて出てきたのは、話題に

 なっていた友雅本人だった。いつものさりげなく襟もとをゆるめた袍に乱れかかる彼

 の黒髪が、早朝らしからぬ艶な雰囲気をその場に醸し出す。天真の表情は一層苦々し

 いものになった。

  その天真の非難めいた視線を物ともせず、友雅は彼に向かって言った。

 「朝早くにご苦労だが、頼久はまだのようだね」

 「夜はいたよ。明け方、俺と代わって一旦武士団の方へ戻った」

 「そうか。では、すまないが、天真。君が頼久をここへ連れてきてくれまいか」

 「俺が?」

 「そう……神子殿のお呼びだから、と」

 「あかねが頼久を?」

 「ああ。正しくは頼久だけではないけれどね。神子殿の件を他人まかせにはできない

 だろう? 青龍の相棒なのだから、君が呼びに行くのが早かろう」

 「ったく!! わかったよっ!」

  ばたばたと慌ただしくその場を離れた天真を見送って、その場には詩紋と泰明と友

 雅の三人だけとなった。


 「何のつもりだ」

  天真だけを強引に遠ざけたとしか思えない友雅の行為を泰明は指摘した。

  天真自身は気が付かなかったが、何も慌てて頼久を呼びに行かせなくても、八葉の

 役目に忠実な頼久は、もういくらもたたぬうちに、ここへ顔を出すのは間違いない。

 わざわざ呼びに行かせるほど急ぐ必要が、神子にあるとは考えにくかった。

 「……ようやく来たね、泰明殿」

  問われたことに返事をせず、友雅が言った。詩紋は緊張に凍りついたように息を止

 めて友雅と泰明を見ていた。友雅の唇がゆっくりと問いを刻む。

                
 「君に尋ねたかったのだよ────“あれ”は誰だい?」










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