憬文堂
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う き 波  拾弐
仲秋 憬 




  夏の長い日も暮れはじめた頃、土御門殿の西の対に来ている八葉の間に、穏やかなら

 ぬ波が立っていた。

  御簾を通して廂の間から何やら、やりとりの声が漏れ聞こえる。今日一日、泰明と友

 雅を供に出かけていたあかねが帰ってきたのだろうと、前の廊を通りかかった詩紋は八

 葉に許されている御簾内へ声をかけて入ろうとした。そこには詩紋が初めて見る光景が

 繰り広げられていた。


 「一日。たった一日だ。たった一日で神子殿は玄武の呪詛をつきとめ解いてしまったの

 だよ。これ程、急ぐ必要がどこにある? 君はこれが恐ろしくないのか」

  高ぶる感情を押し殺して話していることが容易に見て取れる友雅は、いつもの彼とは

 全く様子が違っている。ここ数日、記憶を失ったあかねゆえに彼らしくもなく彼を覆っ

 ていた憂いの影とも、また違う。いつも本音の見えなかった友雅が、まるで怒っている

 ように見えるのだ。

 「呪詛が解けたのだ。何を恐れることがある」

  その友雅に対する泰明は、普段と変わりなく落ち着き払っているようだった。しかし、

 その物言いはひどく素っ気なく、二人は向き合って円座に腰を下ろして話をしているの

 だが、雰囲気は、どう贔屓目に見ても決して居心地の良いものではなかった。

 「問題ないと言われるのは、もうたくさんだ。神子殿だよ。知らぬふりはやめていただ

 こう」

 「ふりなどしていない。する必要もない」

 「では教えていただきたいね。あれは、どういうことなのかい? 神子殿に何が起こっ

 ている?」

  その場にやってきた詩紋におかまいなしで話を続ける二人に、たまらず詩紋は声をか

 けた。

 「あの……ごめんなさい、あかねちゃんに何かあったんですか?」

 「ああ、君か、詩紋」

  友雅が詩紋を見た。とがめる様子はない。

 「神子に大事はない。我々と共に今しがた帰り、奥で休んでいる。藤姫も、すでに下が

 られた」

  泰明が答えた。

 「そうですか。お疲れさまでした。……じゃあ、今、友雅さんが話していたのは……」

 「神子は極めて早く玄武の呪詛を解いた。それだけのことだ」

 「え……と?」

 「言葉通りだよ。詩紋、朱雀の呪詛を解くまでにどれほどかかった? 藤姫の占いから

 方角を定め、行方をたどり、あちらこちらを探して、合間に怨霊をも封印し……、何日

 もかかったのではないかい?」

 「ええ、そうですね。子の日までにと、あかねちゃんずいぶん頑張って。四日くらいか

 かったかな」

 「……そう。やはりそれくらいはかかりそうなものだ」

 「あかねちゃん、玄武の呪詛、もう解いちゃったんですか?」

  友雅は肯いた。

 「呪詛を解くのも四度目で慣れてきたという話ではない。神子殿は、北山で話をひとつ

 聞いた後、次々に行く先を決めて、あっという間に玄武の呪詛の場所を見出し、今日一

 日で呪詛を解かれたよ。我々がお手伝いするまでもなかった」

 「それって……」

 「ああ、もちろん龍神の神子の力が最大限にあらわされていると見れば良いのかもしれ

 ないね。だが、あれは……あのように心ここにあらずといったままの神子殿に、何もな

 いなどと、どうして言える? ただでさえ記憶も朧で、常の神子殿ではないというのに」

 「どんな……どんな様子だったんですか?」

 「……ほぼ一日中、ぼんやりとまるで夢の中をさまよっておられるようだったよ。我々

 の言葉への返事もどこかうつろで。我々に見えない物を見て、聞こえない音を聞いて、

 それでも行く先に迷いはなく、北山から神泉苑、剣神社へと回って、あっさりと役目を

 終えられた。だが、あれを神子としての望ましいあるべき姿だなどと言うなら……いや

 そうだというなら……我々の浅ましさを呪うばかりだよ。よもや神子殿の本質がああだ

 などと泰明殿も思わないだろう。神子殿が記憶を無くされたことと関係があるのか? 

 いったいどうして?!」

 「…………私にすべてが見えていると思うな。知りたいのは私の方だ」

 「泰明さん……」

  初めて泰明が感情のかけらをのぞかせたので、詩紋は驚いた。狂おしい想いがそこに

 はあった。友雅だけではない。同郷の詩紋や天真だけでもない。誰もが、あかねを思っ

 ている。

 「己の力不足を嘆いても始まらない。……神子は呼ばれているのだろう。それ以外のこ

 とは私には、わからない」

 「呼ばれて……って……?」

  詩紋の声は震えていた。

 「決まっている。龍神に、だ」


  結局、八葉たちに、どうすることもできはしない。

  あかねは神子として恐ろしいほど順調に為すべき事を為している。失った記憶のこと

 など問題にならない。むしろ記憶を無くしてからの方が神子としての力を強く発揮して

 いるのが事実だ。このまま玄武を解放すれば、京を救うという目的に大きく近づくこと

 だろう。過去を失ったまま龍神の贄になるのが、神子の行く末だなどと、思いたくはな

 いが、これからどうなるのかは誰にもわからない。ただ、今さら歩みを止めることなど、

 できるわけもなかった。


 「……今日はこれで帰る」

  泰明が一方的に告げた。

 「泰明さん…………あかねちゃんは…………」

 「今すぐ、どうということにはならないはずだ。子の日までには、まだある。記憶のこ

 とはさて置き、お師匠にも当たってみるつもりだ」

 「はい……お願いします」

 「頼まれるまでもない」

 「ええ、それでも、ボクにできないことだから」

  詩紋は頭を下げた。

 「……神子のためだ」

  泰明はそう言い置くと、足早に、その場を辞した。



 「あかねちゃんに会ってもいいと思いますか?」

  詩紋が友雅に尋ねると友雅は苦笑いの表情になった。

 「私にそれを聞くのかい? 藤姫はもう休まれたようだしね、いっそ忍んでいくのは、

 どう?」

 「友雅さん!」

 「……悪かった。まだその辺に女房の一人や二人いるだろう。声をかけてみればいい。

 まだ神子殿も寝入ってしまったわけではないだろうし」

 「そうですね。…………すいません、誰か! あかねちゃんに…………」

  詩紋が御簾の奥にいるだろう女房を探そうとした時、廂の間に青龍二人がやってき

 た。

 「おう、あかね帰ってるんだろ? ……って、友雅、まだいたのか。今夜は俺と頼久

 で宿直するから、一応、挨拶な」

  何も知らない天真は明るく言った。

 「……天真先輩」

 「なんだよ、暗い顔して。俺たちがゴチャゴチャ考えても、あかねの記憶が戻るわけ

 じゃないだろ。それより、昔のあいつのドジ話でもしてやろうぜ。その方が思い出す

 のも早いぞ、きっと」

 「あ……うん、丁度、今、あかねちゃんに声かけようかなってところだったんだけど」

 「神子殿は、もうお休みですか? では、このまま庭先に控えさせていただきます」

 「いや、まだ床についてはおられないだろう。ご挨拶していくがいいよ」

  下がろうとする頼久を友雅が引き止めた。

 「ごめんなさい、あかねちゃん、いますか……?」

  廂の間と、あかねの寝起きしている奥の間を仕切る御簾に向かって、再度詩紋が声

 をかけた。

  返事がない。

 「おーい、あかね? 出てこれないのかよ?」

  天真が遠慮無しに近寄り御簾を跳ね上げようとした。

 「天真!!」

  頼久が声を上げた、その時、奥から衣擦れの音と共に、ようやく女房が一人、御簾

 先へ出てきた。

 「ああ、あんた、あかねこっちに呼んでくれよ。もう寝ちまったわけじゃないだろ」

  天真の問いに、一拍の間があってから、女房が困惑した声で告げた。

 「神子様が…………神子様のお姿が見えません。奥においでにならないのです」

 「何だって?!」

 「そんなはずはなかろう。泰明殿と私と共に帰られてから、確かにこの奥に下がられ

 た。それから私はずっとここにいる。神子殿は奥から動かれていないはずだ」

 友雅が言うと、女房も肯いた。

 「ええ、お帰りになられてから、いつものようにお水を使われて……私が角盥を下げ

 にまいった時には確かに…………でも、今はお姿が見えません」

 「頼久、門へ」

  友雅が告げるより早く、頼久はすでに立ち上がっていて、廂の間から出るところで

 あった。土御門殿は広い。あかねの居所を確かめねばならない。天真もすかさず動く。

 「おい、頼久どっちだ!」

 「私は東門を確かめる。天真、おまえは西門を」

 「わかった」

  暗くなってから、にわかに慌ただしくなった西の対の様子は、あかねが記憶を失っ

 たあの夜を思い出させた。あの晩も、あかねはいつの間にか忽然と土御門を抜け出し

 ていた。

 「あかねちゃん…………」

  詩紋が呆然と立ちすくむ。

 「詩紋、神子殿を感じることができるかい?」

 「あかねちゃんに何かが起こっているかどうか……わからないです。危険にさらされ

 ているとか、いなくなったという感じはしないんですけど……」

 「……そうか」

 「友雅さんは……?」

 「………………同じだよ」


  八葉とは何なのだろう。

  どんなに考えても答えの出ない問を、彼らは等しく抱いていた。

  廊の釣灯籠の火が誰もいない庭先をじりりと照らしていた。









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