憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


う き 波  拾壱
仲秋 憬 




 「……ただいま」

 「神子様! ご無事でしたのね。ようございましたわ。お願いですから、もう、一人歩

 きはおやめくださいな」

  泰明に送られて土御門殿へ帰ってきたあかねを、心配のあまりか声高くとがめる調子

 で藤姫が迎えた。

 「迷惑かけて、ごめんなさい」

 「いえ、迷惑などと、そのようなことではなく、神子様は決して本調子ではあられない

 のですから……せめて八葉の誰かなりともお連れになってくださいまし。きょうも、頼

 久はずっと控えておりましたし、それから、友雅殿も、朝から廂(ひさし)の間にいら

 していたようでしたのに。お出になられた時、会われませんでしたか?」

 「え……? ううん」

 「まぁ、なぜでしょう……まったく頼久も甲斐のない」

  藤姫が上に立つ者ならではの口調で言い放つのを聞いて、さすがにあかねも慌てる。

 「頼久さんのせいじゃないよ。私が悪いの。ごめんね、藤姫」

 「神子様、お顔の色が……」

 「え? そう? もう日が落ちるし暗いせいかな。それより、占いの結果は出た?」

 「あ、はい。出ておりますわ。泰明殿と北山へ行ってくださいませ。そこへ行けば手が

 かりがつかめるはずですわ」

 「北山ね、わかった。明日から頑張るよ」

 「どうかご無理はなさらないでくださいませね。次の子の日、六月九日までに玄武の呪

 詛を解けばよろしいのですから」

 「……うん。大丈夫……私は覚えてなくても、みんなが手伝ってくれるんだもの」

 「では、私はこれで失礼いたしますわ。おやすみなさいませ、神子様」




  藤姫が下がると、あかねは自分の部屋に一人になった。考えなければならないことが、

 たくさんある。泰明に言われて気付いたことがあった。


  ──なぜ、思い出してはいけないのか。


  自分が忘れた過去を思い出すことを恐れていることを、初めてあかねは自覚した。今

 まで、それほど思い出す必要性を感じなかったのは、あかねが思い出したくなかったか

 らだ。

  何故だろう。あかねの心の内で、純粋に疑問ばかりがふくれ上がる。

  鍵を握っているのは、おそらく地の白虎、橘友雅だ。それはあかねに対する彼の態度

 からも、すべてを忘れてはいても彼だけに波立つような心のざわめきで、わかる。


  自分の帰りを待つ人がいることを思い出せない。

  帰りたいのか? 帰りたくないのか?

  どこへ帰るというのだろう。何も覚えていないあかねが、いったい何処へ?


  頭を振って、気を取り直そうとした時、下ろされた御簾の向こうに、人の気配があっ

 た。敵意はない。あかねにもすぐわかる気は教えられた八葉のもの。かけられた声を聞

 けば間違えることはなかった。あかねが、今、気にかけていた男の声だ。

 「神子殿、帰ってこられたそうだね。いいかい?」

  遠慮もなく御簾をくぐって友雅はあかねの目の前に立った。

 「友雅さん!」

 「すまない。藤姫には内緒だから小さい声でね」

  そう言うとあかねの唇に、人差し指を押し当てる。

 「あ…………」

  とまどうあかねに彼は優しげな笑顔をみせた。

 「今朝ご機嫌うかがいに来たけれど、顔も見せていただけないまま、君は抜けだしてし

 まわれたようだったから」

 「ごめんなさい」

 「あやまらなくても、いいけれどね」

  友雅の目にふっと真面目な光が宿った。

 「どうして出かけたのか教えてくれるかい? 危ないことはなかったの?」

 「えーと、その、鈴の音が……呼んでるような気がして、そこへ行かなくちゃと思った

 の。心配かけたんですね。すみません」

 「だから、あやまるくらいなら、私を呼んで守らせてほしいと言うのに。八葉とはその

 ためにいるのだよ」

 「泰明さんにも言われました。こうなる前に自分を呼べって」

 「そう。私がいやなら……泰明殿でも、頼久でも、誰でもいい。こういつも同じことを

 くり返されては、神子殿を案じるばかりで何も手に着かず、こちらの身がもたないよ」

 「私、前も同じ様なことしてたんですか? やっぱり」

 「……ああ。君は本当に風のような……決してひとつところにとどまらない軽やかな人

 だね」

  面と向かって、大人の男に、こんな形容をされては、少女としては赤面するより他は

 ない。

 「神子殿を呼ぶのは誰だろう。……当たり前に考えれば、それは龍神か、でなければ肉

 親か、とりわけあなたを思う者……かな」

 「……わかりません」

  首を振るあかねを、じっと友雅が見ていた。彼の目を見ているとあかねは息が詰まり

 そうになる。

 「あの、何か私に言いたいこと、ないですか?」

 「私が君に?」

 「はい」

 「何でもお見通しだね。神子殿は」

  友雅は笑った。

 「今、君が、目の前にいる男をどう思っているか知りたいと思うのは罪だろうか。それ

 で迷っているのだよ」

 「え?」

 「私が何者なのか、君は知らないだろう?」

 「友雅さん……?」

 「私が、そう名乗ったから、周囲がそう呼ぶから、すべてを忘れた君は、私を八葉であ

 る橘友雅だと信じたね。でも真実は、どうだろう。誰か他の男が、自分は橘友雅だと言

 えば、君はそれを信じたろう。私が本当は橘友雅でなくても同じだ。すべてを忘れたと

 いうのは、そういうことだね」

  あかねはどう答えていいかわからず黙っていた。友雅もあかねが答えるとは思ってい

 ないようだった。

 「言えないよ。それが私への罰だろう」

 「……友雅さん、それって」



 「友雅殿、御前におられますか。どうぞお引き取りを。神子殿は、もうお休みになられ

 なければ」

  あかねが口を開いたその時、御簾の外から大きくひとつ咳払いが聞こえて、続いて物

 堅い声がかけられた。

 「やれやれ。神子殿には忠実なるしもべが多いことだ」

 「友雅殿」

 「聞こえているよ、頼久」

  友雅は、すっとあかねから視線を外し、御簾の向こうをうかがうように声のする方を

 見た。

 「あの……っ」

  遠慮がちに声をかけるあかねに、友雅は、少女の両肩に手をおいて、瞳をのぞきこむ

 ようにして尋ねた。

 「神子殿、明日はどちらへ?」

 「ええと、藤姫の占いでは北山……かな」

 「そう。泰明殿と一緒にかな。では、願わくば、今ひとりのお供は私にね」

  友雅は綺麗に微笑んで、それからふいにあかねの左耳に唇をよせた。


 「……約束だ」


  耳元に口づけされるようにしてささやかれた途端、あかねは、まるで電流が一気に体

 を貫いたとでもいうほど驚いて後ろに飛びすさり、なかば腰を抜かしたような格好で、

 真っ赤になって、自分の前に立つ艶麗な男を見上げた。

  あかねの中で確かに時間が止まっていた。


  あかねが体勢を崩した時の物音をいぶかしんだのだろう、外に控えている頼久は黙っ

 ていなかった。

 「どうされましたか? 神子殿? 失礼してよろしいですね、友雅殿」

  御簾の隔てを越える許可を求める頼久の張りつめた声が響いた。

 「ああ、大丈夫。私は、もうこれで下がらせていただくから」

  友雅はそう言って御簾をくぐり、廂(ひさし)へと出た。その拍子に、床に座り込ん

 でしまったあかねからも、外にいた頼久の姿が見えた。いつから御簾の前に控えていた

 のだろう。

 「神子殿、大事ございませんか?」

  頼久は上げられた御簾を押さえたまま、あかねに声をかけた。

 「あ……」

 「どうも信用がないのだねえ、私は。同じ八葉だというのにその態度はないだろう」

 「友雅殿!」

  頼久が声を荒げても、友雅は一向に気にした様子は見せない。

 「では、また明日ね、神子殿」

  廂からだめ押しのように声をかけて、友雅は背を向け、去っていった。



  頼久が少し眉をひそめ、友雅があかねの部屋を後にするのを確かめるように見送るの

 を、あかねは、ぼんやりと見ていた。友雅の気配が完全に離れたのを見て取ってから、

 頼久はあかねの様子に視線を戻す。常に離れた位置からあかねに声をかけるところは、

 友雅や詩紋などとずいぶん態度が違うとあかねは思った。

 「神子殿? 友雅殿が何か……?」

 「……何かって?」

  反射的に尋ねるあかねに頼久はかしこまる。

 「いえ、差し出たことを申しました」

 「私に、そんなに気を使わなくてもいいのに……。助けてもらっているのは私でしょ?」

 「神子殿に仕えお守りするのが私の役目です。もう二度と危ない目にはお合わせしたく

 ございません。お許し下さい」

  あかねは呆然と、膝をつきかしこまっている頼久をながめていた。どうして、こんな

 に自分が大事に守られるのか、その理由は明らかだった。


  あかねが龍神の神子だからだ。


  そしてこの頼久も、友雅も、泰明も、みんながあかねを気遣うのは、神子を守るのが

 役目の八葉だから。元の世界からあかねと共に来たという詩紋や天真だって、その八葉

 なのだ。

  何かがしきりと頭のすみをよぎるのだが、あかねはそれをつかまえることが、かなわ

 ずにいた。さっき、友雅の行動に死ぬほど驚いたあの瞬間から、あかねの頭はかすみが

 かかったようで、まともに順序立てて考えることができなくなっている。


 「神子殿」

  頼久の呼ぶ声に、あかねは我に返った。

 「あ、あの、私、もう寝ますね」

 「では、お休みなさいませ」

  挨拶をしてそのまま下がろうとする頼久を、あかねは呼び止めた。

 「あ、待って! あの、私!」

 「はい」

 「私、まだ何も思い出せないんですけど……頼久さんには、私が忘れちゃったあの晩に

 会っているんですよね?」

 「会ったというのは正しくないかと存じます。私は神子殿のお身が危ない目にあったそ

 の時に間に合いませんでした。少なくとも神子殿は、私があの河原院に駆けつけて来て

 いたことにお気付きではなかったでしょう」

 「池に落ちた私を頼久さんが助けてくれたんですよね。ありがとうございました」

 「……役目を果たせなかった者に、そのようなことをおっしゃらないでください」

 「だって頼久さんが来てくれなかったら、どうなってたか、わからないでしょう? お

 礼を言うのは当然です」

 「神子殿……」

 「私、その時忘れたんですよね。……事故、なんですよね」

 「私が至らずに……」

 「違います! 違うんです! 頼久さんのせいじゃなくて!」

  あかねは声を張り上げた。

 「以前の私が、何をどう思って過ごしてたのか、全然わからないから、ちょっと聞いて

 みたかったの。……でも、そんなの頼久さんには、もっとわかるわけないですよね。ご

 めんなさい。呼び止めちゃって」

 「とんでもございません」

  頼久はごく真面目に否定した。

 「神子殿は十二分にお役目を果たしておられます。どうぞ必要以上にお心を痛められま

 せぬよう。記憶は時が至れば自然と蘇るだろうと泰明殿も話しておられました。よしん

 ば、ずっとこのままであったとしても、私の心と忠誠はあなたのものです」

 「そ、そんな……私はそんなんじゃ」

 「あなたはご自分のことをまったくご存知でない。それは記憶を無くされる以前から、

 そうでした」

  頼久は生真面目そうな彼にしては、実に柔らかく微笑んだ。

 「……どうぞお気になさらずに。ゆっくりお休みください。失礼いたします」


  頼久は御簾を降ろして、あかねの前から下がるとそのまま廂のあたりにずっと控えて

 いるらしかったが、あかねは、それに気付かず、自分の記憶の空洞をくり返しなぞって

 いた。どこからかわきあがる不安を押さえつけ、思い出そうとする努力を試みた。

  しかし、寄せては返す記憶の波で何度洗い上げても、浜に打ち上げられる小さな貝殻

 のような、ほんのひとかけらの思い出も、あかねによみがえってくることはなかった。









戻る 戻る    次へ 次へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂