憬文堂
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う き 波  九
仲秋 憬 




  鈴の音が聞こえたような気がして、あかねは目を覚ました。

  以前に、この音を聞いたことがあったように思うが、思い出せない。

  昨夜、あれほどあかねを悩ませた頭痛は、すっかり引いていて、気分は悪くない朝だ。

  顔を洗って、身支度をすませたところへ、朝食の膳を携えた詩紋と藤姫が顔を出した。

 「神子様、おはようございます」

 「あかねちゃん、おはよう!」

 「お加減はいかがでございますか? きょうはゆっくりお休みになられていた方が……」

 「朝食、食べられるようだったら一緒にって思ったんだけど、どう?」

  詩紋の笑顔で、あかねは、なぜかほうっと力が抜けて、気が楽になった。

 「うん、ありがとう。大丈夫。いただきます」

  彼らと一緒についてきた女房が、あかねの前に膳を置く。詩紋は、その向かいに、自

 分で持ってきた詩紋のための膳を置き、藤姫は、すでに食事は済ませてきたのか、彼女

 の膳はないままに、あかねのすぐ隣に座ると、不自由のないよう、給仕をする女房に目

 配せしながら、気を配っていた。


  石伏(川魚)を焼いたのを、おかずに、水飯をさらさらとかきこむようにして食べ、

 しゃくしゃくと瑞々しい切り立ての瓜を口にする。

  あかねと同じようにおとなしく食事をしていた詩紋が、ふいに箸を止め、口を開いた。

 「あと解放するのは四神の内、玄武だけだね。玄武を呪いから解いて、雨も降って、鬼

 のたくらみを退けることができたら、そうしたら帰れるね」

 「……帰れる?」

  何を言われたのかわからないといったあかねの様子に、詩紋はゆっくりとかんで含め

 るように話す。

 「あかねちゃんは実感がないかもしれないけど……、ここはボクたちが育った世界じゃ

 ないんだよ。あかねちゃんの家族だって、みんな別の世界にいるんだ。ボクや天真先輩

 やあかねちゃんの家は、この京に無い。それは、わかっているでしょう?」

 「帰る………………」

 「詩紋殿、神子様の京での家は、ここですわ! 何も思い出せない内から帰ることなど

 お話しなくても」

 「藤姫、……藤姫は、もし、突然何も言わずに藤姫が行方不明になっても、父上の左大

 臣様は全く心配しないって思うの? 便りひとつ寄越さずに、娘が帰ってこないのに」

 「あっ……いえ」

  藤姫は一瞬にして恥じ入り、口を閉ざした。どんなに聡明で大人びていても、藤姫は

 まだ齢十歳の子供だ。藤姫にとって、あかねは龍神の神子という特別な存在であり、そ

 れまで当たり前に育ってきた普通の少女としてのあかね、京とは違うあかねの世界の、

 あかねの過去に気を配るなどという芸当はできない。

  あかねが普通の少女であるということを考えられない立場が龍神の神子に仕える星の

 一族の藤姫なのだから、それも致し方ないだろう。

 「ごめんね、藤姫。責めてるわけじゃないんだ。ただ、あかねちゃんが思い出せないか

 らって、このままでいいわけないと思う。無理することなんかないし、龍神の神子とし

 ての働きをやめろって言ってるわけじゃないよ。それじゃ何もならないよね。でも思い

 出せないなら、少しずつでもボクたちが知ってるあかねちゃんのことを話すことは大事

 なんじゃないかなって思うんだ。それに、どんなに話したって、それはボクらの見てい

 たあかねちゃんであって、本当のあかねちゃん自身の思い出を教えて上げることは、誰

 にもできないんだから」



  このやりとりを、御簾の外で聞いていた者がいた。橘友雅だ。彼は小さくつぶやいた。

 「帰る……か」

  神聖なる神子の間に近づくことを、とがめられない男は八葉だけだ。

  友雅は今日も早朝から土御門へとやって来ていた。来ずにはいられなかったのだ。

  神子様は朝食中ゆえ、しばらくお待ちを、と言う女房を笑顔で抑えて、神子の間の前

 の簀子(すのこ)まで来ていた。

  その前庭には頼久が控えている。御簾の奥の神子の話し声、簀子に立ち尽くす友雅の

 つぶやきが、頼久に聞こえていたかどうか、彼の表情からうかがうことはできない。

  頼久は、ただ一途に影に徹して役目を果たそうしているかのようだった。神子を守る、

 その役目を。

  友雅は庭に控え続ける頼久を見て、声をかけた。

 「昨夜から夜通しずっとそうして控えていたというわけかい? ご苦労なことだね」

 「苦労などとは思っておりません」

 「そう。頼久のことだ。神子殿に仕える八葉であれば当然のこと、とでも言うのかな」

 「………………」

  互いに正面から強い視線を見交わしたが、先にふっと目をそらしたのは友雅だった。

 「お前は悔いているかい? あの日の夜、神子殿を守りきれず、このような事になって

 しまった」

  頼久は返答しない。

 「神子殿は過去をすべて忘れてしまわれたが、しかし、龍神の神子としては、ますます

 研ぎ澄まされてきているようだ。……これは八葉としては喜ぶべきなのだろうね。君は

 どう思う?」

 「なぜ私にそのような事を聞かれますか?」

 「君も八葉だからさ。特に熱心な、ね。泰明殿は神子殿がどうあろうと己は何ら変わら

 ない、見失わないと言うのだよ。けれど、神子殿自身にとってはどうだろうか。神子殿

 は記憶のないまま神子として使命を全うされる。では、その後は、どうされるだろう? 

 やはり神子殿の世界に帰られるのだろうな」

  頼久が聞いていようがいまいが関係ないかのように友雅は話し続ける。

 「帰ることがかなえば……記憶は戻るだろうか。いや、もしかすると京のことだけ忘れ

 さったまま、以前の神子殿の生活に戻られて、何の支障もなく、龍神の神子という存在

 はいなくなるのかもしれない。そうして私たちの記憶も薄れていくのか。まるで時の波

 にさらわれていくように。してみると、この事態は神子殿が神子殿として早く使命を果

 たされて、元の世界に帰るための必然なのかとさえ思えるよ。我々が鬼によって失った

 心のかけらなどとは訳が違う」

 「友雅殿が、そう思われたいのですか。私に言わせようとなさっても無駄です」

  頼久の反撃に友雅はそらしていた視線をふたたび頼久に向けた。

 「私が神子殿をお守りすることに理屈をつける必要はありません。私はあなたとは違い

 ます」

 「ああ、もちろんだよ。気を悪くしないでほしいな」

  友雅は笑って頼久をいなした。

 「神子殿あっての八葉……か。いずれにせよ、まだ玄武は鬼の手の内だしね」


  高欄を挟んで話していた友雅と頼久の前に、渡殿を通って地の玄武である泰明が姿を

 見せた。

  玄武を解放するために、まず神子と動くのは今度は泰明ということになる。昨日の今

 日で、あかねが気にかかるのだろう、泰明も早々に土御門へやって来たというわけだ。

 「二人そろって何の相談事だ」

 「……いや、神子殿はお食事中でね」

  友雅の言葉に、泰明は、あかねの気配をうかがうように、視線を落とし集中する。一

 瞬の緊張が、その後ふっとゆるめられた。

 「具合は悪くないようだな」

  泰明は、どこか安堵の響きのある声で、そう告げた。

 「四神も、いよいよ玄武で最後だ。泰明殿には、気の抜けぬ正念場になるね」

 「無論。わかりきったことを言う」

 「考えていたのだよ……龍神の神子と八葉のこと、神子殿の失われた過去のこと。こん

 なに考えたことはないというほどね」

 「何が言いたい?」

 「神子殿は記憶を失われても、龍神の神子としての働きは何ら損なわれていない。むし

 ろ一層力を増しているほどだ。泰明殿は、よくおわかりだろう」

 「……そうだな」

 「このまま順調に玄武を解放し、京を救い……神子殿は使命を果たされて、帰る──」

  友雅は遠くを見る。

 「我ら八葉の使命も終わる。……その後、何が残るだろう。忘れた方が神子殿のためだ

 と思ったのだよ。確かに、そう思っていた。もうずっと」

 「物事が終われば、あるべきところへ帰るのが必定ではないか」

 「しかし、誰が忘れても私は忘れない。それで残りの生を全うできるだろうと考えた。

 とはいえ愚かな私はそれだけで満足できずに罪を犯して、今、その咎(とが)を受けて

 いる。だから知りたかったんだ。これは八葉としての道筋なのかと。君たち他の八葉は

 どう思うのかをね」

 「人がどう思おうがお前に関係ないだろう。お前は、いちいち人の反応を見て自分の本

 心を確かめるのが癖か。迷惑なことだ」

  泰明が無表情に言い放つ。しかし友雅はそれには答えず、さらにつぶやく。

 「昨日、神子殿が私と白虎の対峙を止めようと、白虎の爪と私の攻撃のただ中へ身を投

 げ出した時──」

 「友雅殿!」

  昨夜の神子の不具合のわけを知らされていなかった頼久が目をむいた。

 「一瞬真っ白になって、その後すぐに、胸を引き裂かれるような痛みで、気も狂いそう

 になったけれどね……」

  友雅は、その一瞬をなぞっていて、もう目の前の何も見ていなかった。

 「私は知りたいと思う気持ちを止められない。…………どうして何も覚えていない神子

 殿が、その身を呈して私をかばわれたのかを確かめたい、と」

  頼久の目に剣呑な光がやどり、泰明は、初めて不愉快そうに顔をしかめた。

 「私の敵は鬼なのかな? それとも……」

 「神子に無理を強いるならば許さぬ」

 「ふふ、怖いね」

  とても怖がっているとは思えない態度で、友雅は泰明の視線を受け止めた。天真やイ

 ノリなら、ふざけるなと怒り出すかもしれない態度だ。しかし泰明は冷静だ。

 「物事にはすべて理(ことわり)がある。神子が思い出せないことにも、なにか理由が

 あるはずだ。それを無理にゆがめると、間違いが起こるだろう。私はそれを許さない」

 「すべて、あるべきところへ、あるがままに、かい? さすがは陰陽師殿というところ

 かな」

 「友雅殿、神子殿は……」

  頼久が何かを問う前に、友雅は断言する。

 「私にとって神子殿がどんな存在だか、本当にわかっていなかった。ただそれだけだっ

 たんだ。全く愚かな話さ。以前、泰明殿が言った通りだ。私の悪癖も神子殿の前では意

 味をなさないから安心するといいよ」

  友雅は振り返って、そうしていれば、あかねのいる御簾の奥を見通せるかのように、

 じっと見つめる。


 「そうして私の知らなかった一切のものを与えてくれるのだね、神子殿は」


  嫣然と微笑む友雅に、二人の八葉は、もう何も言わなかった。

  あかねに一切を与えられ、守られているのは、何も友雅だけではないからだ。 










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