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う き 波  八
仲秋 憬 





  心地よい冷たさのやわらかい何かがひたいにあてられるのを、あかねはぼんやりと感

 じていた。

 「神子様……」

  小さなつぶやきが聞こえた。しきりに神子様と呼んでいる。神子とは誰のことだろう。

 うまく物が考えられず、夢うつつの波間に、あかねは、たゆたっていた。

  くり返される呼びかけ。

  ……神子は、龍神の神子。

  何も覚えてはいないが、あかねは龍神の神子だと教えられた。あかねのことを呼んで

 いるのだ。


  あかねが目をあけると、暗い部屋にほんのり灯る燈台の灯の中、冷水にひたした白布

 を手にした藤姫の心配そうな顔があった。

 「あ……どこ……」

 「神子様、お気がつかれましたか! お体に痛みなどございませんか?」 

 「ふ……藤姫……」

 「ええ、そうです。神子様」

  自分がいつも休む部屋で床についているのだと、あかねは、ようやく気がついた。

  ならば八葉二人がここへ連れ帰ってきてくれたということだろう。

 「白虎……封印できた……んだよね……」

 「はい。みんな神子様のお働きです」

 「……そんなことない。ひとりじゃ……何も……またこんなになっちゃって、面倒かけ

 ちゃった……」


  何か大事なことを忘れているような気がする。


 「神子様、とんでもございません……もう、どうか……」

  藤姫の顔が切なげに曇る。

 「回復符が、まだあったのに。これをもっと早く使えば……よかったんだよね。覚えて

 なくて……うまくできなくて……駄目だなぁ」

 「神子様」

  あかねは、ぎこちなく上半身を起こし、たもとに入れていた回復符を手にすると、目

 を閉じて祈った。あかねが無心になると、彼女の身体からぱぁっと当たりに暖かい光の

 波が広がっていく。龍神の神子だけが駆使できる、まぶしいほどの五行の力。

  藤姫は目の前で起こる奇跡を、陶然とながめていた。

 「……もう大丈夫。ありがとう藤姫」

  あかねが微笑んでみせると、藤姫の張りつめていた緊張が解けていった。


  あかねの床を囲んでいる几帳の向こうから声がかかった。

 「神子、大事ないようだな」

 「泰明殿!」

  平気で御簾内に入り込んできた泰明に几帳越しとはいえ、藤姫が目をむく。しかし、

 あかねは、京の姫君の常識などわかっていないし、とらわれることもない。床から、そ

 のまま返事をした。

 「え……と、はい、大丈夫です。心配かけて……ごめんなさい」

 「神子が五行の力を使ったのを感じた。気は安定したようだな」

 「……そう……ですか」

 「今日はかなり無理をした。回復符を使ったとはいえ、身体に負担は残っているはずだ。

 ゆっくり休め」

 「はい、あの……、それで……」

  大事なことを忘れている。何かを確かめなければいけないはずだとあかねは思う。

  喉元まで出かかっているのに、つかえていて言葉にならない。

 「神子様、どうぞ、ご無理をなさらず、お休みください」

  枕元につきっきりの藤姫が手をさしのべようとした。脇に控えていた女房が、藤姫の

 合図で、身を起こしていたあかねに衾(ふすま)をかけて、横たわらせようとする。

  その時、几帳の陰から、もうひとつの声がかかった。


 「……神子殿、どうか……一目でいいから、顔を見せてくれるかい?」


 「友雅殿まで! もう神子様がご無事なのはお確かめになられたでしょう。どうぞお控

 えくださいまし」

  斎姫たる龍神の神子が休む部屋の御簾内に、いくら八葉とはいえ、男性が断りもなく

 入ってきたことに、藤姫は本気で憤慨していたが、あかねはかまわなかった。

 「と……もまさ……さん……?」

  なめらかな艶のあるよく響くこの声をあかねは知っている。こんな声の持ち主はこの

 世にただひとり。間違えることは決してないだろう。何かを呼び覚ます声だった。

  顔を見ずに几帳越しに声だけ聞くと、なお一層、響くものがあった。


  そうだ、この声を聞き誤ることはない。この声で大事なことを告げられた。

  ──いったい何を? どうして思い出せないのだろう。

  もどかしさは、つのるばかりだ。


  ふいに几帳がずらされて、友雅が顔を出した。隣には泰明もいる。

 「友雅殿っ!!」

  藤姫の剣幕など、天からお構いなしに、友雅はあかねの床へいざり寄った。

 「…………よかった。生きた心地がしなかったよ」

  友雅は起き上がっているあかねを見て、心から安堵したようだった。その面差しに今

 までにない影を見たのか、藤姫が息を呑んだ。

  あかねは素直に謝罪の言葉を口にした。

 「ありがとう。……ごめんなさい」

 「なぜ君があやまる? あやまるのは私。お礼を言うのも私の方だよ。君はその身を投

 げ出して白虎と私を救ってくれた。……でも、もう、あんなまねは、あれきりにしてお

 くれ。君の命と引き換えにできるものなど、ないのだからね」

  友雅の言葉に、あかねは首を振る。

 「……命と引き換えなんて、私じゃなくても、誰の命だって引き換えになんて、できま

 せん」

 「なら、なおさらだ。君を守るためにいる者に役目を果たさせてくれなくては」

  泰明が友雅の後ろで、肯定するかのように頷いた。

 「でも……」

 「神子殿、どうかお願いだ」


  友雅の狂おしいまでに真剣な表情があかねの目の前にある。友雅の懇願に、あれほど

 機嫌を損ねていた藤姫までが、すっかり呑まれて口をはさめずにいた。

  元々破天荒とも言えるあかねの無茶は、藤姫にとっても大きな心配事のひとつだった

 ようだから、友雅が同じ意見ならば、口をはさむ必要はないのかもしれない。

  しかし、以前の友雅は、そのあかねの無茶を面白がっているようなところもあったら

 しいのに、今はこうしてそれを諫める側にいる。いざとなれば、やはり八葉として頼り

 にもなる人だ……と藤姫が思ったかどうか。

  あかねは忘れてしまった。何も思い出せない。以前かわしていたのだろう、友雅との

 やりとりの全てを。


 「私に君を守らせてほしい……せめて」


  せめて──と、友雅が口にする。

  せめて、それくらいは、という意味だろうか。

  せめて守ることはさせてくれ、と。

  では、せめて、でなければ? 言葉にしない本当の望みは何だろう。

  それは、あかねが思っていたことではなかったか。

  、、、
  せめて、龍神の神子としてだけでも──。


 「……頭……いた……い…………」

 「神子様!!」

  ようやく人心地ついたかと周囲が落ち着いた矢先、あかねは急激な頭痛に襲われて、

 両手で頭を抱え込み、前屈みに伏した。

  あかねの苦痛に、藤姫が顔色を変えた。

 「ああ、やはりご無理がたたっているのですね。友雅殿、続きは、また後日にしてくだ

 さいまし」

 「神子、横になれ。何も考えるな」

  陰陽師である泰明の指示に、藤姫も従う。

 「そうですわ、神子様。もうお休みになってくださいな」

 「あ……」

  ほとんど強引に枕をあてがわれ、あかねは不安にかられて床の中から周囲を見渡した。

  ゆらゆらとゆれる灯に、ぼうっと白く浮かび上がる友雅の顔だけが見えた。痛ましげ

 な顔をしている。

  この美しい大人の男に似つかわしくない表情をさせているのは、自分なのだろうか。

  心配をかけたことは申し訳ないと思う。でも、あの時は止まらなかった。


  白虎の前に自ら飛び出した時のことをあかねは思い返す。

  命の危険にさらされるほどせっぱ詰まった時、偽りの打算や計算で動くことはできな

 い。そんな時にとる行動は本能からのものであり、真実の心を映している。

  たとえ思い出せなくても、想いは確かにあかねの心のどこかに沈んでいて、身体はそ

 れを覚えていた。その想いの命ずるままに動いただけだ。

  あかねは彼を救いたかった。地の白虎である橘友雅を。


  そうだ──。

  何もなかったわけはない。

  あかねは、特別に、このつかみどころのない大人の男を想っているのだ。

  何も思い出せない今も、また。…………また?


  その事に思い当たった途端、あかねは、再び割れるような頭痛に襲われた。

  ぎゅっと目を閉じ、痛みに耐えるあかねを見て、もうこれ以上は我慢ならないと藤姫

 が立ち上がる。

 「さあ、もう神子様をお休みさせてくださいな。これ以上、お話するのが無理なのは、

 おわかりでしょう!」

  そう言って、その場を立ち去れずにいる、友雅と泰明を追い立てた。

 「すまなかったね、神子殿」

  あやまらないでほしいのは友雅の方だと痛みに薄れる意識の中であかねは思った。

 「神子……答えは、いつも己の中にあるものだ。焦る必要はない。今は休め」


  最後に泰明があかねにかけた言葉が、眠りにつこうとするあかねの耳に響き、ゆっく

 りと沈んでいった。









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