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う き 波  七
仲秋 憬 




  白虎を解放する子(ね)の日の朝が来た。

  地の玄武である安倍泰明は、土御門殿の龍神の神子の対へ来ていた。

  龍神の神子であるあかねは、いまだ失った過去を思い出す様子はない。それが何を意

 味しているのか、泰明も気にならぬわけではない。それが神子のためならば、何として

 も記憶を取り戻す方法を探したいと思っている。

  しかし、今は、まず四神の解放が、為すべき事の第一で、あかね自身も、差し障りな

 く、やる気を見せている。白虎の呪詛もあっさりと解いてみせ、神子としての働きは、

 かえって過去を忘れる以前より見事にこなしていると言っていい。

  問題があるのは記憶を失った神子ではなく、むしろ白虎を解放すべく全力を尽くして

 神子を守り戦わねばならないはずの八葉、地の白虎である橘友雅だと泰明は考えていた。



  昨夜、神子と一日を共にして帰ってきた友雅は、また一層不安定さが目に余った。泰

 明は友雅の憂慮が理解できなかった。

  己が神子をどう思い、仕えるかということは、神子の考えによって変わるものではな

 い。少なくとも泰明にとってはそうだ。

  友雅がこだわる過去に何があったかは知らないが、そんなものにとらわれて、神子を

 あやうい目にあわせるわけにはいかない。それゆえに、為すべきことを明らかにさせる

 べく、泰明は友雅を問いつめた。何もかも忘れた神子にはお前は用がないのか、と。

  夕闇に沈む土御門殿の釣殿に立つ泰明の目の前に座っていた友雅は、泰明の言葉がよ

 ほど思いがけないものだったのか、一瞬呆然としていた。


 「……用が……ない? 神子殿に?」

  友雅らしくない、ただくり返すだけの問い返しだった。

 「お前が神子の記憶にこだわっているようだから、そう思ったまでだ」

  泰明が指摘すると、友雅はひとり心の内で何かをなぞっているのか、つぶやきかけた

 唇を閉じずにうっすら開いたまま黙りこんだ。

  友雅のこのような顔を泰明は初めて見た。いや、そもそも、あかねが今までの事を忘

 れてしまってから後、友雅はおかしくなったのだ。彼らしくない、どこか重く憂いを帯

 びた様子といい、発する気といい、すべてがこれまでの彼の態度とは違っていて、泰明

 はこのままにしておけないと判断した。白虎の不調で神子に何かがあってからでは遅い

 のだ。

  何かを考えながら、友雅がまったく普段の彼らしくなく話す。声もどこか湿りがちだ。

 「用があるとか、ないとかいうことではないよ……当然だ、そんなことは。そう、神子

 殿は……そういう相手ではない……」

 「では、何が問題だ」

  泰明の言葉に、再び友雅は押し黙った。別に答えをうながすわけでもなく、泰明は友

 雅を見下ろしていた。

  突然、友雅が、くっと声を詰まらせ笑い出した。

  いったい何事かと、泰明はおもわず眉をひそめた。何がおかしいのか、友雅は忍び笑

 いをやめない。

 「気でもふれたか」

 「いや、すまない。自分を笑ったんだよ。あんまり愚かな自分をね。泰明殿の言うとお

 りだ。何の問題もないね」

 「最初から、そう言っている」

 「ああ、そうだったね。ありがとう」

 「礼を言われる覚えはない」

 「そうか、君はそういう人だったな」

  友雅は、正面に立っていた泰明から、ふっと視線をそらした。釣殿の高欄の先、闇に

 沈む暗い池にうつる庭の篝火の明かりでも見ているようだ。しかし真に友雅の視線の先

 にあるもの、瞳に映っているものは、別だ。おそらく、今、ここにいない者を求めてい

 るのだ。

  泰明はこれ以上の会話に意味はないと判断した。

 「明日の白虎との戦いには私を連れて行け」

 「なぜ?」

 「今のお前があてにならないからだ」

 「ずいぶんな言われようだ」

 「事実だ」

 「否定はしないけれどね……。ま、神子殿次第と言っておこうか」

  友雅の物言いは、いつの間にか、以前の様子に戻っていた。彼にどんな心境の変化が

 起こったのか、泰明に伺うことはできなかった。



  泰明は自分がきょうの戦いに帯同するもう一人の八葉として声をかけられることを確

 信していた。あかねに記憶は戻らず、きょう白虎を解放すれば、残る四神は玄武だけだ。

 たとえ神子が判断を下せずとも、地の玄武である泰明を選ぶべく、藤姫も友雅も動くだ

 ろう。

  案の定、藤姫を伴い、あかねが身支度を整え、廂の間に集う八葉の前に現れた時、先

 にあかねに目通りしていた友雅が泰明に声をかけた。

 「それじゃ、泰明殿、鬼退治にでも行こうか?」

 「言われるまでもない」

 「陰陽師殿がご一緒してくれたら安心だ。私などは、体のいい道案内のようなものだね」

  軽口がたたけるくらいには、気持ちが落ち着いたということなのだろう。あかねは、

 そんな友雅を少し驚いた顔で見ていた。視線に気が付いた友雅が、あかねを振り返る。

 「では、行こうか。神子殿。白虎の封印されている場所は、地の白虎である私が一番良

 く知っているから」

  あかねは大きく頷いた。




 「広い道……。ここに白虎が封印されているんですね」

 「ああ」

  あかねの問いに友雅が短く答えた。

  山道に分け入る手前の辻は、道幅も広く、視界も開けているが、このくらいの道にし

 ては嘘のように人通りがない。

 「いやな感じがするな。白虎と交わって、同時にまがまがしい気配がする」

 「ただでは済むまい。注意をおこたるな」

  泰明が言うと、あかねは緊張した面もちで、あたりの気配をうかがう。

 「あたしが来るとわかっていたろうにさ」

  突然、辻先のしげみあたりから、三人の前に現れたのは、鬼の女であるシリンだった。

 白拍子のような形、烏帽子から長くたなびく金髪、抜けるような白い肌に、真っ赤な唇。

 シリンには、この京で見られる美しさとは異質の、まがまがしいほど鮮やかな美があっ

 た。鬼の首領に思いをかけている彼女は、龍神の神子と八葉、ことに友雅には何度も煮

 え湯を飲まされ、並々ならぬ憎悪を抱いていた。

 「ああ、いたのかい」

  何でもないように友雅が言った。

 「絶対に許しはしないよ。お前を殺して、あたしに屈辱を与えたことを後悔させてやる」

 「だ……誰? 殺す……殺すって……何で……」

  あからさまな憎悪を前に、あかねは疑問を口に出してつぶやいた。あかねは彼女を見

 ても、以前のいきさつなどを思い出すことはなかった。

 「誰だって? 何を呆けたことを言うんだい。馬鹿な小娘とは思っていたが、さんざん

 面倒かけさせていおいて、この私を見忘れたとでも言うのかい?」

 「お前のような者をいちいち覚えておく必要などない」

  泰明が断定した。

 「生意気な口をきくんじゃないよ! まとめて引き裂いてやろうか、ええ」

 「この人……、なんで、戦わなきゃいけないの? お願い、話し合おうよ」

 「ふん、愚かな小娘とこれ以上話すことなんかないよ! 何だってお館様は、こんなつ

 まらぬ小娘を欲しがるんだかね」

  何も知らずに、それでもあかねは戦いを避けようとした。その言葉がかえってシリン

 を煽ってしまった。

 「……無駄だ、神子。その女には話が通じない」

 「なんで……? お館様って……? 鬼……なの……?」

  あかねの様子に、シリンも気が付いて、あざけるように笑い出した。

 「なんだい、どこかで頭でも打ってふぬけになったのかい? なんてざまだろう。こん

 なおかしいことはないね! だったらくだらないことばかり言わずに、そのまま黙って

 いればいいものを。小娘……お前から殺してやろうか?」

  シリンの嘲笑に、友雅が割って入った。

 「美女の手にかかって命を落とすというのも魅力的だけれど……、今はまだ遠慮してお

 こう。せっかく面白くなり始めた人生を終わらせる手はないだろう?」

 「なんだって?」

  シリンが色をなす。

 「本当に欲しいものは一つしかない。お前も私も、それは同じだ。そしてお前は私にそ

 れを気づかせてくれた。だから、ひょっとしたらお前には感謝しなくてはいけないのか

 もしれないな。……本気を出してみようか?」

  友雅の表情は一瞬にして研ぎ澄まされ、何物にもゆるがない、確かな意志に裏打ちさ

 れた強いまなざしをあらわにした。気の弱い者なら、その目を見ただけで畏怖し、逃げ

 出してしまうだろう、すさまじいまでの気を前にして、シリンがそれほど動揺も見せず

 に強がるのは、白虎が手中にあってのことなのは明白だった。

 「口先だけなら何とでも言えるさ。お前など八つ裂きにしてくれる! 出でよ、白虎! 

 その爪、あたしのためにふるうがいい!」

  昼の明るい日差しに照らされていたあたりが、急に暗雲におおわれるがごとく闇に覆

 われ、獣の咆哮が轟いた。闇より忽然と現れたのは四神のうち西天を守りし聖獣白虎の

 堂々たる姿だった。

 「行くよ、神子殿」

 「は、はいっ!」

  友雅の呼びかけに、あかねが答える。

 「油断するな。さすれば勝つ」

  泰明はあかねの前に出て、攻撃をしかけようと身構えた。

  長い間、鬼の呪詛を受けて曲げられてきた白虎の力は、枷をとかれて、暴走しようと

 していた。牙をむき、爪をたて、白虎が、向かってくる。

 「神子! 力を! 五行の力を!」

  泰明が叫ぶ。

 「力を……私に力を貸して!」

  あかねがまるで祈るように手を合わせ、集中する。すると、五行の力は、まるであか

 ねからあふれる見えない波のように、八葉である友雅と泰明を一気に満たしていく。

  それは戦うための力の発現であるのに、どこか甘美で、そのまま神子と八葉をつなぎ

 高みへ誘う陶酔すら感じさせる絆であった。友雅と泰明に力がやどる。迷いは一切ない。

 「きらめきよ、つらぬけ。星晶針!」

  友雅の術が白虎を襲う。傷ついた白虎の咆哮があたりの空気をふるわせ、すさまじい

 反撃の衝撃が彼らに向けられた。

 「白虎、お前の敵は、目の前だよ!」

  シリンが叫び、白虎はなおも威嚇の姿勢で、自分に向けられる攻撃をなぎはらおうと

 するかのように、襲い来る。

 「ダメっ! あぶないっ!」

  あかねが声をあげる。友雅はかろうじて白虎の爪を避けたが、ただではすまず、袍の

 袖は引き裂かれ、腕に傷を負ったようだった。

 「あ……あ……っ……」

  あかねの瞳が、恐れにおののき、ゆれる。

 「これくらいはなんでもない。神子殿、前を!」

  友雅が注意を促す。泰明は術を唱えようと目を閉じた。

 「我は請う、北辰の神力。太上鎮宅霊符!!」

  泰明の術は、神意を持って落ちる雷鳴のごとく頭上から貫く激しい刃となって白虎を

 襲った。耳をつんざくような白虎の咆哮が、すべての音をかき消し、まるで地響きをも

 伴うかのようにして、あたりをふるわせた。

  それでも白虎は止まらない。呪詛はとうに消えていても、鬼に操られた糸を断ち切る

 ことができない。

 「ど……どうしたら……助けられるの? ああっ!」

 「白虎! さあ、やっておしまい!」

  傷つき狂う白虎にさらにシリンが追い打ちをかけようとする。シリンは白虎をこの場

 で失おうともかまわないのだ。このままでは狂った白虎の爪に、三人ともども引き裂か

 れることになりかねなかった。

 「友雅、あの女だ」

  渾身の術で、いったん姿勢を崩した泰明が、友雅に声をかける。

 「ああ、君はそちらを!」

  友雅は白虎の後方にいるシリンに直接、大技をかけようとした。

  それに気が付いたシリンは容赦なく白虎をもって盾にしようとしている。

  八葉二人にかばわれるような形で、二人の背後にいたあかねには、そのシリンのとる

 だろう動きの軌跡が、はっきりと見えていた。

  友雅の攻撃がシリンでなく、白虎に向かってしまう。

  今、白虎に友雅の一撃を加えたら、いけない。白虎の咆哮が耳に痛いほどだ。そうで

 なくとも、友雅が鬼による呪いにむしばまれている白虎の痛みをその身に感じているの

 はあきらかだった。あかねには、なぜかその痛みが直接身体に響いてくるのだ。

  白虎の痛みと八葉の痛みが、神子の痛みに重なり、あかねの体中の神経が焼き切れそ

 うになる。

  友雅は気がついていない。最大の力を伴う術が彼によって紡がれようとしていた。

 「──太白の凶過を受けよ。神星無双大将軍!!」


  だめ! 今、白虎をこれ以上傷つけたら死んでしまう!

  地の白虎である友雅に、白虎そのものを倒させてはいけない。

  封印を──、封印をするには、どうすればいい? もう間に合わない!

  龍神の神子って何? 本当に私が龍神の神子なら、何とかできないの?

  これ以上はだめ! 傷つけないで! 助けて! 助けてあげて! もうやめて!

  白虎が! 白虎…………友雅さんっ!!


 「だめぇええええええ!」


  一瞬だった。友雅がシリンめがけて放った攻撃の刃は確かに白虎が受けると見えた。

  その前に、泰明と友雅の後ろから、止める間もなくあかねが飛び込み、友雅の繰り出

 した神星無双大将軍の攻撃から白虎をかばうようにその身を投げ出した。

  友雅が攻撃をそらす間もなかった。あかねは、まともに友雅の攻撃をあびて、がくり

 と膝をついた。

  八葉二人は己が目を疑った。

 「神子殿っ!!」

 「──神子!」

  また、響く白虎の咆哮。

 「……これ以上、白虎を傷つけたら……本当に死んじゃう……っ」

  あかねの声は、その身に受けた衝撃をまざまざと知らせるほど、弱々しく、しかしそ

 の意志はゆるぎなかった。

 「神子殿、下がりなさい!」

  目の前で起こったことが信じられないのだろう、友雅は半狂乱の様相を見せていた。


  誰の攻撃が誰を傷つけた? 誰が? 誰を? 誰?


 「おやおや、なんて馬鹿な娘なの。自ら死にたいというなら遠慮はいらないね。白虎は

 私の手にあるのよ。さぁお行き!」

 「神子、だめだ!」

  泰明があかねを後ろへとかばおうとしたが、あかねはその手を振り払い膝をつき、は

 いずりながらも、なお白虎に近づいていこうとした。

 「白虎は傷ついてる……穢されて……苦しんで……もう、ほとんど力がない…の……に」

  あかねは肩で息をしている。並大抵の衝撃ではなかったはずだ。まだ意識があるのが

 不思議なほどだった。

 「そうかい? でも、おまえをその爪で引き裂くくらいの力はあるんだよ」

  シリンが、まるで力無い虫をいたぶるように挑発する。あかねは燃えるような目をし

 て、白虎の影に立つシリンをにらんだ。白虎の前肢がゆるゆると動こうとしていた。

 「善星皆来! 悪星退散!」

  泰明が攻撃を弱める結界を張り、絶叫した。

 「友雅、あの女を! 神子、もういい、白虎を解放してやる。そこをどけ! 神子っ!」

  友雅の力は、大きな術をとなえたことで著しく損なわれていた。さらにあかねを傷つ

 けたという衝撃が友雅を打ちのめそうとする。龍神の神子であるあかねが、力を引き出

 し与えなければ、さらなる攻撃ができない状態だ。

 「神子殿!!」

  絶望の色を帯びた友雅の叫びが神子を呼ぶが、あかねの耳には届かないようだった。

 「そう、みんな忘れてしまったんだねえ。覚えてないなら、いっそお前がこちらへ来る

 がいい。あたしとしては、お前のような小憎らしい娘は、この場で引き裂いてもあきた

 らないけれど、お館様の命令は絶対だからね。あたしの邪魔さえしないのなら、連れて

 いってやってもかまわないんだよ。役立たずの八葉なんぞに義理立てすることないだろ

 う? お前が来ればすべてが終わるよ。おあつらえむきじゃないか。お館様も、さぞ、

 お喜びになるよ」

  シリンが勝ち誇った微笑みすら浮かべて、白虎の後方から白い手をさしのべる。

 「……させない……も…もう……これ以上は……だ……め……びゃっ……こ……………」

  膝をつき、うつむいていたあかねが、ゆらりと立ち上がる。彼女を中心に、とてつも

 なく大きな気が動いた。押さえきれない龍神の力が、神子の身の内からあふれ出そうと

 している。

  風が吹く。西からの風が力を運ぶのだ。

 「小娘ひとりに何ができる」

  シリンがあざけるように声を張り上げた。

  あかねは何も聞こえていないようだった。力の入らなかったか細い華奢な身体が神々

 しく神気をおび、その表情からみるみるうちに幼げで豊かな娘らしい感情が抜け落ちて

 いく。

  憑依の一瞬。

  あかねの身体からおびただしい純白の光の波がほとばしる。

  あたりのものすべてをつつむ穢れなき気の奔流。  

 「……めぐ…れ、天の声。……響け、地の声。──彼のものを……封ぜよ!」

  白虎の咆哮が耳鳴りのように轟き、あたりは光であふれた。

  まばゆいばかりの神気に、そこにいるすべてのものが視界を失った。

 「あああああああああっ!」

  耳を貫く絶叫は、いったい誰の叫びだったのか。



  気がつけば、あたりは静寂に満ちていて、龍神の神子による力の発現の前に白虎は封

 印されていた。先ほどまで満ちていたまがまがしい穢れは、ぬぐいさられたように浄化

 され、ただ静かだった。



 「……白虎が……白虎が、私たちに……力を……貸してくれる……」

  立ち尽くしたままのあかねが朦朧とした声で、つぶやいた。

 「なんてことを……、君は……神子殿、君……は」

  友雅の声は震えていた。泰明がこの場の尋常でない様子に気が付いて声を上げた。

 「どけ、友雅! 神子は」

  あかねは、ふらふらと二、三歩前へ出たかと思うと、立っていられずにその場にくず

 おれた。

 「神子殿!」

  友雅がとっさに抱きとめようとしたが間に合わず、あかねは力無く膝をつき、前へ倒

 れ込む、その瞬間に、駆け寄った泰明が倒れ込むあかねの前に腕を出し、泰明の支えで、

 あかねは上体を土につけずに済んだ。


 「うそよ……そんな、あたしが負けるなんて……」

  白虎の喪失にシリンが蒼白になった。

 「興ざめだな、シリン」

  いつ、現れたのか、赤い衣を身にまとい、仮面をつけた鬼の首領アクラムが、シリン

 の背後に立っていた。しかしその姿はおぼろで、まるで幻のように実体感がなかった。

 「あ……お館様、お待ちください。もう一度、このシリンに機会をお与えください」

 「二度はない。そう言ったはずだ」

 「……ああ、でも! でも、どうか今一度……! お館様!」

  シリンの懇願にアクラムが耳を貸す様子はなかった。アクラムは泰明に支えられてい

 るあかねを見ていた。

 「龍神の神子……そなたは私がこの地へ誘った。それも忘れたか」

 「……だ…れ……?」

  あかねは、泰明の腕にすがったまま、かろうじて顔を上げた。

 「何も覚えていなくとも、その身を犠牲にして、白虎を解放したか。龍神の神子のそな

 たが、そこまでする必要があるのか。八葉など、そなたがいなければ、何もできはしな

 い。あまつさえ、そなたを傷つけさえしたものを──」

 「勝手な理屈で京を穢す鬼が何を言う」

 「陰陽師か。神子の記憶ひとつ呼び覚ませずに、偉そうなものだな」

 「何を言われようがかまわぬ。無駄なことだ」

 「なんで……どうして……わたし、私……は……」

  あかねは消え入りそうな意識を無理にかきあつめ、自問自答をしているように小さく

 つぶやく。

 「神子、神子は何も心煩わせることはない」

 「神子殿、もう声を出さなくていい」

  泰明の声も、友雅の声も、あかねには届いていない。

 「白虎は……封印した……けど……、あなたは白虎を呪詛して……京を穢して……みん

 なを苦しめて……鬼……なの? 鬼って……鬼って、何……」

 「何も覚えていないというなら、せめてすべての言い分を聞くべきではないか。そなた

 をいいように利用している輩が八葉だの、星の一族でないと、どうしてわかる?」

 「……あなた……は…………」

  あかねの瞳がまっすぐにアクラムを捉えた。

  傷つき衰弱した身体で、なお、あかねの瞳は強い意志を宿していた。

 「何も覚えてなくても……わかることは、ある……わ……。私を気遣ってくれる人達の

 気持ちが本物かどうかは、覚えてなくたって……わかるもの……私が、私が……やれる

 こと……今頃、あなたに聞く必要……あるの……?」

 「失われた過去を取り戻したくはないか」

 「あなたが……持ってるの?」

 「さて、どうだろうか」

 「神子殿の心を乱そうとしても無駄だぞ、鬼よ。それとも、ここで決着をつけるのか?」

  友雅が低く押さえた声で隠すことなくむき出しの殺気を伝えた。

 「自らの不足で神子をその手にかけたふがいなき八葉ごときが? 笑わせるな」

 「ふがいないかどうか、試してみるか」

  触れれば切れるような、押し殺した怒りがあった。激しさのあまり、そのまま表にあ
 
らわすことすらできない怒りのすさまじさを、友雅から発せられている気が物語る。

  だが、身構える友雅をあざ笑うように、アクラムはふわりと後ろへ遠のいた。

 「まだ終わってはおらぬ。玄武は我が手中にあるからな。四神がそろわねば、龍神の力

 も得られまい。神子よ、また会おう」

 「あなた……は…………」

  あかねの疑問に答えることなくアクラムはその場を去ろうとしている。

 「お館様! お待ちください! あたしは……っ!」

 「どこへなりと失せるがよい」

  シリンの悲鳴のような嘆願にアクラムはかけらの関心も見せない。あかねは思わず息

 を呑む。

 「ひど……い……なんで、そんな冷たい……」

 「使えぬものを後生大事にする必要がどこにあるのだ? くだらぬ感傷だな」

 「……使え……ない…………?」

  アクラムのその言葉を聞いて、あかねは、反射的に身じろぎをする。

  何も覚えていない役立たずな龍神の神子なら、きっとここにはいられない。

  せめて、せめて龍神の神子としてだけは……。

  あかねの顔から血の気が失せていく。

 「神子殿!」

 「神子!」

  ふたりの八葉が、神子を支える。

 「まずは身体をいとうがいい。さらばだ」

 「お館様! お許しを……っ!」

  アクラムの姿は煙のようにかき消えて、シリンもまた、その場を立ち去ろうとしてい

 た。しかし、あかねには、もうそれを追う力は残っていなかった。

 「……あ、……あ、あの……ひと……」

  うずくまるあかねが、うわごとのようにつぶやく。

 「追うのか?」

  泰明が小さく聞いた。友雅が首を振る。

 「いや、彼女はもう戦えない……。それよりも神子殿だ。神子殿、神子殿っ!」

  泰明にすがっていたあかねの肩に手を置いて、友雅は膝をつき、かがみこんで声をか

 ける。あかねはとうに限界を越えており、意識も遠のいて、返事はできずにいた。泰明

 から友雅の腕に取られ、肩を抱かれゆすられて、友雅の腕の中でがくりとあかねの首が

 のけぞる。

 「神子殿!」

 「友雅、それ以上神子をゆするな。白虎をかばって、お前の攻撃を受けたのだ。かろう

 じて助かったのは龍神の守りがあったからだ。でなければ……」

 「私が神子殿を殺めていたか」

  泰明は答えなかった。

  友雅は気を失っているあかねの顔を見つめていた。血の気を失い、ところどころ傷つ

 いている小さな白い顔だった。友雅はゆっくりと動きが響かないようにして、あかねの

 ほつれた髪をなでた。

 「なんという人だろうね。こんなに小さな少女なのに……。すべてを忘れてなお、こう

 してその身を捧げてしまうのか。いっそ私こそ白虎の爪にかかってしまいたかったもの

 を。それすら許してはくれないのだね」

 「神子がそれを望むと思うのか」

 「……思わないよ」

 「愚かなものだな」

  泰明の言葉に、友雅の口から、誰が、と問われることはなかった。









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