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う き 波  六
仲秋 憬 




  龍神の神子たるあかねを土御門殿へ送った後は、八葉として為すべきことはない。

  おそらく、友雅が今一番しなければならない事は、明日、子の日の白虎解放の戦いに

 備えて、早く体を休め、万全の体調を整えることだろう。四神との戦いは、それほどた

 やすいものではないのだから。

  しかし、今の友雅にとって問題なのは、己の体調ではなく、心の方だった。

  思った以上に友雅にはあかねの記憶の欠落が堪えている。こんな思いを味わうことに

 なろうとは考えてみたこともなかった。

  しかも、今日の友雅の態度は、結果的に何も思い出せずにいるあかねに、かえって負

 担をかけてしまったとわかっている。橘友雅ともあろう者が、なんという愚かな真似を

 したものか。大人の余裕も何もあった物ではない。

  きょう一日、あかねとふたりきりで行動していたことで、友雅は無意識に気付かずに

 いようとしていた自分の望みを、いやというほど思い知らされた。

  あかねに思い出してほしかったのだ。何かほんのひとかけらでいい。友雅が彼女の中

 に残っているということ確かめたかった。友雅のことだけでも思い出してはくれないか。

  なんて身勝手な望みだろう。それがわかっているから、彼女には言えない。伝えたと

 ころで、記憶が戻るわけでもないだろう。

  忘れてくれとあかねに言ったのは、他ならぬ友雅自身だ。

  その一言が、あかねではなく、友雅を呪縛し、さいなんだ。

  これは、あかねの問題ではない。友雅の問題なのだった。


  あかねが自分の休む西の対へと入るのを見送ってから、友雅は自邸へ帰るべく渡殿を

 急いだ。門へと向かう先の階の下に、頼久が控えていた。まるで友雅を待っていたよう

 だった。

 「友雅殿」

 「何だい? 君から声をかけるとは珍しいね、頼久」

 「おわかりなのではありませんか? 神子殿のことです」

 「そうだろうとは思ったさ」

  頼久は苛立ちも憤りも押し殺したような、ひどく硬質な表情と押さえた口調で友雅に

 相対した。

 「神子殿のご様子にお変わりは?」

 「様子……ね。体の方に大事はないようだが、過去のことは思い出されていないな」

  頼久はふっつりと黙ってしまった。渡殿の軒から下がっている釣灯籠の灯りがちらち

 らと、この美丈夫の憂愁の陰をあぶり出していた。常に身近なところで半ば意識的に他

 人の注目を集め騒がせてきた友雅などとは別に、これはこれで、何も知らぬ女人が見て

 も心騒がずにはいられない風情だろうと、ぼんやりと思う。

  あかねは、頼久のことを、どう思っていたのか、確かな気持ちを、友雅は知らない。

  頼久だけではない。あの日、あかねに追いかけさせた鷹通や、同じ世界から来た旧知

 の間である天真、他のどの八葉のことも、八葉だけではない、あらゆる対象に対して、

 あかねがどう思っていたかを、友雅は知っていただろうか。彼女の前で、さもお見通し

 だという顔をして、本当は何ひとつ真の思いを知りはしない。

  友雅は、あかねの気持ちを、わかっているような気になっていただけなのか。

  たとえ知っていたとしても、今は失われた過去なのだ。

 「あの夜、河原院で神子殿は災難にあわれた」

  確認するように友雅は言った。

 「ええ」

 「君が駆けつけて池に落ちた神子殿を助け出した、その時に……何か原因があると思う

 かい?」

 「……わかりません」

 「そうか。穢されてはいない、呪われてもいないと泰明殿は言っていたが……」

 「神子に何かあったのか」

  突然友雅の背後から、当の陰陽師の声がかかった。こんな時間に彼が土御門殿にいる

 ということは、やはり神子の様子を確かめたくて、帰りを待っていたということだろう。

 「噂をすれば影とやら、だね。珍しいこともあるものだ」

 「こんなところで立ち話をしていれば、そのあたりに控えている者に、何を聞かれるか

 わかったものではない」

 「聞かれて困る話をしようというのではないがね。その先の釣殿にでも行くかい?」

 「──私はこれで」

  頼久は一礼すると、あかねの休む対の前庭へと、下がっていった。今宵も夜通し宿直

 (とのい)をするつもりなのだろう。

 「行ってしまったか。さて、どうする?」

  友雅が、いつのまにか隣に立ち並んだ泰明に尋ねると、泰明は釣殿の方に軽くあごを

 しゃくった。友雅は小さく息を吐いて、釣殿へと続く渡殿を進んだ。泰明も並んで歩む。


  土御門殿自慢の美しい庭の池の水面にも釣灯籠の灯りが落ちて、夜目に輝きをみせて

 いた。

  歩みを進めながら、泰明が言った。

 「お前の気が、かつてないほどに不安定だ。それで神子を守り戦えるのか」

 「陰陽師殿には隠せないようだね」

  特に慌てるでもなく友雅は答えた。

 「何を迷う? 今のお前は隙だらけだ。そのようなことで、白虎を解放できるか」

 「泰明殿には迷いがないね。今の神子殿に問題は何もない?」

 「少なくとも龍神の神子として動くことには問題ないと、前から言っている」


  釣殿までたどりつくと、友雅は無造作に簀子(すのこ)に腰を下ろし、高欄に背を押

 しつけて、目の前に立ったままの泰明を見た。

  夏の夜風がさらりと泰明の長い髪をゆらしたが、彼は身じろぎもせず、相変わらず感

 情を表さない目をして友雅を見下ろしていた。

  彼こそが断罪する者なのだろうかという考えが、友雅をよぎった。

 「泰明殿は神子殿に忘れられても、思い乱れることはないのだね」

 「なぜ、そんなことを言う」

  泰明は容赦がない。それがいっそ今の友雅には心地よかった。

 「お前は平静ではいられぬ、ということか?」

 「そうだね」

 「神子が思い出せないままでいるとして……それで何か龍神の神子としての役目に遅れ

 が出ているのか? 問題なければ、かまわないではないか。らしくもない。お前にとっ

 ては、たった三月(みつき)足らずの間のことだ。別に支障はなかろう」

 「…………」

 「そもそも我らが鬼により奪われた過去の『心のかけら』とて、戻らないからといって、

 そう困りもしてはいない。ことにお前と私は、一番そういったことに頓着しないものだ

 と思っていたが」

 「私も、そう思っていたよ。こんな事になる前まではね。自分を知らなかったという事

 かな」

  友雅は自嘲の響きをのせて小さく笑った。

 「そうではなかったのか」

 「どうやら、そのようだ。自分でも驚いているのだよ」

 「私には、わからぬ」

 「……そう」

 「今の神子は、記憶をなくす前と何も変わらない。人が違ったわけでもない。ただ覚え

 ていないだけだ。神子の本質は何も変わらない。神子が神子たることに何の違いがある」

 「……龍神の神子として、ということだろう、それは」

 「神子の気の本質は何も変わっていない。私にとって神子は、神子だ。それ以外の何者

 でもない。どんなに姿が変わろうが、過去が失われようが、私が神子を見失うことなど

 ない」

  そのことに誇りを感じているかのごとく泰明は告げた。友雅には返す言葉がなかった。

 「お前がゆらいでいるのは、神子がお前を忘れたという一点か」

 「…………」

 「神子がお前に、とりわけ心を寄せていたはずだという、そのことなのだな」

  泰明はひとつひとつ確かめるように言う。それは友雅の前に明らかな真実を浮かび上

 がらせた。

 「では、聞こう。何もかも忘れた神子には、お前は用がないのか」


  育んだはずの過去が失われたら、もう恋はできないのか、と問われたようだった。 










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