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う き 波  伍
仲秋 憬 




  あかねが土御門殿の西の対へ帰宅すると、迎えてくれるのは藤姫だった。

 「お帰りなさいまし、神子様!」

 「ただいま、藤姫」

 「神子様、きょうは大事ございませんでしたか? お疲れでございましょう?」

 「大丈夫だよ。ありがとう」

 「お食事を用意させましょうか? それとも……」

 「ごめんね。そんなにお腹すいてないし、ちょっと体が疲れてるみたいだから、休んで

 もいいかな、もう」

 「まあ、神子様! それでは、お薬湯なりとお持ちしましょう」

  途端に藤姫が顔色を変える。しかし、あかねは、なんとか一人になって考えたいこと

 があった。

 「ううん、いいの。横になって一眠りすれば全然平気だから。わたし元気なのが取り柄

 みたいだし。できたらひとりで静かに休みたいの」

 「左様でございますか。明日はいよいよ子の日でございますし……では、何かご用があ

 りましたら、近くの者に申しつけてお呼びくださいね」

 「うん、ありがとう」


  少し不安げな表情のまま女房を引き連れて藤姫が下がると、あかねは一人与えられた

 間の几帳の陰で、ほっと一息ついた。

  思えば、記憶がないと認識してから、何も自ら確かめようとしていなかった。

  なぜ自分は、ここに、こうしているのか? 龍神の神子であるという。しかし、与え

 られた話ばかりで、あかねには実感がない。身につけている衣服、暮らしている部屋、

 外に出て見聞きするもの、すべてがどこか遠い。自分の居場所、自分の生活、何よりも

 自分自身のことすら、わからないのだ。

  なのに思い出したいと切実に考えなかったのは、どういうことだろう。焦ったところ

 で、どうしようもないという気持ちがあったのは確かだし、周囲の話を聞くだけで精一

 杯だったということもあるが、それにしても普通はもっと違う心持ちになるのではない

 だろうか。

  この世界は確かに自分が育ってきたという感じがしない。身の回りの道具ひとつ取っ

 ても、手になじむものはなく、使い方がわからないものばかりだった。これは記憶がど

 うのという問題ではなく、本能のような感覚で、あかねの体で感じていることだ。あか

 ねは異世界より召還されたというのは事実なのだろうと思う。

  では、その異世界でのことを何かひとつでも思い出すかというと、そういうこともな

 い。一緒にやってきた昔なじみだという天真と詩紋のことも、特別に慕わしく思うとい

 うわけでもない。一緒に暮らしていただろう家族のこと、自分のこと、何か昔のひとか

 けらのできごとを思い出すということもなかった。


  まったくの白紙。


  自分の名前ですら、わからずに教えてもらった。しかし、あかねという名前は、すぐ

 にしっくりとなじんだので、やはり本当に自分の名なのだろうと思う。

  むしろ『神子』と呼ばれる時に、一瞬の躊躇があった。ほんのわずかな間があって、

 それから、ああ自分のことだ、とわかる。そんな感じだ。

  それでも昨日、今日と、神子としての力を使えているらしい。自分では、よくわから

 ないが、五行の力とやらを何とか引き出しているらしい。力を使う、というその時の感

 覚は、頭が真っ白になって、何も考えていない状態に近い。まるで、眠って見ていた夢

 の中のことのようで、自分がどうやって力を発揮しているのか説明することができない

 のだ。ただ、うまくやれたらしいという事実だけが残る。


  ここにいても、いいのだろうか。

  それは気が付いた時から、あかねが感じている唯一の不安と言ってもよかったが、周

 囲はこぞって、あかねのやるべきことを指し示す。

  それをやり遂げることができれば、必要とされるなら、自分はここにいてもいいのだ

 ろう、そんな風にあかねは思った。

  龍神の神子だというなら、それもいい。他にどうしようもないではないか。

  記憶そのものは、自然に時がくれば思い出すだろうと、さして気にせずにいようとし

 た。藤姫の気遣いも身に染みる。可愛らしく、けなげに尽くしてくれようとする彼女を

 悲しませたくはない。小さな少女が、あかねを心配してくれているのは、痛いほどわか

 る。たぶん記憶を失う前も、そんな風に彼女を見ていたのではないかと思う。


  しかし、橘友雅という人はわからない。


  あかねは、この二日間で生まれた、自分の中の新たな不安と向き合った。

  どうして、彼があんな苦しみを押さえたような笑顔を見せるのか、わからない。あか

 ねに伝えたいことがあるようなのに、口を閉ざしたままでいるのが、たまらなかった。

  その原因がどうやら、失われてしまったあかねとの過去にあり、友雅自身を苦しめて

 いるらしいとなれば、無関心ではいられない。

  彼のようなれっきとした大人が、あかねと関わり合うということが、思えば不思議だ。

 自分はそんなことに慣れていないような気がする。友雅は実に美しい大人の男性で、正

 面から見つめられ、よく通る声で話かけられるだけで、どきどきして、うまく物が考え

 られなくなる。

  彼はあかねに「思い出せ」と言いはしない。それが逆につらかった。自分の痛みでは

 なく、彼の痛みがなぜか感じられてつらい。今の所、こんな風に感じた相手は友雅だけ

 だ。


  きょう、河原院で、友雅があかねに許しを乞いたいのだと告げた時、あかねは、初め

 て忘れた過去を早く思い出した方がいいのではないかと思った。忘れたままでいること

 は罪なのではないだろうか。あかねは、まだ思い出すために何の努力もしていない。

  龍神の神子と八葉。この関係をまだよく理解していないのだが、それだけではないの

 だろうか。龍神の神子とは、いったい何だろう。

  藤姫や泰明の説明は、どこか抽象的で、あかねには本当の意味で理解することができ

 ない。


  あかねは意を決したように立ち上がると、部屋の隅にある大きな唐櫃(からびつ)を

 開けてみた。

  そこには夜着や下着にしている幾枚かの白い衣や、藤姫が身につけているような美し

 い色とりどりの衣がきちんとたたまれて入っていたが、それを見ても、記憶をたどるよ

 すがにはならない。

  そもそも、これらの衣の着方があかねにはわからなかった。自分の身になじむ服では

 ないという気がする。


  あきらめて二階棚の方に向かう。漆の塗られた美しい箱がいくつか置かれている棚だ。

 一番端にあったひとつの箱の蓋を開けると、櫛や鏡といった、これまたとびきり美しく

 感じられる道具が入っていた。どうしても自分の物と思えない。あかねは、その箱を、

 そっと元へ戻した。


  次に少し大きめの波模様の蒔絵の箱を開けてみる。そこには筆や硯が入っていた。書

 き物の道具だ。しかし、やはりなじみがない。

 「筆……だよね。筆かぁ……」

  細い筆を1本手にとってしげしげと見たが、何も感じない。結局その箱も元通りに戻

 した。


  最後に一番厚みのある大きめの唐草蒔絵の箱をあけた。中には色とりどりの紙が入っ

 ている。思わずその紙を出して広げた時、あかねは初めて息を呑んだ。

  そこに入っていたのはおびただしい数の書き損じの紙だった。決してうまいとはいえ

 ない墨痕の数々。何と書いてあるのかよく読めないようなたどたどしい文字の羅列。

 「なに……? これ…………なんで、こんな……」

  それは習字の練習のあとなのか、何なのか。書いてあるのはあかねにとって意味もわ

 からない和歌のようだ。しかも大きくバツ印を書いて反古にしてあるものや、途中で書

 くのをやめてしまったような書き損じばかりだ。

  いろいろな色の美しい紙があるのに、使われている紙は、ほとんどが、にぶく灰色に

 光る銀(しろがね)色の紙ばかりだった。

  あかねは、めまいがした。何かが体の奥底からどんどんあふれてきて、胸が詰まる。

 書き損じのひとつをながめる。どこか遠くで、何かが鳴っている。

 「……さ……さつき、待つ……、花た、ちばな、の…………、か? 香を、かげば……

 むかしの、ひ、と…の…………っ!!」

  手にする紙に書き付けられた文字を、なんとか読もうとしたが、何かが邪魔をする。

 体が震え、目がかすむ。心臓はさっきから恐ろしい早さで打ち続けている。


  へたくそな字の手紙? これはいったい何?

  読んではいけない!! 

  頭が痛い。割れそうだ。

  どうして? 

  だれかあの音を止めてほしい。

  耳の奥でガンガンとさっきから鳴り響く鈍い破鐘のような音を止めて。

  やめて。やめて。もう、やめて!!




  気が付けば、手にしていた紙をぐしゃりと握りしめて、あかねは床に散らばる料紙の

 中でうずくまっていた。

  あたりは静まり返り、燈台の火が燃えてじりりと小さく音をたてているだけだ。夏の

 夕凪を思わせるじっとりとした空気があたりを満たしている。

  突然あかねを襲った嵐のような衝撃の波は、いつのまにか引いていた。くしゃくしゃ

 になった紙を広げて、もう一度見る。書かれてあるのは、たぶん和歌だ。

  しかし、今度はさっきのような、頭痛に襲われることもなかった。


 「──さつき待つ 花たちばなの 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする………かな?」


  なんとか読めたが、意味はよくわからない。さっきは何であんな風になったのだろう。

 「別に、ただの習字の練習の紙だよね……」

  あかねは自分でも信じていないことをひとりつぶやいた。

 「私が書いた……のかな。やっぱり」

  しかし、それ以上のことは何も起こらず、あかねは何も思い出すことができないまま

 呆然と書き損じの紙の束をながめるだけだった。










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