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う き 波  四
仲秋 憬 




  白虎の呪詛を祓った翌日の早朝、友雅はあかねを迎えに行くべく、土御門殿へ来てい

 た。白虎と戦う予定の子(ね)の日は明日だ。きょう一日は、まだ時が残されている。

  この二日間というもの、あかねが何も覚えていないとうことを確かめることに終始し

 てしまっていた友雅だったが、さて、これからどうするつもりなのかといえば、自分で

 もわからないというのが正直なところだ。

  何とかしたいとは思うが、そのすべが見つからない。どうすればいいのか、わからな

 い。こんな思いは未だかつて味わったことがなかった。


 「──恋ふれども逢ふ夜(よ)のなきは忘れ草夢路にさへや生ひしげるらむ──」


  歌などつぶやいたところで、何も変わらない。夢の中にも、友雅を見知る彼女は現れ

 てくれなかった。


  友雅が、土御門の西の対、あかねを待つ廂の間に入ろうとした時、下がる御簾の前に

 は地の朱雀である詩紋がいた。

 「おはようございます、友雅さん」

 「おはよう、珍しいね。きょうは、まだ君ひとり?」

 「あの、友雅さんに聞きたいことがあって」

 「私に?」

 「はい。昨日どうだったのかな……って」

  あかねと一緒に、異世界からやってきてしまった少年は、彼女と共有していた過去の

 消失に、さぞ心を痛めているのだろう。不安と心配を色濃くにじませた表情は、友雅を

 もゆさぶった。

 「そう……龍神の神子としては、何の問題もなかったよ。封印も何もかも、以前の通り、

 いや、前より、なお見事に力を表しておられたね。具体的に何かを思い出されるという

 ことはないようだったが」

  淡々と語る友雅に、詩紋は唇をひき結んだままうつむいて聞いていたが、友雅が言葉

 をとぎらせたところで、何か言いたげに、顔を上げた。

 「友雅さん、ボク、これ言うべきかどうか、すごく悩んだんだけど……」

 「なんだい?」

 「あの日……あかねちゃんが夜、災難に合う前の日、友雅さんが暗くなってからあかね

 ちゃんを送ってきた日……」

  友雅は口をはさまず、ただ頷いて先をうながした。

 「立ち聞きするつもりなんてなかった。でも朝、友雅さんに会いに行くって出ていった

 ままあかねちゃんが、なかなか帰ってこなかったから、みんな少し心配してたんです。

 それで迎えに行ってみようかとか、ボクもこのへんでいろいろ考えてて……、そうこう

 してたら、帰ってきたんだ。でも、ふたりとも気がつかなかったでしょう。周りなんて

 見えてなかったみたいだもの……」

 「詩紋……、君は……」

 「友雅さんが言ったんだ」

 「詩紋」

 「あかねちゃんに『忘れてくれるね』って」

  友雅はその場に凍りついた。

 「何を忘れてくれって言ったのかなんて、ボクらには関係ないことですよね。ふたりの

 ことだから。でも……ボク思ったんです」

  詩紋は一息ついて、まっすぐに友雅を見て言った。

 「あかねちゃんは本当に忘れちゃったんだなって……。友雅さんが望んだ通りに」

  この京に於いて、明らかに友雅に比して何の力もないだろう少年の、それは容赦ない

 断罪だった。他人にはっきりと己の行為を指摘され、友雅は初めて自分が悔いているこ

 とに気が付いた。それは実に身勝手な感情だった。

  罪をあがなうべき相手は、もうその罪がおかされたことなど覚えていない。許しを乞

 い願うことすらできない。非を詫びて許しを得るという救いの道は閉ざされている。

  彼女が思い出さない限り、友雅はこの罪をかかえて八葉として彼女に尽くすしかない

 のだ。

 「あかねちゃんを迎えに来たんでしょう?」

 「詩紋……」

 「行ってあげてください。ボクは……どうすればいいのか、わらないから」

  押し殺したような小さな声で、それでもはっきりと少年は言った。

 「白虎と戦う時に、あかねちゃんを守れるのは友雅さんですよね。だからボクはお願い

 したかった」

  罪を知る者だからといって、身代わりのごとく詩紋に詫びることはできない。そんな

 無責任なことはできなかった。

 「──あかねちゃんを守って。これ以上、辛い思いをさせないで」

  頷く以外に、友雅に何ができただろう。少年の真摯な想いの前に、友雅は頭を垂れる

 だけだ。

  詩紋は友雅にそれだけ言うと、あかねに会うことなく、その場を離れていった。



  藤姫は、あっさりと友雅に、あかねへの目通りを許した。彼女は、白虎の解放を前に

 して、今あかねと一番行動を共にすべきは友雅だと考えているのだろう。

  あかねは、几帳の向こうで、すでに身支度をすませていた。朝の挨拶の声もごく明る

 いものだった。友雅は一瞬、以前と何も変わっていないかのような錯覚を覚える。

 「きょうは、私とご一緒していただけないかな?」

  努めて平静に、友雅はあかねを誘った。

 「友雅さんとですか?」

 「そう……君が嫌でなければ、ぜひ」

 「えっと、じゃあ、折角来ていただいたし、お願いします」

  あかねの言葉に友雅はひとまず安堵した。


  出かける供にもう一人を選ぶということを、あかねはしなかった。それについて藤姫

 も口を出さなかったのは、昨日、白虎の呪詛を祓ったことで、これから先の不安が減ぜ

 られたということもあるだろう。

  未だ、あかねにどう接するべきかとまどっているとはいえ、きょう一日ふたりで行動

 できることを、友雅は好機と捉えた。

  あかねの心の内を知りたいと思う。話をするならば、ふたりきりの方がいい。

 「さて、どこへ行こうか……神子殿」

  土御門殿の門を出たところで、おもむろに友雅は聞いた。

 「実は全然わからないんですけど。私」

  あかねが首をすくめた。

 「なんとなく心に浮かんだところでいいのかなぁ……」

  少女がふっと遠くを見るように顔を上げた。友雅はあかねのその表情に不安を感じ、

 それ以上、彼女に考えさせまいとするかのように提案した。

 「では、河原院はどうかな。あまり遠くでない方がいいだろう。まだ神子殿は本調子で

 はあられないのだからね」

  そこは彼女が過去を忘れてきたところだ。河原院へ行くことで、失われた何かが見つ

 かるかもしれないと友雅は思った。


  昼日中でも、人のいない荒れ果てた邸宅というのは不気味なものだ。ただ、不思議と

 今の河原院に穢れを感じることはなかった。怨霊の気配もない。

  伸び放題に草木の生い茂る庭の緑は濃く、足下から立ち上る乾いた気が、土の気をは

 らんでふたりを包む。

 「力の具現化を試みるかい?」

 「……それ何ですか? 具現化?」

  友雅の言葉にあかねは首を傾げた。

 「その土地から流れ出ている龍神の力を引き出し、形にする力なのだそうだ」

 「ええっ、どうやって? 私、前も、そういうこと、していたんですか?」

 「ああ。落ち着いて、強く念じればいいようだったよ。君は龍神の神子なのだから」

 「念じる……って、何を? ……この地に力を、とかですか?」

  あかねは大きくを息を吸って、目を閉じた。友雅の目の前で、実にすんなりと彼女は

 集中し、体中からあふれるほどの神気を放ち、輝き始めた。

  それは、ただ人には見えないはずだが、八葉の友雅には、目もくらむほどの眩しさを

 感じさせる美しい気の波だ。穢れなき神気は河原院のあたり一面に広がっていく。みる

 みるうちに力は増幅され、気がつけば、あかねはたったひとりで、この土地の力を引き

 出し、いくらかの札にも結晶させた。

  なんと鮮やかな発現。

  河原院は五行の力のうち『土』に属する地だ。『金』である友雅とは、属性も異なる

 のだから、必ずしも彼の力が大きな助けになるとは限らない。

  しかし、この具現化において、八葉の手助けをまったく必要ともせずに、土地に眠る

 すべての力を引き出して、ひとりで具現化させることなど、以前のあかねには、できな

 かった。

  これは、どういうことなのだろう。龍神の神子として、ますます力が増してきている

 ということなのか。かつての記憶は今のあかねには、むしろ必要ないのだろうか。

  龍神の神子としての行為をくり返すたび、彼女は斎姫として、どんどん研ぎ澄まされ

 ていくようだ。

  友雅は純粋な恐れを感じて、言葉もなかった。それは喪失の予感だ。以前から感じて

 いなかったわけではないが、彼女が記憶を失って、まさにはっきりと、予感は形になっ

 て友雅の目の前に突きつけられた。

  無くした過去を取り戻すことができたら、彼女を失わずに済むのだろうか。友雅には

 わからなかったが、このままあかねを失うことだけは耐えられないと彼は思った。

  友雅は、まだ何も聞いていない。あかねが本当は友雅をどう思っていたか、彼は知ら

 なかった。今となっては知る由もない。


 「友雅……さん?」

  黙り込んでいる友雅を、集中を解いたあかねが、心配そうに見上げている。友雅は我

 に返って、少女を安心させるべく、微笑んだ。

 「ああ、すまない……見事だね、神子殿」

 「これで、いいんですか? 私、できてましたか?」

 「ああ。私の出番もないほどだ。よくやったね」

 「……よかった」

  友雅の肯定に、彼女はみるからにほっとした顔をした。それにつられて緊張していた

 あたりの空気が、ふわりとやわらかく溶けたようにすら感じる。

  大地に、天に、愛しまれている娘。こういうところは以前と変わらないはずなのに、

 過去を忘れた少女は、友雅にとってどこか遠い存在だった。

  わずかな距離を、どうしても縮められずに、もどかしく思う。しかし、それを彼女に

 言うわけにはいかない。


  どこかに、もつれた記憶の糸を引き出すよすがは、ないだろうか。

 「君は池の橋が崩れて落ちたのに巻き込まれたそうだね。見てみるかい」

 「……そうですね」

  あかねが同意したので、ふたりは草を分けて、池のふちまでやってきた。

  しかし、そこにはかつては橋だった残骸がわずかに残っているだけだ。よどんだ池に

 浮き沈みしつつ散らばったのだろう折れた橋桁や木材などが、あちらこちらにあったが、

 それを見ても、あかねの記憶が呼び覚まされることはないようだった。

  そもそも夜の闇の中で起こったことだ。日の光の中で、すべてが終わっているところ

 を見ても、意味がないかもしれない。

 「せめて、夜に頼久を連れて、来るべきだったかな」

 「…………何にも感じない……」

 「神子殿」

 「良いとも、悪いとも、何も感じないんです。……ヘンですよね。ここでみんな忘れて

 しまうような、何かがあったはずでしょう。なのに、どうして私……」

 「無理することはない。焦らなくていいんだよ」

 「でも……」

 「屋敷の方にも行ってみるかい? 以前、ここには何度か来たことがあるよ。私と一緒

 にね」

 「友雅さんとですか? ふたりで?」

 「ああ」

  その頃かわされたのは、実にとりとめのない話だったが、友雅にとって、それはかけ

 がえのない一時だった。あかねは、友雅の言葉ひとつひとつに突拍子もない反応を示し

 て、彼を楽しませたり驚かせたりした。確かに友雅はあかねに魅了されていたのだ。

  では、彼女はどうだっただろう。嫌われていたとは思っていない。しかし友雅が心の

 奥底で彼女を求めていたのと同じように、あかねが彼を求めていたとは考えにくい。

  今更、友雅が何をどう思っても、彼女の気持ちを知るすべはなかった。

  友雅が思考の淵にはまっているのに気が付いたのだろう。あかねは、すっかりしおれ

 てしまった。

 「……ごめんなさい……思い出せないです」

 「あやまらないでおくれ。君が悪いわけじゃないんだ」

  友雅は、今、目の前にいるあかねに裁きを受けたいという誘惑にかられる。救いも罰

 も彼女以外からは欲しくなかった。

 「君にあやまられたら、私はもう何もできなくなるよ。それくらいなら、いっそ私をな

 じってほしい」

 「できません! そんなこと……」

 「君が記憶を失う前にね、私は君にずいぶん酷なことを言ったのだよ。許しを乞いたく

 ても、今の君はそれを覚えていないのだね。愚かな私は知らなかった。大切に思う人に

 忘れられるのが、こんなに辛いことだとは思ってもみなかったよ。どんなに悔やんでも

 取り返しがつかないね。すまない……。勝手な言い分だ」


  忘れてくれとあの時、友雅は言った。

  本当に忘れてほしかったら、そんなことを言うだろうか。

  そう言えば、あかねは彼を忘れられなくなると、どこかで思ってはいなかったか。

  身勝手な男。己のことしか考えていない。恋の手練れ。色好み。駆け引きに終始する

 恋に慣れきっていた男。

  ただ素直に求めればよかった。そうすれば例え拒絶されても、己を偽り、恋しい人の

 真実を確かめないまま、喪失の痛みにのたうち回ることはなかっただろう。


 「ごめんなさい。……わからないです。友雅さん、わからないの。ごめんなさい」

  許しでもなく、拒絶でもなく、ただ謝罪の言葉をくり返すあかねは痛ましくて、友雅

 は胸を押さえた。いったい自分は何をしているのかと思う。しなければならないことと

 逆の行為をしているだけではないか。

 「友雅さんがつらそうなのは、私のせい……なんでしょう? 私が忘れて思い出せない

 ことが友雅さんを苦しめているんでしょう?」

 「違うよ。本当に君のせいではないんだ。罪は私ひとりの物だ。身勝手な私の言葉に、

 君はそんなに真摯に答えてくれようとしたのにね。今の君に許しを乞うのは間違ってい

 るのに、それをせずにはいられないなんて、愚かもいいところだ。ねえ、私は、こうし

 て何も覚えていない君を騙して、同情を引こうとしているのかもしれないよ。そうは思

 わないのかい?」

 「思いません。友雅さんが、どんな人か、まだよくわからないけど、でも、あなたが、

 つらい気持ちでいるのは、わかります」

 「神子殿……」

 「友雅さん、私のことを、そんなに気に病まないでください。お願いです。私……今、

 ここでやれることがあって、よかったなって思ってます。龍神の神子が何なのかも、わ

 かっていないけど、私が役に立つことができる存在でよかったって。こんなに心配して

 もらって、支えてもらって、だから大丈夫……」


  なんという情熱だろう。

  すでにもう、あかねのことしか考えられなくなっている自分を、友雅はあらためて見

 つめ直すだけだった。









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