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う き 波  参
仲秋 憬 




  京に穢れをまき散らす鬼は、こちらの事情で待ってはくれない。むしろ、隙を見せれ

 ば、その機に乗じてますます荒ぶる力をふるうだろう。

  あかねが龍神の神子として為すべきことをしようと前向きになってくれるのは、あり

 がたいことだ。少なくとも、この京にとっては。

  白虎を解放すべき次の子(ね)の日まで、あとわずか。それまでに鬼による呪詛を解

 く必要があり、どうしても神子の力が必要だ。龍神の神子と八葉に休んでいる暇は、な

 かった。

  だが、神子たるあかねには、これまでの記憶がない。供をする八葉を自分で選ぶこと

 もできないだろう。

  藤姫は考える。これまで、四神を解放せんと地の理(ことわり)で動いていたのだか

 ら、やはり今日のところは、地の白虎である橘友雅が供をするのが必定だ。

  今のあかねに友雅ひとりでは心もとない。あとひとり、それには、まだ何もわからな

 いでいるあかねを導くためにも、陰陽師である地の玄武の安倍泰明がふさわしいと、藤

 姫は、あかねの意向を確かめずに、本日、神子に供する八葉を決めた。

  あかねに記憶がない以上、こればかりはどうしようもなかった。



  その朝、友雅は呼び出されるより前に、土御門殿のあかねの過ごす西の対へ来た。し

 かし、すぐ藤姫に取り次ぎを頼む気にはなれずにいる。

  昨日はあれほど騒がしかった、いつもあかねを待つ廂(ひさし)の間には、まだ誰も

 いなかった。良く晴れた夏の朝、蔀(しとみ)はすべて上げられて、廂の間から庭に咲

 く散り際の藤がよく見える。松にかかる藤波は、あふれるほどで、そら恐ろしいほどの

 美しさだ。

  その藤波の向こうに、ちらりと翻る袖が見えた。

  友雅はとっさに、渡殿の階から庭へ降りて、目にした袖の行く先を追った。


  龍神の神子のために整えられた美しい庭。その庭の藤波をくぐり、松が枝を分けて進

 んだ先に、見事な松の藤波を映す池が広がる。

  水底の色さえ深い池に向かって、あかねが立っていた。彼女は一心に池を見つめてい

 て、友雅に気が付かない。思いつめたような横顔は、友雅が初めて見るものだった。

  池の水面で、ぱしゃりと魚(うお)がはねた。その瞬間、あかねは気配を感じたのか、

 ふと振り返って友雅を見つけた。友雅が声をかける前に、あかねが口を開いた。

 「おはようございます」

 「おはよう、……神子殿」

 「えっと…………、橘の少将さん……でしたよね?」


  はにかんだような、あかねの笑顔。その笑顔を友雅は、かつて見たことがあった。ま

 だ出会ったばかりの頃に、あかねはよくこんな顔をした。とまどっているようで、慣れ

 ない風におずおずと、でも、自らの意志で、わかりあおうと手を差しのべるかのように、

 どこか真摯なまなざしがまぶしかった。

  彼女は、見知らぬ者を見る目をしている。彼女の瞳に映る友雅は、他人に等しいのだ

 ということが、その表情でわかってしまう。

  あかねは本当に忘れてしまったのだ。


 「友雅、と」

 「え?」

 「友雅と呼んでくれるかい? 君の八葉だ」

 「と……友雅、さん……?」

  以前と呼び名を同じにしたところで、あかねの記憶がすぐに戻るわけではないが、友

 雅はあかねの呼び方を直さずにはいられなかった。

 「そう……君は私のことを、そう呼んでいたよ」

 「え、と……、ご、ごめんなさいっ! 覚えてないんです。私、自分でもなんか、どう

 してかなって、おかしいくらいでっ……変ですよね。えっと、でもっ」

  友雅が一歩近づくと、あかねは一歩後ずさりする。恥じらいからか、彼女の頬に血が

 上って、みるみる紅に染まるのを見て、友雅は間を詰めずにはいられなくなった。

 「初めて君に会った時、私が名前を聞いたんだ……。それから君の生まれた日を」

 「あなたが?」

 「いきなりこの京へ召還された君は、一方的に聞くばかりの私に、物問いたげだったな」

  その時、友雅は、教えるのは好きじゃないんだと、答えなかったのだ。

 「ごめんなさい……」

 「なぜ、あやまるんだい?」

 「あ……っ」

  後ずさりしていたあかねは、草に足を取られて、ずるりとすべる。

 「あぶない!」

  よろけたあかねを間髪入れずに友雅は抱きとめる。細い身体を支えるのは片手でもた

 やすく、まるで重さが感じられないほどだ。

  友雅が抱き寄せると彼女は、見るからに慌てた。

 「どこへ行くの。池に落ちるよ。入水でもする気かな」

 「ええっ? あ、すみません。もう大丈夫です。あの、は、離して」

 「逃げないと約束してくれたら離すよ」

 「に、逃げるって、そんなっ、あの、ごめんなさい! えっと」

 「水面を見ていたね。何を考えていた?」

 「何って……そんな……」


 「神子さまーっ! どちらにいらっしゃいますの? 神子さまぁ!」

  西の対の渡殿の方から、あかねを呼ぶ声がする。

 「あ、ふ、藤姫が呼んで」

 「行くのかい」

 「え? だって……」

  あかねは困惑した幼げな顔で、友雅を見上げる。友雅はあかねの瞳に映る自分を見た。

  ついこの間までの友雅と、いったい何が変わっただろうか。

  彼女の中に一昨日までの友雅はいない。今の友雅は、あかねにとって昨日初めて会っ

 た自分より年かさの見知らぬ男だ。

  あかねを探す藤姫の声が高くなる。友雅があかねを抱き込んでいた腕からふっと力を

 抜いて開くと、あかねはすぐさま飛び退る。


 「神子、ここにいたのか。早く来い」

  松の影から泰明が顔をのぞかせた。藤姫に言われて、あかねを探しに来たのだろう。

 「あ、えっと……」

 「友雅も来ていたのか。ならば話は早い。白虎の呪詛を祓いに行く」

  泰明は、あかねの困惑も、友雅の思惑も、まったく気にとめない様子で言った。

 「昨日言っただろう。お前は龍神の神子だ」

 「あ、はい」

  あかねは素直に返事をした。

 「今しなければならないことは、四神の解放。青龍、朱雀はすでに封印した。残るは二

 神。まずは白虎だ」

 「ど、どうすれば……」

 「呪詛されている地は見当がついていたのではないか? 友雅が同行して探していたの

 だろう」

 「ああ、野宮で気配を探って……そう、あの時は」

 「────大豊神社……」

  あかねがぽつりと言った。

 「神子殿! 思い出したのかい?!」

  友雅が思わず声を上げた。

 「え? ああ、私……あれっ? いえ、なんとなく浮かんで……、大豊神社って本当に

 あるんですか?」

 「大豊神社か。よし、行くぞ」

 「ええっ? あの、や、泰明さん……ですよね? あの」

 「急げ。時が移る」

  さっときびすを返して背中を見せた泰明に、あかねはそれ以上問うこともできず、小

 走りで、彼の後を追う。友雅はひとつ息を吐いてから、ゆっくりとその後を歩いていっ

 た。



  大豊神社は広い林に包まれて、緑濃い地だ。その神社にも今は怨霊が巣くっていた。

 「何か……いる」

  神社の参詣道の手前まで来たところで、あかねの目の色がすっと濃くなり、やわらか

 かった幼げな表情が、抜けた。それは、まるで先を歩いている陰陽師の感情を映さない

 表情にも似ていた。

 「怨霊だな」

  何の感慨もなく当たり前に泰明が言う。あかねを守るべく友雅も身構える。


  林の奥深くに瘴気がたちこめている。そのうごめく禍々しい気の中からこつぜんと現

 れ、三人に襲いかかってきたのは、ねずみの怨霊だった。

 「龍神の神子の盾となり、剣となるのが八葉だ。下がれ、神子」

 「え? あっ、なに?!」

 「思ったより楽そうな相手だね。神子殿、後ろへ」

 「落ち着くがいい。お前の内なる声を聞け。力を。五行の力を解放しろ」

 「────っ」

  何もかも忘れたはずのあかねは、しかし、躊躇しなかった。怨霊の爪がするどく切り

 裂くかのように襲い来るその瞬間、ぎゅっと目をつぶり、両手を組み合わせて祈るよう

 に身をかがめたあかねの体から、眩しいほどの光がほとばしる。

  怨霊は怯み、攻撃をはずした。

 「それでいい。善星皆来! 悪星退散!」

  泰明が呪を口にする。

 「神子殿、下がっておいで」

  友雅が声をかけると、あかねは、無我夢中の体で身体を起こした。

 「あ……、だめっ、このままじゃ……っ」

  泰明と友雅の攻撃が怨霊の気力を奪ってゆく。

 「神子の力は増している。神子、今だ!」

 「……めぐれ、天の声。響け、地の声。──彼のものを封ぜよ」

  呪言はまるで自然にあかねの口をついて出ていた。

  その途端、あかねの身の内から発せられた、目がくらむほどの神気の発現は、淀み穢

 れた瘴気を一気に浄化する。神々しい光が辺りを包む。

  白い光が散って、ゆるゆると視界がもどった後は、清浄な気とともに、先ほどまでの

 戦いが嘘のような静けさが落ちた。

  大豊神社の怨霊は封じられたのだ。


 「……さすがは神子殿だね。これで、この地に安息が戻ったというわけだ」

  あかねは、ぼんやりと立ち尽くす。何かが降りてきた後、力の抜けた状態のようだっ

 た。友雅が手を差しのべようとした。

 「神子殿、大丈夫かい?」

  友雅の手が、あかねの肩に触れた途端、あかねは我に返って、友雅の手から逃れるよ

 うに飛び離れた。

 「あっ、だ、大丈夫ですっ。えっと……封印……できたんですよね」

 「よくやった、神子。この地の穢れは祓われた」

  不安げに問うあかねに、泰明がめずらしくいたわるように褒め言葉をかけた。泰明が

 こうした言葉をかけるのは、あかねにだけだということを、友雅は知っていた。

  何かがちらりと友雅の胸中をかすめたが、彼はそれを無視した。



  大豊神社の林の梢が風に鳴る。

 「この広さ、何かことを行うには都合がよい」

  泰明の言葉を聞いているのかいないのか、あかねはきょろきょろと落ちつかなげに周

 囲を見回している。

 「周りの林に比べたら境内の広さが手ごろに感じられるね。神子殿を守るなら、これく

 らいの広さの方が守りやすいが、どうだろう?」

  友雅は先に見える境内の方を見て言った。白虎を呪詛している呪詛の種は、この大豊

 神社のどこかにあるはずだ。

  あかねは、また考え深げにうつむき、視線を落として、沈黙したまま動かなくなった。

 「神子殿?」

  友雅がいぶかしげに問う。

  見えないあかねの瞳が、また、色を濃くしているのではないかと、友雅には思えた。

 あかねは無意識に集中し、自分の内なる声を聞いている。以前とは違う。彼女はこんな

 に簡単に迷いもなく、神子として神を降ろす状態に入っていくことはできなかった。

  何もかも忘れたというあかね。しかし、それは神子の働きに悪い影響を及ぼさないの

 だろうか。あかねの周囲をぴんと張りつめたような気が包み、支配している。


 「──境内。境内を探してみませんか」

  抑揚の無い声で、あかねが言った。それはまるで神託のようだ。龍神の神子の神託を

 前にして、二人の八葉にもちろん否やはない。

 「……そう、神子殿は覚えておられないだろうが、この大豊神社の話を宮司殿に聞いた

 時、鬼は神社に用があったようだと言っていたね」

  友雅が記憶をたぐりよせて言うと、泰明は納得したようにうなずいた。

 「そうか。ならば、確かにまず境内を探すのが順当だと思う。さすがだ、神子」

  声をかけられて、あかねはふっと顔を上げる。夢からさめたような一瞬があって、そ

 れからいつもの表情豊かなあかねが戻ってきた。

 「え? そ、そんな、わからないですけど、なんとなくでっ。じゃ……じゃあ、探しま

 しょう!」

  張りつめていた緊張がふわりとゆるんだ。友雅は思わず詰めていた息を吐いた。


 「……見つけたぞ」

  泰明が声を上げた。境内のあちらこちらを三人で探しまわれば、それは容易に見つか

 った。

 「どうやらお目当ての物が見つかったみたいだよ」

 「……いやな感じがする…………」

  呪詛を見て取ったあかねの身体が震えるのを、友雅は真横で感じた。

  境内のすぐ裏の梁の下に、それは埋まっていた。表面に呪印のほどこされた石は禍々

 しい呪詛の種だ。三人は、呪詛を取り囲む。

 「これが白虎を呪詛しているのか。神子殿、早く祓ってしまおう」

  友雅が一息に言った。

 「神子、それを取り出すのだ。お前の手で」

 「……姫君のその爪、やはり土で汚すのは惜しい。私が取り出してあげようか」

  泰明の指示に反応した友雅の申し出を、泰明はすぐさま止めた。

 「神子でなければならぬ。それは『呪詛の種』。地中に根付き、龍脈に食い込み、四神

 を狂わせている。埋められている場所から神子が取り出せば、効力を失う」

 「私が? 取り出せばいいんですか? じゃ、とにかく取り出して……」

  あかねはためらいもなく、白い手で土をかいて、呪詛の種を取り出した。あかねがそ

 の呪詛に触れた途端、きいんと何かがはじけた気配を、二人の八葉は感じ取った。

  呪詛の種は見た目よりそう重くないのか、彼女一人で持ち上げることができた。

 「よいしょっと」

 「それでいい。穢れは祓われた」

  あかねは取り出した呪詛の種を、ひとまず脇の草むらへ置いた。さっきまで地中で、

 ただならぬ邪気を発していたそれは、まるで何の変哲もない、当たり前の大きな石のよ

 うになった。

 「こんなに簡単でいいの? それに、また同じ物が埋められたら、どうするの?」

 「それはない。その呪詛の種、すでに穢れは祓われた。お前が触れたことで、お前の五

 行の力がこの地を浄化した。今後は、この地へ流れたお前の浄化の力が呪詛をはねのけ

 る」

 「浄化……?」

 「そうだ。お前はわからなかったのか?」

 「よくやったね、神子殿。ご苦労様」

  友雅も声をかけた。

 「そうなんだ……。よくわからないけど、これでいいなら楽でしたね」

  放心したように、あかねは言った。

 「……よかった。私、できたんですね……。覚えていなくても呪詛が解けて」

 「そうだ。あとは白虎と戦うだけだ」

  泰明が示唆すると、あかねはまた宙を見た。

 「白虎と戦う…………」

  のろのろとくり返すあかねの口調に、また憑依の一瞬が来るかと見えた。

 「神子殿!!」

 「どうした、友雅」

  らしくない突然の友雅の声に、泰明が驚く。

  友雅は急に今までにない不安に襲われたのだが、それは、ほんの一時のことで、あか

 ねは、きょとんとした目を友雅に向けた。

 「私、何かしましたか?」

 「……ああ、いや、すまない。何でもないよ」

  友雅の応えに泰明は少し眉をひそめた。

 「おかしなやつだな。何でもないなら黙っていろ。神子、問題ない。お前は龍神の神子

 として充分に力を尽くせる」

 「なら……このままの私にも、できることがあるなら……、それなら……」

  あかねは誰に言うともなく、ひとりごとのように小さくつぶやいた。

 「……大丈夫…………ここにいても、いいですよね」

  ためらいがちに紡がれた言葉は、今は穢れが祓われた大豊神社を渡る夏の風にのって、

 散っていった。









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