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う き 波  弐
仲秋 憬 




  目の前の男に、誰か、と問うても、答えが返らないことに困惑したのか、あかねは所

 在なく、ただ座っている。視線は落ちつかなげに周りを見渡したりもするのだが、自分

 の置かれた状況に、とまどっているばかりの様子だ。

  周囲は、そんなあかねに声をかけあぐねているかのように、沈黙が続く。


  このままでは、らちがあかないと思ったのか、稀代の陰陽師、安倍晴明の最強にして

 最後の弟子と言われる、地の玄武、安倍泰明が、あかねに向かってぽつりと聞いた。

 「何も覚えていないのか。自分の名前もか」

 「なまえ……」

  あかねの様子に、天真がたまりかねて声を上げた。

 「どうしたんだよ、おい! お前は俺達と一緒に、ここで鬼をやっつけたら、元の世界

 に帰るんだろ。そのために今まで頑張ってきたんじゃないか。落ち込んでた俺に、はっ

 ぱかけるくらいのお前だっただろ。しっかりしろよ! みんな忘れちまったっていうの

 か? お前の家は? 家族は? 学校は? 何かひとつでも覚えてることないのかよ!」

 「天真先輩、そんなに責めちゃだめだよ」

  詩紋が口をはさむ。

 「あかねっ!!」

  天真がその名をさけんだ時、彼女は、一瞬、肩をふるわせた。しかし、それだけだっ

 た。次の瞬間には、また、途方に暮れたような視線を宙に漂わせるばかりだ。


 「神子の気に、何ら、くもりはない」

 「泰明殿……」

  注意深げにあかねを見ていた泰明の断言に、あかねの側にぴったりとついていた藤姫

 は、顔を上げた。

 「呪われてはいない。穢されてもいない。龍神の神子としての務めには問題ない」

 「りゅうじんのみこ……」

  あかねが泰明の言葉を、ゆっくりとくり返す。

 「そうだ。お前は龍神の神子だ」

 「…………りゅうじんのみこ……って何ですか? 私が?」

 「おいっ! 泰明」

  天真のとがめるような声を無視して、泰明はあかねに向かって答えた。

 「今、お前がいる、この京の危機に際し、京を守護する龍神が人に遣わす神の子、それ

 が龍神の神子だ。お前だけが、龍神と通じ、龍神を呼ぶことができる。この京を救える

 のは、お前だけだ」

 「私が……龍神を呼ぶ……」

 「お前は天命によって、何処かの地より、この京に召還された。この三月(みつき)近

 くの間、お前は我ら八葉とともに、怨霊を払い、四神を解放せんと戦ってきた」

 「……わたしが?」

 「そうだ。覚えていないか」

  あかねは不安げにうなずいた。

 「覚えていなくとも、お前が神子であることに変わりはない。ここにあって為すべき事

 を為すがいい。そのための助力は惜しまぬ」


 「勝手なことを言うな!!」

  泰明の言葉に天真は怒りを隠さなかった。

 「何もわからないままこんなところへ呼び出して、帰るためには鬼と戦って京を救えと

 勝手に重荷を押しつけて! あげく記憶を失う事故にあってまで、あかねを龍神の神子

 として、こきつかおうって言うのか!? ふざけるな!!」

 「ふざけてなどいない」

  ごく冷静に返す泰明に天真は憤る。

 「こいつは記憶がないんだぞ! 頭を強く打って、目には見えないけど、どっか悪くし

 たところがあるかもしれない。だのに、ここにはろくな医者もいやしねえ。お前は心配

 じゃないのかよ!」

 「それは……本当に……あかねちゃん、大丈夫なの……? ずっと長く気を失っていた

 んでしょう?」

  詩紋が不安そうに尋ねると、泰明は感情を乗せず明確に答えた。

 「神子の気に乱れがない。神子の身体に問題はないということだ。記憶がどうして失わ

 れたのかは、わからない。この状態が一時のものなのか、長くこのままなのか、どうす

 れば記憶が戻るかも、わからない」

 「じゃあ……」

 「だが、神子の気はこれまでになく、この京の気の流れとなじみ融合している。龍神の

 力を発現させるのにまったく問題ない。ならば一刻も早く四神をそろえ、鬼を退けるの

 が道ではないのか。いずれにせよ、神子が神子の世に帰るには、それしかない。ならば

 為すべきことは、ひとつだ」

 「そんなのは理屈だろ! こんな不安そうな、何もわからなくなってるこいつに、よく

 平気で、そんなことが言えるな」

 「何もわからなくなっている神子を、騒ぎ立てて追いつめているのは、お前の方だろう、

 天真」

 「なんだと!!」


 「やめてください!!」

  あかねの叫びに、みな驚き、辺りは水を打ったように静まりかえった。

 「何も覚えていないけど……、私がここで、その龍神の神子として、していたことは、

 まだ途中なんですよね? 私がやらなきゃならないことなんですね?」

 「そうだ」

  泰明が肯定すると、あかねは一息入れてその場にいる者すべてを見回して言った。

 「だったら、どうしたらいいか教えてください。私やります。前と同じようにしていた

 ら、忘れたことも思い出すかもしれないし」

 「神子様……」

  藤姫が気遣わしげにあかねに寄り添うと、あかねはやわらかく微笑んだ。

 「あなたもお手伝いしてくれてたのね。かわいい……お姫様みたい。ごめんね。迷惑か

 けちゃうけど、いろいろ教えてね」

 「神子様、そんな、そんなもったいないことですわ。天真殿が申されていることは無理

 もないことなのです。わたくしたちは神子様におすがりするしかない、力無い者です。

 こんなことになってしまうなんて、わたくし、わたくし、もう……」

 「あ、ねえ、大丈夫だよ。私をこうして助けてくれたのはあなたたちじゃない? それ

 はわかるし、信じられるよ。だから教えて。そんな顔しないで、ね?」

  あかねの言葉に、藤姫は、ほとんど泣きそうになりながら、それでもきょう初めて、

 あかねを見て微笑んだ。あかねは、まるで何も心配ないというように、おだやかに笑み

 を返す。その場の緊張は、あかねの笑顔で、一瞬にして、暖かな春の日がさしこんで氷

 を溶かすように、消えていった。


  そんなあかねを見ては、天真もそれ以上泰明を責めるわけにはいかない。

  天真も八葉に違いなかった。八葉は龍神の神子に仕え神子を守る役目を負う者だ。八

 葉がその身にやどした龍の宝玉は、否応なしに、そのことを本人につきつける。天真が

 あかねとともに、こうして左大臣家の庇護の元、この京で動けるのは、帝も認める八葉

 に選ばれたからに他ならない。

  そして泰明の言ったことは、まぎれもない事実だけだ。


  その場にいて息を詰めてこのやりとりを見守っていた者たちは、結局、あかね自身の

 決意と笑顔に救われた形になった。

  彼女は龍神の神子だった。たとえ記憶が失われても。


 「お前の名前は、元宮あかねだ……。『みこ』なんて名前じゃない。『あかね』だ。あ

 かね、なんだよ」

  噛みしめるように天真が言った。

 「龍神の神子で、元宮あかねというのが私の名前……。じゃあ、まずみんなの名前から、

 教えてください。ね?」




  結局、その日のあかねは、藤姫と八葉の名を聞き、龍神の神子として、何をしてきて、

 何をしようとしていたのかの話を聞くだけで、終わった。

  話は、ほとんど藤姫がして、時折、八葉それぞれが必要に応じて口をはさむ形になら

 ざるをえなかった。

  一度態度を決めたあかねは、迷いも見せず、熱心に話を聞いていた。

 「私がそんなすごいことできるの? そうなのかぁ……」

  自分で自分のできることに感心しているあかねは、なんの屈託もないようで、かえっ

 て藤姫は安心したように、次から次へとこれまでの龍神の神子の武勇伝とも言えるよう

 な話をして聞かせた。

  天真は我慢しきれずに、時折、元宮あかねとしての過去、この京に召還される以前の

 ことを話したくてたまらなくなるようだったが、一度に何もかも告げたところで、どう

 なるものでもないと、そこは詩紋がよく押さえた。




  夕刻近くなり、その場にいた者が皆、ひとまず今日の所は神子の前を離れた後、藤姫

 は、ふと何かに気がついた様子で、つぶやいた。

 「友雅殿は、ご自分からは何ひとつ、神子様にお話をされなかったわ……」

  明日から、あかねは、また白虎を解放するために動かねばならない。それには白虎に

 属する友雅の同行は不可欠なのを、彼はわかっているはずなのに、どうしてもっと心や

 すくなっておく努力をしなかったのだろうかと、藤姫はいぶかしんだ。

  これは、いつも話題に事欠かず、なめらかな会話で周囲をなごませる友雅らしくない

 態度のように藤姫には思えた。


 「藤姫、ねえ、何やってるの? 夕御飯いっしょに食べるんでしょ? これ、どうやっ

 て食べるの? こんなお膳って……、私慣れてないみたいだなぁ」

 「まあ、神子様、ご自分で膳を運ばれなくてもよろしいんですのに!」


  あかねに呼びかけられた藤姫は、そんな物思いもすぐに忘れて、神子の世話に立ち戻

 る。いつもと少し違う感じがしたといはいえ、とりたてて問題があったわけでもない友

 雅の態度に、いつまでも気を取られている暇など、今の藤姫にはなかった。









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