憬文堂
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夢の浮橋
仲秋 憬 



  はつなつのゆめのうきはしわたらせばゆみはりつきのいるにまかせて


 「うーん…………読めない……」

  元宮あかねは、京の左大臣邸に据えられた自分の部屋で、ついさっき届けられたばかり

 の文を広げて、ため息をついた。

  薫りよいくちなしの枝に結ばれた文は、薄紫に金を散らした美しい紙で、あたかもさら

 さらと流れる水のように繊細で見事な墨蹟が踊っていた。ここに記されているのは、たぶ

 ん歌のはずだ。歌はかな文字で書かれる。つまりはひらがなだ。日本語だ。


  だが、しかし。


  あかねには、まるで知らない国の外国語の呪文のように見える。英語の方がまだ読める

 かも。

 「まいったなー。最初の『は』しかわかんない。……は……は……はな……? こっちは

 『ゆ』かなあ? こんなの読めないよ。楷書で書いてくれないと」

  しかし仮に読めたとしても意味がわかるかと問われれば、それもまた辛いところだ。

  実のところ二十世紀末を生きる女子高生だったあかねに大昔の和歌は荷が勝ちすぎる。

 「よく知らないけど、もらった歌も読めない姫なんていないよね……」

  かすめる思いに、ついつい暗くなる。



  春まだ浅い頃、龍神の神子として突然召還されたこの京の都で、あかねは運命を受け入

 れ無我夢中で過ごした結果、鬼から京を救い出すことに成功した。生活習慣諸々の違いな

 どで悩む間もない、めまぐるしさだった。

  神子を守る宝玉をその身にやどした八葉たちと、神子に仕える星の一族の末裔たる藤姫

 の力添えで、結果的に、あかねは京を救った斎姫となった。その時点で、元の世界に帰ろ

 うと思えばできただろう。時空をつなぐ龍神の力は、あかねの身の内に満ちていた。

  けれどあかねは帰らなかった。

 「私の元に残りなさい」と言ってくれた人の側にいたかったからだ。

  夏を迎えたこの京で、あかねの立場は、なんとなく左大臣家に縁ある居候姫みたいなこ

 とになっている。神子としてすべきことはなくなった今でも、八葉たちは、入れ替わり立

 ち替わり、あかねを訪ねてきてくれるので、寂しさを感じないで済むのは幸いだ。天真も

 詩紋も、結局、京に残った。二人とも左大臣邸にいてくれるので心強い。

  そして毎日のようにあかねに顔を見せてくれるのは、やはり橘友雅だったが、ここ数日

 は内裏のご用とかで、ふっつりと姿を見せなくなった。そうして届くのは文やら贈り物…

 …というわけなのだ。



 「恐れながら神子様、このお手蹟(て)は橘の少将様のお手蹟では……」

 「えっ、わかるの? これ見ただけで!! 名前なんか書いてないのに!」

  悩んだあげくついに意を決して文を見せた自分付きの女房が、文の書き手を簡単に言い

 当てたので、あかねは心底驚いた。手蹟を見ただけで、誰が書いた文かわかってしまうな

 んて、あなどれない。それとも、この京ではそれが当たり前の教養なのだろうか。

  彼女は藤姫がつけてくれた年の頃も近い娘で、まめまめしくあかねの身の周りの世話を

 やいてくれている女性だ。

 「左大臣様が開かれた先の歌合わせの会にて、お客様の残された短冊を屏風にしつらえた

 ものが、こちらにありますの。その中に橘の少将さまの短冊もあるんですのよ。宴の折に

 拝見したことがございます。ああ、やはりそうでしたのね。男の方でいらっしゃるのに、

 この、かな文字の細やかな筆遣い、墨の濃き薄きのさまなど、お見事ですこと。少将様直

 筆のお文が、こうして並々ならぬお心入れで届くなんて、さすがは神子様ですわ。ご一緒

 に届いた贈り物も、こんなに素晴らしくて。神子様、これにはお返事をさしあげてはいか

 がでしょう」

 「お……お返事」


  思えば神子として京中を怨霊調伏に飛び回っていた時、物忌みの日が来るたびに、一日

 側についていてもらう八葉に、お願いの文を出していた。

  もちろん、あかねは習字なんてまともにできやしない。あれは藤姫に手伝ってもらい、

 字の上手い女房に代筆してもらったのだ。自分で書いていたのは、一緒に現代からやって

 きた仲間である天真か詩紋に出す手紙だけだった。


 「お返事って、やっぱり歌でするんだよねえ」

  歌なんてそんな簡単に作れない。古文の授業で作らされたっけ。しかし、そもそも、も

 らった歌の意味すらわからないのに、どうやって返事をすればいいのだ。

  歌をくれた橘友雅は、あかねが歌に弱いことは知ってるはずだ。友雅が歌を口ずさむこ

 とはしばしばあって、そんな時あかねは必ずといっていいほど意味を尋ねていた。彼は、

 その度に親切に教えてくれたが、内心、物知らずの娘だと思われているかもしれない、と

 感じたものである。

  わからないままにする方がいやだったから、友雅が歌にする情景を知りたかったから、

 それでもためらわずに聞いていたけれど。


 「五七五、七七かぁ……」

  友雅がくれた歌はいったいどんな意味なんだろう。声に出して読んでもらったのはいい

 が、意味までは聞けなかった。歌を読んでくれた女房は、神子であるあかねを必要以上に

 買いかぶっているところがあって、まさか、あかねが歌の意味もわからずに困っていると

 は夢にも思っていないようなのだ。聞き出しにくい雰囲気に、つい読んでもらうだけで終

 わってしまった。

  藤姫に尋ねてみようかとも思ったのだが、友雅の文は多分に秘密めいた私的な匂いがす

 る文で、なぜだか藤姫に相談するのもためらわれる。

  だってこれはもしかしなくても恋文じゃないかと思うのだ。内容はわからなくても、そ

 れくらいは雰囲気でわかる。せっかく友雅がくれた恋文、できれば、人に聞かずに、自分

 だけで密やかに読みとりたい。


  一人になってから、何度も声に出してくりかえし読んでみた。

  けれど、確かに日本語のはずなのに意味がわからなかった。全部ひらがなで音だけを聞

 いても、なおわからない。

  漢字が使われていたなら、読み方がわからなくても意味がわかるかもしれないのに!


 『はつなつの ゆめのうきはし わたらせば ゆみはりつきの いるにまかせて』


 『はつなつ』っていうのは、初夏…季節のことだろう。おそらく。暦的には確かもう初夏

 でない気がするが、そのことに意味があるのだろうか。あかねは陰暦にまだ慣れていない

 のでピンとこないのだ。

 『ゆめ』というのは、夢だとわかるが、『夢のうきはし』となると何やらあやしい。どこ

 かで聞いたことのあるような、きれいな言葉だが意味は知らない。

 『わたらせば』もよくわからない。うきはしって橋のことだろうか? その橋を渡るって

 言ってるの?

 『ゆみはりつき』の『つき』は、たぶん『月』で間違いないだろう。友雅は月のたとえを

 好んでいるし、あかねのこともしょっちゅう『月の姫』と呼んでいるから。

  でも『ゆみはり月』ってなんのことだろう。それを『いるにまかせて』? まかせるっ

 て何をまかせるの?

 
  長いこと考えに考えて、確かだと思える箇所は『初夏』と『夢』と『橋』と『月』だけ

 だ。どうやって返事を出せばいいのだろう。こんなことをしていたら日が暮れてしまう。

 返事を出す機会を逃してしまう。

  とりあえず返歌を考えなければと、あかねは思い至った。意味ははっきりわからなくて

 も、こうして心のこもった文をもらったことがどんなに嬉しかったかだけは伝えたい。

  それはそんなに難しく考える必要はないのかもしれない。友雅だって言っていたではな

 いか。「深く考えないのがコツ」だ、と。


  その時、ふと中学時代に学校で暗記した百人一首を思い出した。国語の授業で冬休みに

 覚えてこいと出された課題で、年明けには体育館でかるた大会までやったのだ。

  思えばあれは和歌じゃないか。今までなんで忘れていたんだろう。

  意味はうろ覚えだけど、百首の歌は、まだほとんど覚えている。この京で、もう詠まれ

 ている歌なのか、これから詠まれる歌なのか、あかねにはわからないが、友雅だって、い

 つも自作の歌を詠んでいるわけじゃないと言っていた。いい歌は折にふれて、繰り返し皆

 に詠まれるものだとも言っていた。古の歌を部分的に生かして歌を作ってもいいのだと。

  この世界にこうるさい著作権などなくて、盗作だなんて言われたりはしないらしい。自

 分の作った歌が人々の口の端にのぼってこその歌人なのだ。


  そういえば『あかね』という名前も母親が好きだった歌からつけたと聞かされたっけ。

 万葉集の有名な恋歌だった。そんなにくどくど悩むようなことじゃないのかもしれない。


  それだったら!

  ヘタでも直筆の方が気持ちが伝わるような気がして、あかねは先ほど文を読んでくれた

 女房に硯箱の用意を頼むのだった。





  日はすっかり落ちて、夏の匂い立つような夕暮れのなごりをとどめた宵を迎えていた。

  すでに半蔀(はじとみ)は下ろされ、そろそろ灯りも消して休もうかと思案していた時

 に、ほとほとと妻戸を叩き返事を待たずにあかねの前に現れたのは、さもありなん。

 「友雅さん! どうしたんですか? こんな時間に」

 「神子殿、今宵私が君をこうしてたずねるのを許してくれるね。あまりのうれしさに内裏

 からこちらへ来る道中も雲の上を渡ってくるような心地がしたよ。なんとか宿直(とのい)

 を代わってもらって、取る物もとりあえず来てしまった。私にもまだこんな情熱があった

 のだね。本当に君は私の心をとらえて離してくれない。私は君という光を求めずにはいら

 れないんだ。この物狂おしさをいったいどうしてくれるんだい?」

 「と、友雅さん……?」

  なんだか様子がおかしい。言葉だけ聞いていると変わらぬようにも思えるが、友雅の態

 度は、普段の洗練されたそれとはほど遠いものだった。

  いつもの、余裕たっぷりであかねや他の八葉たちをからかいまじりに挑発し、その反応

 を楽しむような、友雅ではない。

  熱に浮かされているような、もどかしくて焦れているような、そんな青い友雅を、あか

 ねは初めて見た。

  しかし、物思いに乱れた様も、友雅の美しい公達ぶりを損なうものではない。

  格子から漏れ入る月明かりと、燈台の火の照り返しで見る友雅は、妖しいまでの凄絶な

 美しさに満ちていて、あかねをとらえる。


 「ああ、もう、どうにかなりそうだ。こんな自分は知らなかったよ。昔はものを思はざり

 けり……とはよく言ったものだ。この歳になってもね」

 「あの、友雅さん、いったいなにが……」

 「神子殿にあんな歌を詠ませて、私が放っておけると思ったのかい? まったく君は自分

 を知らない可愛いくて憎い姫君だよ。でもおかげで今宵一つ臥所(ふしど)にと思えば、

 どうしてなかなか、君という天つ風に翻弄される身というのも悪くはないね」

 「???」

 「もう有明の月をひとりでながめさせたりはしないよ」

 「友雅さん! さっきから友雅さんの言ってることって、私にはさっぱ…………んっ」


  友雅は躊躇せず、すでに褥(しとね)の上にいたあかねの側へ寄ったかと思うと、いき

 なりあかねの言葉を遮ってしまった。こんなに荒々しく性急な友雅をあかねは知らなくて、

 抵抗するいとまもなかった。唇を重ねられ、腰を引き寄せられ、溶け合うように抱きしめ

 られる。友雅の身につけていた直衣からは橘の香がした。


  息もつけないような激しさにみまわれて、あかねが何もわからなくなってしまってから、

 ようやく友雅は彼女の唇をわずかに解放した。あかねは友雅の腕の中で放心したままだ。

 「いったい、いつあんな大人の歌が詠めるようになったのか言ってごらん? 私以外の男

 と文でも交わしていたの? 相手は誰? 怒らないから教えておくれ。天真や、頼久や、

 泰明殿は、歌など寄越さないだろう? 御室の皇子に教えを請うたの? それとも、まさ

 か鷹通かい?」


  抱きしめられたまま耳元で囁かれて、あかねが正気でいられると、彼は思っているのだ

 ろうか。

 「ああ、油断も隙もないとはこのことだね……いや、悪いのは私だ。決して君を軽んじて

 いたつもりはないけれど、もっと早く手を打つべきだったな。左大臣家は人の出入りが多

 すぎる。まして君は龍神の神子だしね。表だって神子姫に用事があると言われて、目通り

 を妨げるわけにもいかないし。藤姫は私の味方をしてくれないし、本当に悩ましいな」

  今まで知らなかったせっぱ詰まった光をやどした友雅の瞳があかねのすぐ目の前にある。

 「でも、あの歌を送ってくれたのは、私にだけだね、愛しい私の月の姫。いや、そうでな

 くても、もう止められやしないけれどね」

 「…………ともまさサン……」

 「もう夢路についてしまう気かい? お供しましょう、姫君。夢の浮橋はふたりで渡らな

 ければ意味はないだろう?」

 「うきはし……」

 「そうだよ。内裏に届いた君の返歌を見て飛んできた恋人を置いていくなんて、つれない

 ことは言いっこなしだよ」


 「……歌を……いただいたのがうれしくて、それでお返事しなくちゃって……」

  ようやくはっきりしてきた意識を現実に引き戻しながら、いつになく、か細い声であか

 ねは答えた。

 「ああ、うれしいのは私の方だよ」

 「でも、私は本当の姫君じゃないから、歌なんて作れないし……字だってうまく書けない

 し……」

 「神子殿」

 「友雅さんは、きっと、すてきな歌だってあちこちからたくさんもらっていて……でも、

 私もお返事してみたかったから……」

 「あんなにうれしい歌をもらったことなどないよ、神子殿」

 「違うの、友雅さん。あの歌は……」

 「もう、おしゃべりはやめだ。夏の夜は短い」

 「え……っ、あの、あ……」


  ふたたび口をふさがれそうになって思わずあかねが身をすくませると、友雅は一息いれ

 て、おびえた彼女を安心させるかのように微笑んだ。

 「君は自分を姫君じゃないと言うけれど、私にとっては私を本気にさせるこの世でただひ

 とりの愛しい姫だ。この想いを伝える術を他に知らない私にできることといったら、ああ

 して歌や贈り物を届けるしかないんだ。そうやって妻問いするしか能のない哀れな男さ。

 君のいた世では、想いを伝えるのに、どうすればいいか教えてくれるかい? 私にそれを

 試させてくれる?」

  あかねは首を横に振った。

 「これ以上にすてきな告白なんてないです。私にはもったいないくらい」

 「なにをばかなことを!」

  あかねを抱きしめる腕にふたたび力がこもる。あかねはなんとか友雅の胸に手をあてて

 彼を見上げた。

 「友雅さん、あの歌はね、私が作ったんじゃないの。私のいた世界に昔の歌として伝わっ

 てるのを借りたの。季節が合わないところを少し変えて。百人一首っていうのがあってね、

 たぶんこっちでもう詠まれた歌かなって思ったんだけど」

 「でもあの歌を選んで、ああして文に書いて私に届けてくれたのは、他ならぬ君だろう?」

 「それはそうですけど、本当のこと言っちゃうと、私、歌の意味は……」

 「────いま来むと言ひしばかりに水無月の有明の月を待ちいでつるかな────」

 「覚えちゃったんですか?」

 「ふふっ、忘れないよ。忘れてくれと言われてもね」

 「……えっと、それは、あの、なんていうか……」


  友雅がくれた歌の意味もわからなかったけれど、同じ雰囲気がありそうな『月』の言葉

 が入っている歌を、なんとなくひらめきで選んで書いたとは、とても言えない。

  確か『これからすぐに行くよと言ったあなたを待っていて、とうとう有明の月が出るま

 で過ごしてしまいました……』というような意味じゃなかったかと思う。正直なところ、

 この『有明の月』がどんな状態の月のことなのか、あかねは知らなかった。

  それに、本当は『言ひしばかりに長月の』が正しい元の歌だけれど、今は六月だから

 『水無月』に改作してしまったのは、マズかったかもしれない。

  でも、友雅のくれた歌も『初夏』だったし。


 「今宵の月は下弦の月だよ。ともに初夏の夜を有明の月まで……ね?」

  友雅の手があかねの背をさまよい始めていた。

 「あの、だから、私には意味が……」

 「知らないで書いたなんて言っても、もう遅いよ、私の月の姫。それに知らずに選んでい

 たなら、なおさら、それは君の内にある想いが表れただけのこと。忍れど色に出りけりわ

 が恋は────。もう待てないし、待たない」

  友雅はそう宣言して、あかねの羽織っていた重袿(かさねうちぎ)をするりと剥いでし

 まう。あっという間に単衣にされたあかねがうろたえる間もなく、気が付けば褥の上に押

 し倒されていて、前をくつろげた友雅の鎖骨の間にある消えない宝玉が、あかねの目のす

 ぐ上で、はかない燈台の明かりにきらめいた。

 「まだ誰も踏みいることのなかった白雪に、最初に足跡をつけるのを許してくれるね」

 「友雅さん……」

 「冬までなんて待てやしない。そんなことをされたら、焦がれ死にしてしまうよ。哀れと

 思ってくれるなら、どうか情けをかけておくれ」

  友雅の本気の懇願にどうして抵抗できるだろう。まして、あかねは彼とずっと一緒にい

 たくてこの京に残ったのに。

 「神子殿、どうか……」

 「あかねです。知っているでしょう?」

 「その名を呼ばせてくれるのかい? 女が真の名を男に呼ばせることが、どういうことな

 のかも、君は、きっと知らないね。それに私はつけこむよ。もう離さない。君の一切は私

 のものだ、あかね」


  友雅から与えられる愛撫で、ますます熱くなる身体をもてあましはじめたあかねは、彼

 の右手が腰ひもにかかっていても、もう止める意はなかった。

 「そして私の一切は君のものだよ……それを、これから、わからせてあげる」


  そうして、あかねにとって生まれて初めての熱をはらんだ夜が更けていくのだ。有明の

 月を迎えるまで、しめやかに。





 「神子様! 神子様、おめざめでいらっしゃいますか? 御簾をお上げしてよろしいです

 か? きょうは私と碁を打つお約束でしょう? 折角ですから朝餉もご一緒にと思って、

 こうして来てしまいましたの…………!!!!! とっ、とっ、友雅殿?! どうしてこ

 んなところに! なっなぜ……ここは神子様のっ」


  几帳のとばりから現れた人影がふたりだったことに藤姫は狼狽した。

  藤姫に付き従ってきた周囲の女房も驚きを隠さずにいる。

  そんな周りの驚きなど意に介さずといった風情なのは友雅だけだ。

  あかねの細い身体は友雅にしっかりと抱き込まれてしまっていて、藤姫の目からは隠さ

 れていた。

 「姫君が朝から大きな声をたてるものじゃないよ。後朝の別れを惜しんでいただけさ」

 「きっ、きっ、きっ、き、きぬぎぬ……」

 「ああ、藤姫、今宵と、明日の晩と、またこちらにうかがいます。明後日にはお餅を用意

 していただけるね」

 「…………!!!」

 「ではね、あかね、今宵また」


  真っ赤になってにらみつける藤姫の目の前で、友雅は嫣然として、傍らに抱き寄せてい

 たあかねに、几帳にかけていた自分の衣をふわりと着せかけてみせた。そうしておいてか

 ら、いまだ夢の中にいるような心地らしいあかねに、しっかりと口づけて、自分は褥の脇

 にうち捨てられていたあかねの袿を一枚身にまとうと「見送りは無用だよ」と告げて、ゆ

 うゆうと藤姫の目の前を横切り、帰っていってしまった。

  怒っているはずの藤姫でさえ一瞬見とれる、にくらしいほどの男ぶりだった。友雅の姿

 がすっかり見えなくなってから、藤姫は我に返った。


 「ななななななな、なんでっ、こんな、神子様、これはどういうことですの? まさか昨

 夜、友雅殿が無理強いしたのではないでしょうね? だったらあんまりです。神子様? 

 ねえ、神子様!」

 「あ……藤姫……、えっと文を、そう、歌をもらったの……、それで、お返事して……」

  まだゆったりと着せかけられただけの衣のあわせからのぞく、あかねの白い肌に散るい

 くつもの赤い花びらが、ひどくなまめかしくて、たった一夜で乙女の衣を脱ぎさられてし

 まったことは、一目瞭然だった。

 「歌? 歌って……これでしょうか?」

  部屋の隅に置かれた文箱の一番上に開いたまま置かれている紫の薄様を手に取ると、藤

 姫は書かれた歌を声に出して読んだ。


 「──初夏の夢の浮橋渡らせば弓張月の入るにまかせて──」


  藤姫の顔がますます曇る。

 「神子様……なんてお返事されたんですの? うかがってもよろしいですか?」

 「──いま来むと言ひしばかりに水無月の有明の月を待ちいでつるかな──」

 「そんな神子様っ! 友雅殿に、そんなあぶないお返事をしたんですの?! こんな、こ

 んなことって、こんなことって……神子様、聞いてらっしゃいます? 神子様っ!」



  夢の浮橋をわたってしまったあかねには、もう歌の意味も、藤姫の憤りも、うつつに響

 かず、昨夜の友雅の残り香をとどめた衣を引きかぶって、ぼんやりとするばかりだ。

  友雅の「今宵また──」のささやきが、いくども耳の中でこだまする。

  裏読みすれば、かなりあからさまな妻問いの文に、自分がどんな返事をしたかは、身を

 持ってわからされてしまった。

  けれど友雅と三日夜を過ごすことが、どういうことなのか。自分がいったいどうなるの

 かを、まったく知らないあかねが、あとでとことん困り果てるのは、また別の話である。




                   【 終 】


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