憬文堂
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◆   古風なロマンス
 Romance antique de Monaco
 ◆

   仲秋 憬


<日曜日>



 素晴らしい五月の空。

 F1モナコグランプリの決勝は、晴天で、コンディションは上々。絶好のレース日

和だ。

 昨夜、詩紋と天真はホテルに戻ってきても、あかねをそっとしておいてくれた。

 おかげであかねは、だいぶ気持ちの整理をつけることができた。

 ほとんど夜明けと共に起き出して身支度をする。部屋の扉の下から差し込まれてい

たメモには詩紋の几帳面な字で『一緒に朝食を食べてレースに行こうね』という一言

とその時間が書いてあった。

 書かれた時間に合わせて朝食をとりにレストランへ出向くと、詩紋と天真がいて、

当たり前のように朝のあいさつをしてくれた。

「おう、早いな。あかね」

「おはよう、あかねちゃん」

「おはよう、いよいよだね」

「天真先輩はすぐパドックに行くけど、僕らは今日はまっすぐスタンド席に行こうね、

あかねちゃん!」

「うん」

 詩紋が笑顔で誘ってくれるのに、あかねも精一杯の笑顔で返事をした。




 初めて上がるスタンド席は、それこそ熱狂のるつぼだった。誰もが目の前のレース

に興奮して夢中になる。

 贔屓のチームのTシャツやキャップを身につけ、お気に入りのレーサーの名を叫び、

国やチームの旗を振って、声援を送る。

 詩紋とあかねは半ば圧倒されて、そのスタンドの中で固唾をのんでマシンが通り抜

けるのを待っていた。常にレースの様子を映す大モニターも設置されたスタンドが、

大きく揺れる。

「頼久さん、スタートすごかったみたい!」

 詩紋が大声であかねに話しかける。

「ほんと?」

「一気に4台抜いて3位だって」

「うわぁー!」

 モナコのレースは78周。

 完走できるかどうかは神のみぞ知る。最初のコーナーを抜けてきた、化け物のよう

なマシンを操る命知らず達の姿が見えると、スタンドの熱は一気に燃え上がる。

 凄まじい轟音とともに、放たれた矢よりも速くマシンが数台駆け抜けて行く。その

トップ集団の中でコートダジュールの海より青い車は、確かにフジワラのマシン、頼

久だった。

「すご……い……耳が割れそう」

 友雅とボートの上で見たフリー走行とは違う。

 コースとの距離は、あの時の方が近かったが、決勝戦という実戦のビリビリした迫

力と周囲の熱狂がシンクロしていく様は、比較にならなかった。

「また来るよ! ほら!」

「え、もう?」

「だって1周2分もないんだよ!」

 息をつく間もない戦いを目の前にして、あかねは言葉を失う。頼久のマシンは明ら

かに速く、新人とも思えない走りを見せていた。

 頼久が目の前を通るたび、あかねは隣に座っていた大柄な男にフランス語で話しか

けられ肩をばんばん叩かれた。日本人レーサーの頼久をほめてくれているようだった。

 あかねはその男と握手をして、頼久の走りを見守った。

「頼久さーん! がんばれー!」

「がんばってー!!」

 詩紋とあかねは気が付けば声を枯らして叫んでいた。

「煙! 車から煙上がってる!」

 大型モニターに映し出されたマシントラブルは、頼久を含む先頭グループを巻き込

んでいるようだ。

「セフティカーが出るぞ」

「頼久さんは? 頼久さん大丈夫かな」

 あかねのつぶやきに詩紋が答える。

「エンジンブローみたい。あの車、予選もふかしてたんだよ」

「クラッシュとか大事故じゃないよね。頼久さんがリタイアになっちゃったら……」

 白煙とともにトンネルに飛び込んだマシンはすぐにその姿を現した。煙の中に確か

に認められる青い影はアランチャーノカラーの頼久の車だった。

「きゃー!」

「やったーっ!!」

 手を取り合って喜ぶあかね達の前を、更なるスピードでマシンは走り抜けていった。




 興奮の78周を走り終えて、頼久は堂々の4位入賞という結果を手にした。

 もうあとほんのわずかで表彰台を逃したが、新人のモナコとは思えない素晴らしい

結果だった。

 割れるような祝福の拍手に包まれた表彰式までながめてから、あかねは詩紋ととも

にスタンドを後にした。

「すごかったね。さすが頼久さん」

「まだ耳がわんわん言ってる……」

 あかねは耳を押さえた。

「耳栓しててもこれだもんね。……あかねちゃん、パドックには行かない?」

「……うん。やめておく。よかったら詩紋くんは行って。頼久さんや天真くんに私の

分までお祝い言ってきてくれたら嬉しいな」

「うん……それじゃ、あかねちゃんは、ホテルまでコースを歩いて帰るといいよ」

「コースを?」

「モナコグランプリくらいだよ。F1が走っていたコースを実際に歩けるところなん

て。絶対そうするといいよ。天真先輩も言ってた」

「そう……。わかった。せっかくだし歩いてみるね」





 パドックへ向かう詩紋と別れて、あかねは彼に言われたとおり、レースが終わり、

普通の道路に戻ったコースへと出た。

 あれほどけたたましく響いていたエンジン音がなくなり、ついさっきまでF1マシ

ンが走っていた特別のコースを普通の乗用車が走っているのは、不思議な感覚だった。

「何だか全部夢みたい」

「それは困るね」

 低くなめらかで艶のある大人の男の声が耳元でした。

 聞き間違うわけがない。いつも突然あかねの鼓動を跳ね上げさせて翻弄する。大好

きになってしまった声だった。かがみこむようにしてあかねの耳の側で話しかけるの

は、最初に会ってからの友雅の癖のようだ。

 それはF1レースのモナコで声が届かないからという理由ではない。こうして話し

かければ、あかねが逃げられないと、彼は知っているのだ。

「友雅さん……」

「君がコースを歩いて帰るお供をさせてくれないか」

 あかねは抗えずに、うなずいた。



 こうしてモンテカルロを肩を並べて歩いていると初めて友雅に会った時を思い出す。

あの日も人形博物館へと案内してもらい、どきどきしながら会話して歩いた。

 恋は一瞬にして落ちることもできる。

 そして今まで漫然と過ごしてきた時間の何十倍も濃密な、ありとあらゆる感情を

いっぺんに味わうことになるのだ。こんな気持ちがあることを知らなかった。

 ロミオとジュリエットが初めて会ってから死ぬまで、どれくらいだったろう。確か

一週間もない。四日、だったか。そんなことはお話の中でしかあり得ないと思ってい

たあかねは、すでにいない。

 もう友雅には会えないと思っていたが、今、こうして隣を歩くのは嫌ではなかった。

最後にいい思い出にできるだろう。ここがモナコでよかったとあかねは思う。



「あそこのガードレールにぶつかったマシンがフジワラでなくてよかったよ」

 友雅が指をさしたガードレールにはぶつかってリタイアした車の跡が塗装と擦れた

黒い大きな傷になって残っている。レースの間だけの三段ガードレールも、じきに撤

去され、日常のものに戻るのだろう。

 傷跡の周りにはゴムの破片がまだ散らばっていた。

 レースの名残を確かめて歩きながら、友雅は静かにあかねに問いかけてきた。

「レースが終わったら君は日本に帰るのだね」

「……はい」

「当然だ。君は旅行者で……私とは違う」

「…………はい」

「君が行ってしまったら……私は東の海を見るたびに君を想うだろうな」

「そんなこと……ないですよ。頼久さんは、次のヨーロッパか、その次か……近いう

ちに必ず表彰台に上がるチャンスが来ると思うし、そうしたら友雅さん、目が回るほ

ど忙しくなりますよ、きっと」

「それは困ったね。ああ……だとしても、それなら尚、はっきりしていることがある

よ。鷹通にずっと言われていたんだ」

「鷹通さんに何を?」

 友雅は、そのあかねの質問に答えず唐突に告げた。

「だから今度は私が行こう」

 あかねは顔を上げる。友雅が微笑んでいる。それまでの感傷的な気分を振り払った

ような笑顔だ。

「日本に行くよ。そうだな……秋には必ず」

「そんなに早く?」

「私は遅すぎると思うけれどねえ」

 行きずりの旅行者をもてあそんだプレイボーイの烙印を押された。だから今度は立

場をちょうど反対に入れ代わってみようと友雅は提案する。

「そうしたら、君は私を案内してくれなくてはいけないよ。まずは京都だ。私の母が

育った町だけれど、私は、ほとんど知らないのだよ。君のお気に入りを教えてくれな

ければ」

「友雅さんが私にマティスの教会を教えてくれたみたいにですか?」

「そう。嫌かな?」

「嫌なわけないです。でも……友雅さん、どうして?」

「君と会わずにいられない。離れているのがつらいから。もっと君を知りたいし、私

のことを知って欲しい。こんな気持ちになったのは初めてだと言ったら、君は笑うだ

ろうね。私も自分が恐ろしいよ」

「本当に……?」

「もう君に嘘は言わない……言えないよ」

 真摯に誓う友雅をあかねはひたすら見つめた。

「あのヴァンスに君を連れ出した日……礼拝堂の私に嘘はない。それを君に信じても

らう機会を私にくれないか」

 あかねの鼓動が、また跳ね上がる。夢がかなう予感にはちきれそうだ。彼は信じる

に値する男で、そうでなかったら好きにならなかった。迷うことはない。

「じゃあ……、じゃあ私がんばります!」

 あかねの真剣な様子に友雅が笑った。

「楽しみだ……本当に」

 晴れやかな笑顔はあかねを釘付けにする。しかし、それだけで終わらなかった。

「でも残念ながら私も日本に、そのまま永住はできないだろう」

「それは……当然……ですよね……」

「だから考えたのだよ。君は今からイタリア語を猛勉強する」

「イタリア語ですか?」

「そうだよ。君はイタリア歌曲が歌えて、巻き舌も上手にできる……きっと、すぐに

会話も上手くなる。練習相手には私がなるから、コレクトコールで、いつでも電話を

かけておいで」

「友雅さん……」

「そうしてね……そう遠くない先に、君はミラノに来るんだ」

「ミラノ?」

「世界一の劇場スカラ座がある美しい町だよ。パリにもローマにも劣らない。オペラ

を学ぶなら……おいで」

「……留学ですか?」

「ああ、私のところから芸術学校へ通うといいよ。きっと町の全部が君の先生になる

ね。月曜日から金曜日の昼間、君は好きなだけ勉強したらいい。その間は私も鷹通に

邪魔されないように仕事を片付けよう。ただし……」

 友雅は海沿いの道路で唐突に立ち止まると、両手であかねの頬をはさみ、かがみこ

んだ。彼の長い髪が、あかねの肩へ流れて落ちる。ふたりの瞳には、もうお互いしか

映っていなかった。

「週末と夜はすべて……君は私のものだ」

「友雅さん!」

「ヴァカンスはコートダジュールで過ごそう。モナコグランプリにはフジワラの応援

に来てもいいよ……ただし私と一緒にだ」

 友雅がくすりと笑う。あかねは彼から目を離せない。

 笑っていた瞳が、ふいに真剣なものになる。

「はいと言って」

 いつも軽やかに甘い言葉をささやく大人の彼。

 ただ、頬にふれている手が、これまでよりも固くひんやりしているように感じられ

るのは気のせいだろうか。

 友雅も緊張したりするのだろうか。

 ふたりでいる時、あかねの心臓ばかりがドキドキして死にそうになるのだと、ずっ

と思っていた。

 ……返事を……返事をしなければ。

 友雅の真剣な瞳が、あかねを追いつめる。

 彼の目の中をゆらりとよぎる影を振り切るように、あかねは口を開いた。

「……友雅さ……ん……」

「あかね、返事を」

 もう、あかねは恐れない。友雅が自分を本気で望んでくれるなら、信じられないく

らい勇気がわいてくる。

 彼が将来の夢を見られないなら自分が見よう。そしてそれを本当にするのだ。

 あかねは友雅の首を抱き寄せてキスをした。

 初めてのあかねからのキスは、一瞬、羽がふれたような軽いものだったけれど、友

雅を驚かせるのには充分だったようだ。

 彼の目が驚きに丸くなるのを間近で見て、あかねは満足そうに笑った。

「はい……!」

 そう返事をした途端、嵐のような口づけと抱擁があかねを包み、翻弄した。



 鮮やかな夕暮れの後に夜の帳が下りて、シトロンのような月明かりが、ふたりを照

らす。

 まるで祈りのような約束の誓いのキスは、夜通し繰り返され、少女の白い肌に刻印

された。







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